宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.12.03
  • 橘宏樹

学園都市の異常なる日常 〜人文系軽視なんてとんでもない⁉︎~

今朝のメルマガでは、英国留学中の橘宏樹さんによる『現役官僚の滞英日記』最新回をお届けします。この秋よりロンドンからオクスフォードへと学びの場を移した橘さん。観光客の目線ではただの田舎町にも思えてしまうオクスフォードですが、その「内部」に隠されている「異常なる日常」とは? まるでハリーポッターのような入学式の様子や、学生同士の交流で見聞した「オクスフォード独特の知的風土」についてレポートします。


 

こんにちは。橘です。現在、オクスフォードでの学生生活が6週間ほど過ぎたところです。田舎街に引っ込んで、大学とカレッジ(寮)を自転車で往復する毎日です。ロンドンでの日々に比べて、非常に静謐な環境で穏やかに暮らしています。

ロンドンで学んでいた時期は、経済、社会、政治、芸術の世界的中心地に暮らしていましたから、ある意味新しい気づきを得ることは容易でした。対して、オクスフォードは本当に、大学しかない小さな田舎町です。
クラスメイトたちとの関係やアカデミックな交流はより濃密になったのですが、社会的な活動範囲はかなり狭くなりました。各界の最先端を走るPLANETSファミリーの方々の記事を拝読して非常に刺激を受けているなかで、この連載ではどういう内容で貢献できるだろうかと考えながら暮らしています。

オクスフォードの知の伝統を伝えるレポートは世のなかに既にたくさんありますから、それで終わらないようなものをご報告できたらいいなと思っているのですが、ようやく最近になって、900年近くかけて構築されてきた知のプラットフォームのスタイルと、その様式の目的や必然性、場合によってはその弱点、それから教育の方法論とその背景にある哲学やスタンスといったことについてならば、僕からみなさんにご報告するに値することがあるかもしれない、と思えるようになってきました。
そこで手始めに今回は、オクスフォード大学の入学式の様子や、学生たちとの交流の中で感じた微妙な違和感、知のプラットフォームの一端を担う勉強会の様子についてご報告したいと思います。

■ オクスフォード大学の入学式

10月初旬、オクスフォード大学の入学式に参加しました。新入生は、男性は白い蝶ネクタイ、女性は紐タイをして、アカデミックガウンを羽織ります。(蝶ネクタイなんて生まれて初めてつけましたよ。)衣装は街中の商店で売っています。黒いスーツも含めて上から下まで揃えると、だいたい300ポンド(6万円くらい)はかかります。このアカデミックドレスによる正装は、卒業式のほか、学期末試験の際にも着用するとのことで、この時はさらに胸にカーネーションも挿すそうです。

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▲入学式のついでにハリーポッター風のコスプレも楽しむクラスメイトたち。(この中に僕は居ません)

入学式は、カレッジとユニバーシティそれぞれが主宰するものが同日に行われました。まず朝、カレッジの方では、食堂を兼ねた大講堂に集められた正装した新入生にパンとコーヒーとデザートが振舞われました。
しばらくガヤガヤと歓談していると、銅鑼(!)が打ち鳴らされ、静粛になったところ、真っ赤なアカデミックドレスを羽織ったカレッジの校長から式辞がありました。概ね、「さあ、今日はいよいよmaticulation(マティキュレーション=入学式。後述)だね、行っておいで。あ。その前に写真撮ろっか」というような内容で、全体的に新入生を歓迎するどころか、むしろ「送り出す」「共に行く」という寛いだ雰囲気でした。正装する校長の佇まいも、さしずめ子供の入学式に同行する一張羅のお父さんという風です。

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▲カレッジの中庭、正装して記念写真に臨む友人達 

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▲カレッジの校長らしき人物

もっとも、こうした空気はカレッジや校長のキャラクターごとに異なるかもしれませんが、厳しさや身分の上下がはっきり示されているなかでも、上の者(教員)から下の者(学生)に対する確かな愛情というか、「見守っているよ」という視線、包容力を、この大学での生活を形作る様々な決まりごとの端々から感じられます。
伝統とは形式主義にあらず。様々な決まりごとや習慣は、長く若者の愛し方を洗練させてきた工夫そのものであり、オトナ達が温かい愛情を通わせてこそ機能する教育手段に過ぎないのだな、と。
30歳を過ぎてまた学生をやることからなおさら、そういうことが染み入るように感じられる思いがします。たとえそれが、エリートがエリートを選んで与える、時に鼻持ちならない類の愛情であったとしても。
この点、ロンドンでの学校は、膨大な課題と必読文献を浴びせるとともに、厳しいクリア基準を課し、オフィスアワーに教授を訪ねればいろいろ教えてもやるが、「学ぶもドロップアウトするも自己責任」というような比較的突き放したスタンスでしたから、実に対照的に感じられます。

カレッジの中庭で記念のポートレートや集合写真を撮影した後、今度は、ユニバーシティが主宰するmaticulation(マティキュレーション)と呼ばれる儀式に参列しました。いわゆる正式な入学式としてイメージしていただいて良いのですが、これによって入学を「許可する」、オクスフォードの学生の身分と権利を「授与する」という意味が強いようで、ゆえに厳しく正装が求められています。カレッジ2~3個でひとグループにされた1000人程度の新入生(家族等の入場は不可)が、指定された時間に天井画の美しい格調高い講堂に集められました。

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▲maticulation直前の会場内。

しばらくすると、オクスフォード大学の校章を背負ったシンプルながらもゴージャスなアカデミックガウンを羽織った学長が、いかにも儀典用というような、大きな錫杖を持った人に先導されながらゆっくり入場し高座に立ちます。その後、代表の教授がラテン語で何か呼びかけ、学長が何か応えるというやりとりがありました。続いて、”Ladies and gentlemen, welcome to Oxford”と英語で挨拶を始めたので、「うわ。ラテン語かよ。全然わからんよ。ラテン語でこの後も式辞が続くのか……?」と不安に思っていた会場からは安堵の笑いがどっと起こりました。

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▲別アングルから。正面の高座に学長が、下の座席に教授陣やカレッジの校長等が座ります。

その後は、おそらく20分にも満たないジョーク交じりの講話があり、内容は、概ね、「ここは古いだけじゃない。最先端だ。最高だから頑張れ。楽しめ」的な、わりとあっさりとしたものでした。何か印象深いことを言おうという力みも、重々しくやろうという姿勢も感じられませんでした。
現在学長を務めるのはイギリス出身の化学者であるアンドリュー・D・ハミルトン(Wikipedia)ですが、彼はオクスフォード大で学生歴も教員歴もない学長(史上初)です。ハミルトン学長がこうした力みのないキャラクターであるのは、着任してまだ数年と間もないためオクスフォード的重厚感に染まっていないからなのか、もともとリベラルが信条であるからなのか(元イエール大学長)はわかりませんけれど。

そして、事実上、この講話だけでmaticulation自体も終了しました。カレッジは38個ありますし、学長も多忙ですから1日で終わらせたいようで、厳かさは保ちつつも、回転数を重視した進行であったということでしょう(つまり、学長は同じジョークを10回は言うのでしょう)。
退場後の学生たちは、それぞれ友達や家族とともに、格調高い建物や緑をバックにして、アカデミックコスプレ撮影会を大いに楽しんでいました。そして、その日の晩のうちに、僕の同級生たちのfacebookのプロフィール写真は、誇らしさと喜びに満ちた笑顔へと次々に更新されていきました。

ちなみに、僕がロンドンで通った1年目の大学では、このような儀式どころか、入学式すらありませんでした。第一週は登録や諸手続、オリエンテーションがあり、次週から「はい、授業開始~!」という感じでした。これはこれで簡単ですが、なんだか物足りなさも感じていました。あらためて、だいぶリベラルな学校だったのかなと思います。しかしさすがに卒業式はあるようで、この12月僕も参加する予定です。アカデミックドレスの貸衣装もあるようです。
また、遠い昔に参加した東京大学の入学式を思い出しますと、武道館に全新入生と家族約1万人が集まる巨大な催しで、半日がかりで一度きり。来賓、総長の式辞・祝辞、新入生代表の宣誓、現役学生部員の演舞や演奏など、なかなか長い構成だったと記憶しています。総長式辞は新聞やネットで公表され、時宜によってはある種のメッセージ性も込められます。家族も出席できるので「晴れの日の喜びを分かち合う」というような意味もあり、歓迎側の学生にも出番があります。学生コミュニティへの歓迎行為が公式行事内にまで位置づけられているという点では、イギリスの前2校に比較すれば特徴的とも言えましょう。僕がたまたま経験した3大学間の比較だけでも、実に三者三様だなと思いました。

■「日本では人文学軽視」ニュースの衝撃

新生活が始まるなか、上記のmaticulationの前後、諸手続きの行列、パーティーなどの場で初対面同士の会話をする機会があちこちであります。その度に、国籍や専攻問わず多くの人から、「日本では大学の人文系学科が廃止されるらしいな」という話題を頻繁に持ちかけられたことは、正直驚きでした。
しかも、「最近の日本のトピックと言えば、あれでしょ」とばかりに、まっすぐにこの話が上がってきます。すべての人が「人文系を軽視するなんて愚かな考えは信じられない」という反応でした。おかげで初対面同士、しかも、また会うのかどうか微妙な者同士の会話でも、かなり場が持って助かりました。

実際のところは、文科省の通知に「説明不足」があったことから誤解が広がっているわけなのですが……。

「国立大の「文系廃止」の誤解はなぜ広がったのか? 原因は「舌足らず」の通知文 文科省は火消しに躍起だが…」 (産経新聞2015年9月7日)

英語有力メディアでも、産業界からの需要が少ない人文系学科は削減されるというような論調で報道周知されてしまっていました。しかも、今夏の記事にもかかわらず、11月になっても、「おー日本人かあ、日本と言えば……」という場面で、多くの人の脳裏にすぐ浮かぶくらいにインパクトが強かったようなのです。

”Japan Rethinks Higher Education in Skills Push” Liberal arts will be cut back in favor of business programs that emphasize research or vocational training”(The Wall Street Journal )

理系の学生含め、それぞれがやや興奮しながら「人間性の本質を探求する重要さ」を力説するのを聞くたびに、オクスフォード大学界隈では、哲学・歴史といった人文学系学問、いわゆる教養(リベラル・アーツ・Liberal Arts)に対するただならぬ思い入れがあって、このニュースはそれを刺激したことは確かなのだな、と思われました。
他方で、ややちゃぶ台を返すようですが、逆にこの報道に対する過剰反応の方に違和感を感じてみることもできると思います。その場合は、予算逼迫の度ごとに人文不要論が何百年ものあいだ幾度となく提起されてきたからこそ、これに猛烈に反駁する伝統もまたオクスフォードに育まれているのかもしれない、という仮説を立てることも可能かもしれません。

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▲大学のグッズを売る商店。カレッジごとに紋章や模様が異なります。

■「一応、哲学やってます(照)」に感じる違和感

また、日を追うにつれて、オクスフォードの人々は「人文系軽視に怒る」にとどまらず、「哲学・歴史を学ぶことは普通よりちょっと素敵であると思っている」ようにも感じられてきました。非常に微妙なニュアンスではあり、あくまで僕が交流した範囲での印象論ですが、もう少し、具体的に描写したいと思います。
まず、学生同士は初対面で自己紹介をかわす冒頭、必ずと言って良いほどお互いの専攻を聞くわけなのですが、概して理系の人たちは、社会科学系の人には、「ふーん。おもしろそうねー。興味深いわねー」というリアクションをとります。いたって普通です。
でも、哲学・歴史系の人に対しては、「(きゃ or おお、かっこいい)」という表情、そして時には「自分なんて実験してる(またはシャーレ覗いてる)だけのオタクだから……」という自虐混じりのリアクションまでとる、という違いがなんとなく見受けられるように思います。
そして、哲学・歴史系専攻側も、「はは。それほどでもないよー。あなたの学問だって興味深いと思うよー」というような、うっすら上から目線のリアクションがあるような感があります。この感じは、一時日本で少し槍玉にあがったこともある「学校どこ?」「『一応』、東大です」に似ているかもしれません。

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