與那覇潤 平成史ーーぼくらの昨日の世界 第9回 保守という気分:2005-06(後編)
今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史ーーぼくらの昨日の世界」の第9回の後編をお届けします。ゼロ年代の中盤に進行した「昭和回帰」は、虚構みならず思想の世界にまで蔓延します。新たなテクノロジーとベタなノスタルジーの結合が着々と進行する中、飛ぶ鳥を落とす勢いだった堀江貴文氏の逮捕、いわゆる「ライブドア事件」が発生します。
ノスタルジアの外部
「いまの世界の支配者は押しつけがましい西欧育ちの資本主義経済で、この支配者は自分の原理にしたがわないアジール〔避難所〕を、どんどんつぶしてきた。それに対抗できる原理が、天皇制にはあるかもしれないのである。
もしも天皇制がグローバリズムに対抗するアジールとして、自分の存在をはっきりと意識するとき、この国は変われるかもしれない。そのとき天皇は、この列島に生きる人間の抱いている、グローバリズムにたいする否定の気持ちを表現する、真実の「国民の象徴」となるのではないだろうか」[18]
主張の中身はこのころの宮台真司氏とほぼ同じですが、文体の柔らかさからわかるように、著者は宮台さんではありません。中沢新一さんが前年来の『週刊現代』での連載をまとめた『アースダイバー』(2005年)の結論部で、同作は好評を博しシリーズ化。浅田彰と並ぶポストモダンのスターだった中沢氏は、宗教学者としてオウム真理教を持ち上げた過去が事件後に批判され、しばらく不遇だったのですが、04年の『僕の叔父さん 網野善彦』(同年に死去した網野をめぐる回想記)、06年の『憲法九条を世界遺産に』(爆笑問題の太田光との対談)などヒットを連発し、バブル期に比肩する人気を取り戻しています。
『アースダイバー』という表題は、アメリカ先住民の世界創造の神話からとられたもので、同書は縄文時代の海岸線を記した地図を片手に中沢さんが東京を歩き、民俗学・国文学的な知見も交えて「いまいる場所の意味」を探究してゆく紀行エッセイです。さすがに本人も、これを学問とは思っていないでしょう。驚くのは、2003年にトム・クルーズが渡辺謙(アカデミー賞候補となり、ハリウッドでの地位を確立)や小雪と共演して話題になった『ラスト・サムライ』について、「言われてみれば、サムライの生き方や死に方の理想は、たしかにインディアンの戦士の伝統として伝えられているものと、そっくり」だと素朴に受けとり、なぜなら東日本のサムライは縄文の狩猟文化の系譜をひくからだと解説するところ[19]。「あえて」ですらなく、完全にベタなのです。
テロとの戦争にせよ、過酷な市場競争にせよ、とにかく眼前に展開する米国主導のグローバル化が耐えられない。そうではない居場所を提供してくれる原理なら、かつて「右翼的」と批判された天皇でも、「封建的」なサムライでも、「未開」と呼ばれてきたインディアンでもかまわない。そうした追いつめられた切迫感を秘めつつも前面には出さず、あくまで「こんな風に街を歩くと、日々の風景が豊かになりますよ」とほんわかしたタッチで進むのは中沢節の力でしょう。単行本の巻末には、中沢さんの手許にあったのと同じ「アースダイビング・マップ」も封入されて、読者が実際に追体験できるようになっていますが、こうした虚実ないまぜで「演出された過去」を楽しむノスタルジア・ツーリズムは、この時期いっせいに多分野で開花していました。
ゼロ年代半ばの「昭和回帰」はちょっと驚くほどで、映画では50年代末の高度成長初期を描く『ALWAYS 三丁目の夕日』と、70年安保時の青春群像に託して在日問題をとりあげた『パッチギ!』がともに2005年。宇野常寛さんが批判的に触れていますが[20]、興味深いのは「同時代」を描いて成功した作家やモチーフすら、すぐこの傾向に吸い込まれることで、クドカンこと宮藤官九郎(脚本家)が落語に材をとった『タイガー&ドラゴン』で伝統志向に傾くのも05年。男子シンクロを描く映画『ウォーターボーイズ』(01年)が端緒になった、「冴えない若者どうしが奇矯なプロジェクトで自己実現を果たす」という語り口を、60年代に衰亡する炭鉱地帯を救った常磐ハワイアンセンター(福島県いわき市)の実話に応用した『フラガール』は06年です。その他、テレビドラマでは山崎豊子や松本清張など、昭和の社会派サスペンスのリバイバルがあり、出版界でも宮台・中沢より明白に「右」を志向する形で、武士道道徳の復権をうたう藤原正彦『国家の品格』(2006年)がベストセラーになりました。