宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.08.19
  • 與那覇潤

與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界 第13回 転向の季節:2013-14(前編)

今朝のメルマガは、與那覇潤さんの「平成史──ぼくらの昨日の世界」第13回の前編です。
第二次安倍晋三内閣で掲げられた「アベノミクス」の看板政策として採用された「リフレ」。デフレ脱却を旗印に異次元の金融緩和が繰り返されるなか、それは経済政策としての領分を超え、二度目の東京五輪招致とも結びついて「高度成長期への回帰」ムードを招き、改革の時代としての平成の価値が根底から覆されていく潮流の引き金となっていきます。

與那覇潤 平成史──ぼくらの昨日の世界
第13回 転向の季節:2013-14(前編)

知性の経済的帰結

民主党政権の顛末が「平成の政治改革」の破綻を象徴したとする評価は、今日めずらしくないでしょう。しかし後を襲った第二次安倍晋三政権の初期にあたる平成25~26(2013~14)年が、それ以上に平成という時代の価値が根底から崩れ去ってゆく時代だったことに気づいている人は、いまも少ないのではないでしょうか。

この時期、政権奪還の直前から安倍氏が掲げていた「アベノミクス」は国民に好評で、株価の急騰や大幅な円安をもたらし、画期的な成果をあげていると見なされていました。長期不況のデフレ思考にさよなら、ここからはすべてが好循環する明るい時代が来る──。2013年8月、指原莉乃さんが初めてセンターを務めた「恋するフォーチュンクッキー」でAKBブームが頂点に達し、無数のアマチュアグループが笑顔のダンス動画をYouTubeに投稿。翌14年の日本レコード大賞は、やはり特徴的な振りつけのパフォーマンスがバカ受けした三代目J Soul Brothersの「R.Y.U.S.E.I.」。前向きにあらずば人にあらず、といった空気を感じるほど、異様な「ポジティヴ推し」の風潮が世に溢れたのがこの2年間です[1]。

かつて自民党からの政権奪取をリードした知識人たちは、なにをしていたのか。圧倒的多数は、いっしょに踊っていたというほかありません。この熱狂をもたらした最大の要因は、アベノミクスが看板政策に「リフレ」(リフレーション。中央銀行による人為的なインフレ誘導)を採用したことでしょう。経済論壇で執筆する狭義のリフレ派のみならず、平成世代の書き手にファンの多い政策が日の目を見たことは、市場の反響も相まって「なにはともあれ、民主党時代よりはましだ」とするムードを世相に浸透させていきました。

ポスト冷戦政治の国際比較という視点で見たとき、このアベノミクス初期のリフレ・ブームは、2つの参照軸で位置づけることができます。1997年に発足した英国のブレア政権(~2007年)から15年ほど遅れた日本版の「第三の道」としての性格と、2017年に発足する米国のトランプ政権に先行した「反知性主義」の突出という側面です。

第三の道とは、18年ぶりに保守党を破って労働党の単独政権を築いたアントニー・ブレア首相が掲げたスローガンで、①経済を停滞させた産業国有化など古い労働党の社会主義(第一の道)は放棄するが、②人びとの紐帯を破壊したサッチャリズムの新自由主義(第二の道)も採らない、という趣旨です。市場競争の弊害を矯める場として、保守的な旧来の共同体(家族や教会)ではなくNGOなど自由参加型の組織を伸ばす志向が特徴で、日本では2000年代を通じた「新しい公共」の議論に影響を与えました。しかしこの可能性は、民主党政権の人気凋落によって潰えてゆきます(第11回)。

一方、主に小泉政権下の平成の思想界でリフレ派が台頭した過程も、「一見すると」似ています。①古い自民党、すなわち田中角栄型のバラマキ政治は維持不可能なのでやめるべきだが、②小泉純一郎(というよりも竹中平蔵)式の「痛みを伴う構造改革」も、弱肉強食のネオリベで好ましくない[2]。こうした両すくみを打開する手法として、政府の予算を用いる財政政策には歯止めをかけつつ、日本銀行の金融政策で景気を好転させるリフレの発想が注目を浴びました。具体的には、日銀に「前年比2%のインフレをめざす」といったインフレ目標を宣言させ、それを達成するまで市中の銀行から国債を日銀が買い上げることで、マーケットに資金を供給する大幅緩和を行わせよという提案で、これが主に野党時代(民主党政権下)の安倍さんに影響を与え[3]、アベノミクスの骨格となったのです。

もしそのとおりにいくなら、「国の借金」を増やさずに人為的な好景気を作れるのですから、よいことづくめでしょう。しかし日銀の金融緩和だけでインフレを起こすには、そもそも「デフレは貨幣的な現象である」[4]──中央銀行による貨幣の供給不足以外には、日本経済にそう大きな問題点はないという前提が必要です。第二次安倍政権の発足とほぼ同時(2013年1月)に刊行された吉川洋『デフレーション』を中心に、当時の経済論争を再訪すると、株価の復活で国民を大興奮させたアベノミクスが、実際には出発点から限界に突き当たっていたことに気づきます。

今日では改元直後のバブル崩壊からずっと、漫然と「平成不況」が続いていたように思われがちですが、経済学者として定評のある吉川氏が論証するとおり、国民の生活実感に影響を及ぼし始めたのは、1997年のアジア通貨危機による輸出減少が響いた98年からです(第5回も参照)。来年は今年より物価が上がると答える(=インフレを予想する)消費者の割合が、75%から25%へと急落。さらに同じ時期、欧米と異なり日本でだけ名目賃金の下落が始まったことが、デフレの最大の要因になったとするのが吉川さんの分析です[5]。

アベノミクスには「官製春闘」と呼ばれた、首相自身による経済団体への賃上げ要請も含まれるので、それならやはり良策ではと思われそうですが、問題はそこではありません。同書に沿って平成の経済史をふり返ると、不況が底を打ちインフレ期待が戻ってくる2003年以降の景気回復も、逆にリーマンショックの影響で再びデフレマインドに陥る08年以降の景気悪化も、ともにその内実は「輸出主導」[6]。輸出が牽引したイメージのある1960年代の高度成長が、現実には人口の移動・増加(上京による世帯形成)と耐久消費財(主に家電)の普及を中心とする「内需主導」だったのに対し[7]、平成期を通じたグローバル市場の一体化は、日本経済をかつてない「外需依存」の体質に変えていたのです。

世界市場が完全に近いほど一体のものとなった環境では、(海外で生産する)ユニクロの衣類やファーウェイ(華為)のスマートフォンのように、国外から「良質かつ低価格」の製品が流入することで物価は下落し、それを国ごとの政府や中央銀行の力で止めたり、まして反転させることはできません[8]。それが「できる」と無理に言い張れば、昭和期の体育会系のしごきにも似た「できていないのは、当事者の気合が足りないからだ」式のロジックになってゆく。もしくはその国に覇権国家的な地位がある場合は、後のトランプのアメリカのように「力ずくでも輸入品を締め出せ」とする、狂信的な保護主義になるわけです。

これは過言ではなく、当時の経済論壇で観察されたことでした。たとえば若手リフレ派のエースだった飯田泰之さんは、アメリカの連邦準備制度理事会(FRB。金融政策を担当)が「米国経済を背負って立つ気概を持っているのと対照的」に、日銀はなにもする気がないと批判し、対談相手の小幡績氏(経済学。反リフレ派)に「日銀が日本経済がどうなってもいいと思っているとか〔は〕……明らかな誤解」とたしなめられても、「そう誤解されても仕方がない行動をこれまで取ってきた」[9]。遅ればせながらリフレ支持に合流した竹中平蔵氏にいたっては、インフレが来ると国民に予想させれば本当にインフレになるのだと主張すべく、なんと「われわれが忘れてはならないのは、『期待は自己実現する』という事実である。……日本全体が『日本は一〇%成長できる』と考えているならば、消費も投資も積極的に行ない、結果、一〇%成長を達成できる」[10]。ここまで来ると正直、経済言説が自己啓発本に近づいてきたと言わざるを得ません。

そもそも日銀およびその背後にいる財務省のあり方が、「日本経済の桎梏になっている」とする議論の嚆矢は、榊原英資と野口悠紀雄(ともに大蔵官僚出身で、平成期にはエコノミスト)が1977年に「大蔵省・日銀王朝」を批判した論考です。しかしその論旨は、戦時下の総力戦体制の残滓である金融統制──日銀や長期信用銀行などごく少数のエスタブリッシュメントが「陰の参謀本部」となって資金の流れを差配し、官主導でパイを拡大させる高度成長期の経済モデルは限界に達したと説くものでした。内には自前で海外の金融市場から調達できるトヨタ等の(今日でいう)グローバル企業が出現し、外からは日本は国策でダンピング輸出をしているとする批判が高まる[11]。ある意味で、後にアベノミクスの障壁となる諸条件が発生する瞬間を捉えていたとも言えるでしょう。

榊原・野口の両氏はこうした金融面での疑似戦時体制が崩壊してこそ、はじめて「日本にとって真の戦後が始まる」と宣言して論を結びます。1990年代の行政機構改革までは論壇の主流だったこうした発想は、しかしデフレ不況の下で180度逆転。2013年初頭のアベノミクスの発足時にはすっかり「強力な首相が日銀総裁に命令して、人為的に好景気を作る」とする正反対の潮流にお株を奪われたばかりか、同年9月には二度目となる東京オリンピックの招致が決定し、むしろ「高度成長期への回帰」を彷彿とさせるリーダーシップが国民の快哉を呼びました。平成という時代は結局、それぞれのやり方で自立してゆく個人を育てるよりも、子供じみた「全能の国家」への集団的な帰依に終わるのか──。そう感じて、虚しかったことを覚えています。

今日ではその帰結は、はっきりしています。安倍首相の肝いりで任命された黒田東彦・日銀総裁は2013年4月、マネタリーベース(通貨供給量)を「2年間で2倍にし、2%のインフレを達成する」との目標をパネルを使い、コンサルのプレゼンのように表明。株価を急騰させますが、これは主に外国人投資家が乗ったことによるもので、6月に(成長戦略の乏しさから)急落して以降はGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)による、国民の年金を賭金とした株価の買い支えが常態化[12]。なにより政権の最大のブレーンと呼ばれた浜田宏一・内閣官房参与(経済学)自身が2016年秋に、財政政策ぬきの金融緩和のみではデフレ脱却は不可能と認め[13]、リフレ理論は崩壊しました。結局、前年比2%のインフレ率は今日にいたるまで実現せず、またアベノミクスの成果と呼ばれるGDPの増加も、多分に算出基準の改変によって嵩上げされていたことが明らかになっています[14]。

そもそも第二次安倍政権の成立をもたらした2012年12月の総選挙をふり返って、当時の野田佳彦首相は「原発は争点になると思って、われわれはかなり街頭などで訴えたのですが……聴衆の反応で、優先順位が変わったのです。経済が一番になった」と回想しています[15]。それだけ野党時代から自民党総裁として安倍さんが掲げた金融緩和への期待は大きく、ポスト3.11の論客と呼ばれた識者の多くも「リフレをやってくれるなら安倍支持」に傾いていました。たとえば飯田さんとともにネットメディア「シノドス」(2009年に会社設立)の運営を通じて、平成世代にリフレへの期待を広めた荻上チキさんは、アベノミクスの開始から1年が経った後にも「これ〔=デフレマインドの払拭〕は本来、政権を問わず、もっと早期に行われるべきものでした」[16]として、ほぼ全面支持の立場をとっています。

荻上編集長時代(~2018年)のシノドスに集った若手学者の多くはリベラル派で、年長世代のカルチュラル・スタディーズが「もっぱら道徳的な観点ばかりで自身の進歩性を誇る」文化左翼に陥ったことに飽きたらず(第8回)、政策科学として現実に実践しえる議論を志向しました。それ自体はまちがいなく高い理想でしたが、しかし当の「政策」のほころびが明らかになっても見解を改めないようでは、有効な政権への批判はなしえません。結果として安倍政権の経済運営を否定できない平成リベラルは、憲法解釈・歴史認識・教育論・ジェンダー観……といった「保守対革新」の時代からおなじみの争点へと傾斜し、かつて反面教師としたはずのポリティカル・コレクトネス的な論調に転じてゆきます。

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