三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか|倉持麟太郎×玉木雄一郎
今朝のメルマガは、イベント「遅いインターネット会議」の冒頭60分間の書き起こしをお届けします。
本日は、弁護士法人Next代表弁護士の倉持麟太郎さんと国民民主党の党首・玉木雄一郎さんをゲストにお迎えした「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」です。
著名人を含む多くの人々を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法改正案に抗議します」。今国会での成立は断念することになりましたが、今後も改正のための議論は続けると政府は発表をしています。今回の改正案の問題点はどこにあり、私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのでしょうか。(放送日:2020年7月14日)
※本イベントのアーカイブ動画はこちらから。
【明日開催!】
8/18(火)19:30〜牧野圭太「広告がなくなる日」はいつ訪れるのか?
SNS上のターゲティング広告が常態化し、そして、問題化されつつある現在。かつて、時代を牽引したマスメディア型の広告の遺産から、現代の表現者たちはなにを継承すべきなのでしょうか。
カラス代表/エードット取締役副社長の牧野さんと議論します。
イベント詳細・お申し込みはこちらから!
遅いインターネット会議 2020.7.14
三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか|倉持麟太郎×玉木雄一郎
たかまつ みなさん、ごきげんよう。本日ファシリテーターを務めます、お笑いジャーナリストのたかまつななです。よろしくお願いします。
宇野 みなさん、こんばんは。PLANETSの宇野常寛です。よろしくお願いします。
たかまつ 遅いインターネット会議。この企画では政治からサブカルチャーまで、そしてビジネスからアートまで、さまざまな分野から講師をお招きしてお届けします。本日は有楽町にある三菱地所さんのコワーキングスペースSAAIからお送りしています。本来であれば、トークイベントとして、みなさんとこの場を共有したかったんですけども、当面の間は新型コロナウイルスの感染防止のために動画配信と形式を変更しております。今日もよろしくお願いいたします。
宇野 今日も安定の200人ぐらい入る会場での無観客配信です。よろしくお願いします。
倉持 たかまつさん、ちょっと元気ないんじゃないですか?
宇野 今日はある意味インディペンデンス・デイだよ。記念すべき日だよ。
たかまつ そうですね。よろしければ、Twitterのほうを見ていただけると嬉しいかぎりです。それではゲストの方をご紹介いたします。本日のゲストは、国民民主党の党首・玉木雄一郎さんと、弁護士法人Next代表弁護士の倉持麟太郎さんです。よろしくお願いします。さては、本日のテーマは「三権分立のパワーバランスはいかに再設定されるべきか」です。著名人を含む多くの人を巻き込み、SNS上で展開された「#検察庁法改正案に抗議します」。今国会での法案成立は断念することになりましたが、今後も改正のための議論は続けると政府は発表しています。そこで、今回の改正案の問題点はどこにあるのか、また私たちはこの国の三権分立のあり方についてどう向き合うべきなのか。ゲストのお二人とともに議論したいと思います。ということで、宇野さん、なぜ今なのかということがすごく気になっているんですけれども。
宇野 僕は今、みんなが忘れた頃にやりたかったんです。当時はみんな、すごく盛り上がっていたじゃない? 僕もハッシュタグをつけてツイートしようかなと一瞬思ってた。
たかまつ 宇野さんはつぶやいていないんですか?
宇野 僕はつぶやいていない。確かに、一過性の盛り上がりで政府の喉元に合口を突きつけるのも大事なんだけど、これを起点に継続的な議論をしていくことのほうが大事だし、それが自分の役目かなと思ったんだよね。そこで倉持さんに、2ヶ月後ぐらいにやりたいんだと個人的に相談をしたら、「玉木さんを呼ぼう」という話になって、この会をやることになったんですよ。だから、あの盛り上がっているときに、実はこれを企画したんです。
たかまつ スケジュールが間に合わなかったとか、そういうのじゃなくて、あえてだったんですね。
宇野 あれが盛り上がっているときに、いきなりやっても流されていっちゃうと思うんだよね。そうじゃなくて、あのタイミングで、なかなか普段議論の的にならなかったこの問題が表沙汰になって問題化された。けれど、問題化されたことによって、みんな満足しちゃっている。でも、そうじゃないだろう、と考えたんです。あの出来事は、今の戦後憲法の枠組みは9条以外の側面から見直したほうがいいんじゃないかとか、あるいはインターネット時代の民意とはなにかとか、大きくて広い問題につながっていく事件だったはずなんですよ。こういったことをもっと長期的に議論するベースをつくりたくて、今日この会を企画しました。よろしくお願いします。
検察庁法改正案の論点をあらためて考える
たかまつ それでは、早速議論に入っていきたいと思います。今日は、まず最初に検察庁法の改正案をめぐる動きを振り返った上で、この騒動に関する論点をゲストのお二人にお伺いしたいと思います。そもそも検察庁法の改正案は衆議院本会議で4月16日に審議が始まりました。実質的な審議は国家公務員の定年を段階的に65歳に引き上げるための法案とともに一本化して、ゴールデンウィーク明けの5月8日からスタートいたしました。この改正案は検察官の定年を、他の国家公務員と同様に段階的に65歳に引き上げるとともに、内閣や法務大臣が認めれば、定年を最長で3年間延長できるというものです。これを受けて「#検察庁法改正案に抗議します」というハッシュタグが大きく広がりました。著名人を巻き込みながら5月9日から10日にかけて投稿は 500万件を超え、トレンド入りもしていました。世論を背景にしつつ、野党側は5月15日に武田国家公務員制度担当大臣への不信任決議案を提出するなど、徹底抗戦する姿勢で挑みました。結果、5月18日に安倍総理は「国民の理解をなくして前に進めていくことはできない」として今国会での成立を見送る考えを表明いたしました。ということで、一連の動きが簡単にスライドでも表示されていると思いますが、まとめました。今回の改正案について、いろんな論点があったと思うんですけども、まずはどんな論点があるのか、ここに特に注目してほしい、というところをゲストのお二人にお伺いしていきたいと思います。玉木さん、いかがでしょうか?
玉木 確かに、この時期にこの話題をやるのは季節外れというか、旬が過ぎたものをやっているという気がするかもしれません。安保法制もそうなんだけど、そのときはすごく盛り上がるんだけれど、過ぎ去ってしまうと忘れてしまう。本当は、その思いを投票で示さなきゃいけないのに、「いろいろあったけれど、忘れちゃったし、選挙に行くのやめよう」みたいに、民意がいくら盛り上がっても全然反映されない。そういう状況の中で、こういう振り返りというか、あらためて再確認するようなことは非常に意味があるなと思っています。
今回の検察庁法改正は、もともとは現行法を解釈で変更して、それまでできなかった検察官の定年延長をやろうとしたところに一番の問題があるんですよ。後づけで法律を改正して認めるようにしたものなので、そもそもタチが悪い。安倍総理が、東京高等検察庁の黒川前検事長に対して、戦後唯一の例外として定年延長を認めようとしていて、いきなり本会議場で、法律の解釈変更で定年延長をやりますと言って、進めたのがもともと問題なんです。
もともと検察官は行政の一部であって、公務員のひとりだけれども、行政のトップである総理大臣さえ逮捕できるという強大な権限を与えられている点で、他の公務員と圧倒的に異なっている。なので、高度な独立性と中立性が求められる。力がすごく強いからこそ、定年にあっても、もっとも客観的な基準である年齢でブチッと切る。途中で一般公務員には定年延長という制度が導入されてもなお、検察官については内閣や大臣が裁量で定年延長をすることはできないと、貫き続けてきたんです。
これには歴史があって。帝国憲法下、いわゆる戦前は裁判所構成法があって、司法大臣の裁量で検察官の定年延長は可能だったんです。しかし戦後、明確な立法意思として昭和22年に検察庁法を作るときにダメだと定めた。それは、戦前に特別高等警察など、いろんな人権侵害的なことがあったので、検察官には高度な独立性、中立性を与える代わりに、政治の裁量によって定年延長はさせないと定めた。だって、政治家に気に入られた検察官は定年延長が認められ、「お前は俺の言うことを聞かないから逮捕」とか「捜査したから定年延長は許さん」となると、やっぱり忖度しちゃうわけですよ。そういうことを防ごうとずっと運用されてきたものを、安倍総理が「解釈を変えたので今日からできるようになりました」と言い出した。それが国会で問題になって、我々が追及して、法律の形で後づけで解釈変更を認めるものが出てきた。こんなものは認めるわけにはいかないと、大きな社会的な広がりも出たわけです。廃案になりましたけど、こういうことにチャレンジする権力と我々は向き合っていることをあらためて自覚しないといけないなと思いました。
たかまつ ありがとうございます。そもそもの事の発端は今年の1月でしたもんね。あれが盛り上がったことだけを見ると、5月のときの記憶ばかり蘇りますけれども。そのときにはあまり問題化せず、確かに一部報道はしていましたけども、少なかったかなと思いますね。倉持さん、いかがでしょうか?
倉持 玉木さんがほとんど説明されていたので、付け加えることはあまりないですけど。今の話で出ていたように1~2月くらいに問題化して、森法務大臣がトンデモ答弁をし続けたり、人事院の松尾(恵美子)局長に「なんで変えたいんですか?」と聞いたら、「言い間違いでした」と言ってしまったりと、酷かったんです。その前の森友・加計問題や、「桜を見る会」の問題も含めて、もっと盛り上がってもよかったはず。なのに、こんなに難しいことで5月に盛り上がったのは、ちょうどコロナ禍でみんなが自粛中で、不平不満を我慢してフラストレーションが溜まっていたところだったから。自分たちが自粛しているのに、権力側が全然自粛していないじゃないか、といった不公平感から、政治がすごく日常化したマターだったと思うんですよ。だから、検察庁法自体の権力のパワーバランスのことも重要だけども、コロナによる自粛下でのフラストレーションが、政治が日常化する方向に向いたことを忘れちゃいけないのがひとつ。
この問題を私が話すときは、3つに分けて話しています。まず、政治的意図の問題です。黒川さんという属人的に政権と親和的な方をこのポジションに据えることの問題点。私は法律家なので政治的な動きは推測でしかわからないんですけど、そういう問題がある。もうひとつはいわゆる準法律的な問題。それは玉木さんがご説明いただいたような、そもそも国家公務員法は検察官に適応できるのかということ。できないと言っていたのに解釈変更し、さらにそれを追認するような法改正をしていて、法改正さえすればいいのかという問題。あとは審議過程の問題です。内閣法制や人事院にどのように何について諮ったのか、法案審査はどの程度されたのか、担当者たちがウソをついていないか。答弁を知らないと大臣が言っていましたけれども、そういうプロセスの問題や純法律的な問題がある。3つ目がこの後の話にもつながると思うんですけど、制度的な問題です。つまり、これが憲法違反だったとして、争えるのか。今の日本の制度で、司法審査とか国の手続きに乗せて、これを違法違憲だという手続きがあるかというと、直接的に審査することはできない。たとえば、黒川さんが名宛になるような、行政の個人情報や情報を開示してくださいと言って、黒川さんの名でされた何らかの処分に対して、「違法・違憲な人事だとすれば、憲法に照らし合わせると本来そこにいるはずがないんだから、権限がないはずですよね。無権限の人の処分は無効ですよね」というような、テクニカルな方法を使えば争ったりはできるかもしれないけれども、直接的にこの改正を違憲かどうか審査して廃案にさせることができるシステムはない。これは完全に制度の不備ですよ。
たかまつ それはまずいですよね。
倉持 全く同じ事案はフランスで警察庁長官に関して起きたことがあって、フランスは裁判所が違法違憲か、ちゃんと判断していたりするんですね。政治的な意図と法律的な問題と制度的な欠陥の3つの問題があると思います。
たかまつ ありがとうございます。たしかに制度的な問題については、これだけ盛り上がっても何も変わらないんだ、と。しかも、逆に毎回こういう形じゃないと変わっていかないのかというところも含めて、なかなか難しいなと思いますね。今のお二人のお話を聞いて、宇野さんはいかがですか?
宇野 思い出しながら聞いていたんですけど、僕も3つ問題を指摘したいんですよ。1つ目は法の支配か、人の支配かという問題。これは概ね第二次安倍政権の問題と言われているんですけど、実際に統計データをいじり、公文書は潰し、日報は黒塗りにして、民意を背景にやりたい放題である。ただ、僕の考えではこれは安倍政権に始まったものではなく、戦後の政治史そのものが法の支配よりも人の支配を優先してきた歴史が間違いなくあると思う。その象徴が憲法9条です。何があっても解釈改憲で、とりあえずバランスをとって、いろいろ誤魔化す方法をその都度考えることが、リアルポリティクスです、という恐ろしいことを言い張ってきたのが戦後日本だった。冷戦終結ぐらいまではそれで曲がりなりにやっていけたのかもしれないけれど、今、これで本当に大丈夫ですか、と突きつけられている。この先、東アジアで大規模な武力衝突があることは大いに考えられるから、9条の問題もシリアスなものになっている。
それはそうとしてとにかく、日本の近代においては、ありとあらゆるところがどんな制度を作ったとしても運用レベルで適当にごまかすんで、みたいな人の支配がまかり通ってきた。その象徴が憲法9条です。こうしているいまも「法律なんてものは所詮お題目でしょ」ということが霞ヶ関にも永田町にも染みついているんです。たとえば、90年代の政治改革の問題は、一般的に永田町と霞ヶ関の戦争だというふうに思われていて、官から政に主導権を取り戻すという改革であったという解釈もされている。ところが、その実態はどちらが運用レベルで法律を骨抜きにする権力を握るかという戦いだったという解釈ができるわけですよ。
ここにいよいよメスを入れなきゃまずいんじゃないかと。当然、法の支配の最低限の枠組みをなし崩し的に70年間やってきた結果、いよいよこのレベルまできてしまったのが第二次安倍政権であるだけであって、安倍政権の問題ではなくて戦後日本、もっといえば近代日本の問題だと思っています。だから、この問題を単に黒川の問題に矮小化しないほうがいいということが大前提ですね。