宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2019.10.09

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第3回 カントからチューリング・マシンへ〜コンピューターの芽を育んだドイツの哲学と数学

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第3回。コンピューター誕生に結実する知的潮流の背後に「ドイツ的」と「オーストリア的」の相剋をみた前回に続き、今回はドイツでの哲学と数学の探求が分析哲学の勃興を伴いながら、かのチューリング・マシンの発想へと継承されていく道筋を紐解きます。

コンピューター・サイエンスの祖、ライプニッツの普遍記号学

gJyOiFc1wHGrEaTBOCMsozGdj4La6Ff6s-ItVw9D
▲ライプニッツが書簡に記した二進法(引用) コンピューター・サイエンスの歴史を遡っていくと、哲学者も何人か登場する。なかでも特によく言及される哲学者はライプニッツだろう。ゴットフリード・ライプニッツは17世紀ドイツの哲学者である。前回の連載を読んでいただいた読者のために正確に言うと、神聖ローマ帝国の領邦の一つであるザクセン公国のライプツィヒ出身であり、ライプツィヒで学んだ後、歴史家や政治顧問として三代のハノーファー領主に仕え(その中にはのちにイングランド王となるハノーファー選帝侯も含まれる)、晩年には神聖ローマ皇帝カール6世(オーストリア大公でもあり、マリア・テレジアの父)の命を受け、ウィーンで帝国宮廷顧問官も務めた。ライプニッツの業績は哲学に留まらず、数学や科学にも及んでおり、特にニュートンとは独立に微積分法を発明したことはよく知られている。
ライプニッツが考案した現在のコンピューターの基礎となる考えとして、普遍記号学と二進法が挙げられる。普遍記号学とは、計算ひいては思考全体を、記号の形式的な操作(オペレーション)とみなすことである。現代のコンピューター言語は、数式を記号によって表し、それを命令によって操作するものであり、この発想を基礎としている。二進法という発想そのものは紀元前からあるとされているが、あらゆる数を0と1だけによって表すことが可能だということを数学的に定式化したのはライプニッツである。
だが、現代のコンピューター・サイエンスは、ライプニッツ以降、着実に歩みを進めていったわけではない。ライプニッツの死後、普遍記号学という構想に大きく立ちはだかった哲学者がいた。カントである。

ライプニッツ=ニュートン論争を調停しようとしたカント

イマニュエル・カントはライプニッツより後、18世紀ドイツ(厳密にはプロイセン王国)の哲学者である。カントもライプニッツ同様、哲学だけでなく様々な分野で業績を残しているが、彼も数学を研究していた。カントにとって数学が重要だったのは、ライプニッツとニュートンの間で行われた論争に関わる。ライプニッツは、万有引力の法則の発見者である物理学者ニュートンと同時代人であり、両者の間には様々な論争があったことが知られている。有名なのは、どちらが先に微積分法を発見したかについての争いである。ライプニッツが仕えていたハノーファー選帝侯の一人、ゲオルク・ルートヴィヒはイングランド王ジョージ1世として即位し、ロンドンに移り住むのだが、ライプニッツは同行を許されず、ドイツに留まった。それにはこの争いが関わっていたのかもしれない。
哲学に関しては、ライプニッツとニュートン(の支持者)の間で、時間と空間に関する論争があった。ニュートンは時間と空間がまさに文字通り存在すると主張した。それに対しライプニッツは、時間と空間は文字通り存在するのではなく、あくまでものごとの間の関係として存在するに過ぎないと主張した。いわば、ライプニッツは時間と空間は数学的抽象化として存在しているのに過ぎないと考えたのに対し、ニュートンは我々がそうした抽象化をする以前から自律的に存在していると考えたのだ。現代では、ニュートンの説は「実体説」、ライプニッツの説は「関係説」と呼ばれているが、カントがしようとしたことは、実体説と関係説の統合であり、そのためにはニュートン力学や微積分という当時の最先端の数理科学を理解することが不可欠だったのだ。
では、カントはどのようにしてニュートンの説とライプニッツの説を統合しようとしたのか。これを簡単に説明することは明らかに筆者の力量を超えている。だが、カント哲学とコンピューターの関係を見るためには、避けて通ることができない。というわけで、多少ややこしい話になるが、しばらくお付き合い願いたい。

科学と数学にまたがる認識の源としての「直観」

カントによれば、まず、我々は時間と空間を直接認識できるわけではない。逆に、我々が様々なものごと(例えば、いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターや、今朝から続いている頭痛)を認識できるのは明らかだ。だが、時間や空間に一切関わらない仕方で認識することはできないだろう。「いまこの瞬間」が時間的な認識なのは言うまでもないが、目の前のコンピューターには一定の大きさがあり、大きさの認識は空間的な認識だからだ。ということは、我々は時間と空間そのものではなく、それらに関わる何らかの能力を用いて、現実に存在する様々なものごとを時間や空間に関係づけることにより認識していると考えられる。その意味で、時間や空間をものごとの間の関係だとしたライプニッツは正しい。
だが、時間と空間はどちらも無限であるという特徴を持っている。我々が認識できるものごとの数は有限のはずであり、どうしてそこから無限の時間と空間が生まれるのだろうか。むしろ逆ではないか。無限の時間と空間は、我々が様々な認識に先んじて獲得しているものであり、それなしには何も認識できないようなものなのではないだろうか。つまり、時間と空間に関して、我々の知性に内在的に備わっているような何か──カントはこれを「直観(Anschauung/intuition)」と呼ぶ──があるのである。その意味で、時間と空間が全てに先んじた絶対的なものであるという点では、ニュートンは正しい。このようにカントは考えた。

このことはカントの科学観と数学観に関わってくる。数学でも当然無限が登場するからだ。時間と空間の場合、それらに関する「直観」が認識に先んじる絶対的なものだったとしても、我々の認識は、感覚器官からの情報がこれらと組み合わさることで生まれる。いまこの瞬間に目の前にあるコンピューターを認識するには、視覚や触覚や聴覚からの情報が使われているはずだ。つまり、我々は様々なものを見聞きすることで様々な認識を得ることができるのである。さらには、実験器具を用いて新たな現象を見聞きする(つまり「発見」する)ことにより、それまでには得られなかった新しい認識を得ることができる。これが科学である。
しかし、数学の場合はどうだろうか。数学、特に計算は、何かを見聞きすることによって行われるというよりは、純粋に頭の中で行われるのではないだろうか。そうだとすると、結局は認識に先んじて持っているものがあるだけで、新たな認識など得られない、ということになってしまわないだろうか。

この記事の続きは、有料でこちらからお読みいただけます!
ニコニコで読む >> noteで読む >>

関連記事・動画