アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生|小山虎 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2021.02.10

アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生|小山虎

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第14回。
現在では「コンピューターの父」として知られるジョン・フォン・ノイマン。ただし、最初期の電子計算機であるENIACやEDVACの開発への関与は限定的で、ノイマン一人が名声を受けることへの疑義や軋轢は当初からありました。そうしたなか、ノイマン自身が果たしたコンピューター黎明期における功績の本質とは何だったのかを改めて探ります。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第14回 アナログからデジタルへ〜「ノイマン型」コンピューターの誕生

前回述べたように、フォン・ノイマンは、ENIACが開発されたアバディーン性能試験場の弾道研究所の顧問を務めていたが、ENIACの開発に最初から関わっていたわけではなかった。フォン・ノイマンがコンピューターの開発に関わるのには、複雑な経緯と様々な偶然があったからである。今回は、その経緯をたどってみたいと思う。
ところで、ENIACは世界初のコンピューターだとされることもあるが、厳密には「世界初の汎用電子計算機(コンピューター)」の方が正確である。同じように、いわゆる「ノイマン型コンピューター」についても、それが何を指すのかは、実のところあまり明らかではない。この名前は、フォン・ノイマンによるEDVACの報告書で提示されたことに由来するが、その内容は、フォン・ノイマン個人というよりは、ENIACおよびEDVAC開発チームによるところが大きい。だから、その意味では「ノイマン型」という名称はあまり適切ではない。また、ノイマン型コンピューターの特徴とされるプログラム内蔵方式についても、現在では、それを最初に考案したのはフォン・ノイマンではないと考えられている。

ということは、本当はフォン・ノイマンは、世間で言われているようなコンピューターの歴史に輝く重要人物などではなかった、ということなのだろうか。必ずしもそうとは言えない。もし「ノイマン型コンピューター」を、フォン・ノイマン自身が構想していたようなコンピューターだと考えるのであれば、それは確かに存在するだけでなく、コンピューターの歴史において極めて重要な地位を占めるようなものなのだ。
そのような「ノイマン型コンピューター」とは何か。それを説明するために、まずはどうして弾道研究所でENIACが開発されるに至ったのかの話から始めよう。そこで重要な役割を果たすのは、「アナログ」のコンピューターである。

アメリカ陸軍とペンシルベニア大学を結びつけた「アナログ」コンピューター

これも前回触れたことだが、アバディーン性能試験場は第一次世界大戦中に設立されたものである。当然ながら、終戦後はその中心的な役目が失われたため、予算は大きく削減されていた。試験場の弾道学部門は、戦争中にヴェブレンが戦後も継続的に研究することを推薦する報告書を残していたこともあり、規模は小さくなりながらも削減されることなく残されていたのだが、1935年に他の部門と合併し、一つの研究所となる。それが弾道研究所(Ballistic Research Laboratory)だ。
研究所になったとはいえ、予算やスタッフが増員されたわけでもなく、相変わらず細々と研究が続けられていたのだが、数年後に転機がやってくる。第二次世界大戦の勃発である。
1939年、ナチス・ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まる。ちょうどそれは、タルスキがアメリカ・ハーバード大学で開催される科学哲学の国際会議に出席するために母国ポーランドから旅立ってまもなくのことだった。開戦により生き別れになった家族とタルスキが再会するには、それから7年もの歳月が必要だった(本連載第6回)。
アメリカはすぐには参戦せず、様子をうかがっていたものの、実際にヨーロッパで戦争が始まると、アメリカ国内への影響は少なからずあった。特に弾道研究所は、戦争勃発の恩恵を大いに得る。1940年から1945年にかけて、弾道研究所の予算とスタッフ数は十倍以上に膨れ上がるのだ。ENIACの開発も、この戦争による弾道研究所の規模拡大がもたらしたものなのである。

ところで、以前にも触れたが、実際にENIACの開発を担当したのはペンシルベニア大学だ(本連載第9回)。つまりENIACは軍産複合体の産物である。それが可能になったのは、ペンシルベニア大学と弾道研究所には、ENIACの開発以前から結びつきがあったからだ。
コンピューターの誕生以前、弾道の計算には機械式のアナログ計算機が用いられており、弾道研究所では「微分解析機(Differential Analyzer)」というものが使用されていた。ペンシルベニア大学はペンシルベニア州の州都フィラデルフィアにあるのだが、フィラデルフィアは研究所のメリーランド州アバディーンから車で行ける距離であり、より高性能な微分解析機を所有していた。そこで、陸軍が資金を出し、ペンシルベニア大学の電気工学部──といっても日本の大学の「学部」とは違い、ロー・スクールやメディカル・スクールと同様、専門家を養成する大学院であり(本連載第9回)、正式名称も「ムーア電気工学スクール(Moore School of Electrical Engineering)」というのだが──が互いの所有している微分解析機の性能を向上させるという共同プロジェクトが行われていたのだ。

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ペンシルベニア大学で用いられていた微分解析機(1942-1945年ごろ)(出典

このような大学と軍の共同プロジェクトは、当時は珍しいものではなかった。むしろ、推奨されていたと言ってもいい。なぜなら、第一次世界大戦中に米軍から資金援助を受けることで大きくなった大学がいくつもあったからだ。その代表例が、マサチューセッツ工科大学(MIT)である。1861年に設立されたMITは、当初はカレッジですらない専門学校のようなものであり、経営も安定せず、近くにあるハーバード大学の工学部に何度も吸収されそうになるほどの弱小大学だった。それが、第一次世界大戦中に海軍の航空機パイロット訓練プログラムを請け負うことで一変する。軍や関連産業に協力することで教育研究を充実させ、経営の安定化や規模拡大を実現する。これが第一次世界大戦後のアメリカの大学では、主流のビジネスモデルだったのだ。

ペンシルベニア大学は弾道研究所以外にも様々なプロジェクトを受注していたが、1942年、かつてないほどに性能を向上させるプロジェクトとして、デジタルの計算機(コンピューター)の開発がペンシルベニア大学から弾道研究所に提案される。これがENIACとなるのである。
ENIACの開発を提案した中心人物は、ジョン・モークリーという若い物理学者だった。モークリーの専門は天体物理学であり、天体の軌道計算と弾道の計算の両方で微分解析機を駆使していた経験から、より高性能な計算機を求めており、大学院生のジョン・プレスパー・エッカートと協力し、ENIACを構想したのだ。モークリーとエッカートの二人は、ENIACの開発者として、コンピューター・サイエンスに名を刻むことになる。
ところで、ENIAC開発を提案した当時、モークリーはまだペンシルベニア大学に来たばかりだった。彼がペンシルベニア大学に来るきっかけも戦争だった。

1942年、フィラデルフィア〜戦争のために分野を越えて集まった4人の開発者たち

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