第十二章 制作――ハードウェアの探究|福嶋亮大(後編) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2024.05.02
  • 福嶋亮大

第十二章 制作――ハードウェアの探究|福嶋亮大(後編)

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第十二章 制作――ハードウェアの探究|福嶋亮大(後編)

6、制作の哲学――他者性のオン/オフ

制作者は、素材=ハードウェアとしての他者を象る。これは他者性の創設である。しかし、この被造物が制作者と合一するとき、他者性はむしろ打ち消される。制作者にとって、素材の他者性はときにオンになり、ときにオフになる。さらに、制作者自身も自らの制作物の魅力や恐怖に屈するとき、自己がオンの状態とオフの状態が重なりあう。『フランケンシュタイン』と「ピュグマリオン」が示すのは、まさにこの量子状態である。

ここで議論の補強のために、哲学的な観点も導入しておこう。「制作的態度」を現象学的に分析したハイデガーは、およそ次の二点を指摘している。

(α)制作的態度において、制作されるものはそれ自身に引き渡される。材料や素材がそれ自体として自立したものとして了解されるのは、作るという態度によってである。「材料や素材といった概念の起源はまさに、制作に定位した存在了解にあるのです」[13]。もう一歩進んで言えば、制作的態度こそが制作を必要としないもの、制作不可能なもの、つまり「自然」を浮上させる。
(β)制作者の狙いにおいては、制作物は「できあがれば自由に使用されるもの」として把握される。この態度において、制作物は「引き離して置かれるもの」ではなく「こちらへ招き立てられるもの」[14]、つまり手元で自由に扱える存在となる。ここには、技術の本質を自然の駆り立て=徴発(Gestell)と見なしたハイデガーの見解の反響が認められる。

ハイデガーによれば、制作者は素材=ハードウェアをそれ自身の権利において確立し、自立的なものとして了解する。つまり、自己とは異なる他者が創設される。その一方、制作物は完成したとたん、使用者の手元へと招き立てられる。つまり、隔たった他者ではなく、むしろ自己に近接的な他者として現れ直すのだ。他者を創設する一方、その他者と自己が限りなく近づいてゆくというパラドックスがここにはある。ルソーとシェリーはこの制作のパラドックスを的確に把握していたように思える。

ただ、一八世紀半ばの「ピュグマリオン」からおよそ半世紀後の『フランケンシュタイン』に到ったとき、制作のテーマがより厄介な問題を含むようになったことも見逃せない。フランケンシュタインと彼の制作物は、ピュグマリオンとその彫像が和解するのと違って、お互いを最大最強の敵と見なす。呪われたカップルとなった二人には、もはや相手を殲滅する選択肢しか残されていなかった。制作物が制作者を圧倒するような怪物として現れること――それがシェリーのつかんだ新たな問題なのである。

7、社会に先行する悪夢へのアクセス

イギリスのメアリー・シェリーとフランスのルソーはともに神話的な制作者(プロメテウス/ピュグマリオン)を参照しながら、散文的な現実に回収されない素材=ハードウェアの制作をテーマとしたが、『フランケンシュタイン』が示すように、その制作物は制作者自身を破局に追いやる怪物へと変身した。この制作物の怪物化という問題を探究するには、ヨーロッパだけでなくアメリカ大陸の文学も考慮に入れなければならない。

もとより、アメリカという国家そのものが、フランケンシュタインの怪物のような合成物である。アメリカの作家たちは総じて、自らの社会的現実が、稠密に組織されたヨーロッパとは異質だと考えていた。アメリカ的現実には穴があいていて、あちこちに飛躍や断絶がある。そのため、アメリカ文学は安定的な居住ではなく、踏破(メルヴィル、ジョン・ミューア)、探索(ヘンリー・ソロー、レイモンド・チャンドラー)、放浪(ナボコフ、ジャック・ケルアック)のような落ち着かない心情に由来する行為に導かれてきた。二〇世紀半ば以降は、これらのモチーフはSFに受け継がれる。特にロシア系移民のアイザック・アシモフの作品には、銀河帝国のファウンデーション(創設)からロボットまで、既存の社会や人間の限界を超え出る「制作」のテーマが息づいていた。

この安息を振り切ったアメリカ文学の系譜のなかで、一八〇四年生まれのナサニエル・ホーソーンは枢要な位置を占める。彼はE・A・ポーと並んで、ゴシック小説の陰鬱な想像力を駆使しながら、人工物の「制作」の問題に取り組んだ作家である。クリス・ボルディックが言うように、ホーソーンの一連の芸術家小説――「イーサン・ブランド」「美の芸術家」等――では「被造物は、きまって自律的な力を持つようになり、やがては自らを生み出した創造者を圧倒するに至るのである」[15]。ホーソーンには、制作者が制作物に食いつぶされるというモチーフがある。

ただ、これだけならば、ホーソーンの小説は、およそ半世紀前の『フランケンシュタイン』の亜流に留まるだろう。ホーソーンやポーの創意は「制作されたもの」に過去の悪夢的な重さを与えたことにある。ゴシック小説研究者のデイヴィッド・パンターによれば「ヨーロッパの過去の重圧は、美であると同時に恐怖を意味した。この過去の重圧によってヨーロッパは窒息死する危険にさらされていたのだ。ホーソーンやポーの全体にわたって存在しているのは、この窒息状態である」[16]。ホーソーンとポーの「制作」は、過去の呪縛のせいで「窒息」しかかっている社会や人間を浮かび上がらせる。そのため、彼らの小説はたいてい陰鬱で安らぎを与えない。

特に、マサチューセッツ州のセイラムを拠点としたホーソーンは、散文的な「ノヴェル」を希求しつつも、それ以前の古い文学形態である「ロマンス」をあえて戦略的に選び取った作家である。彼の企ては、散文的な現実との和解を拒み、社会に先行する悪夢にアクセスすることにあった。しかも、そのあらゆる安息を奪う悪夢を、制作された物質=ハードウェアに結びつけたところに、彼の真骨頂がある。

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