読書のつづき [二〇二一年二月]この自信がよく育つことを希望する|大見崇晴
会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。
二度目の緊急事態宣言中の二〇二一年二月。弛緩した与党政治家が深夜会食問題で離党させられたり愛知県知事リコール署名の偽造問題が取り沙汰されたりの茶番で、世への虚無感が募るなか、ステイホーム環境で進む読書。現在まで続く「群像創作合評」の敗戦直後の記録から、三島由紀夫の運命と戦後日本の転回を予見したかのようなアイロニカルな一節が発見されます。
大見崇晴 読書のつづき
[二〇二一年二月]この自信がよく育つことを希望する
ニ月一日(月)
二月になったという実感がない。だがもう一ヶ月が過ぎてしまった。今年はもうあと十一ヶ月しか残っていない。少しは効率的に生活を送れないものか。
ブックオフで以下を買った。
・橋本治『人はなぜ「美しい」がわかるのか』
・岡義武『近代日本の政治家』
・遠山美都男・関幸彦・山本博文『人事の日本史』
『人はなぜ「美しい」がわかるのか』は部屋の何処にしまったか忘れてしまったので、ついつい買ってしまった。これで何冊目であろう。
岡義武『近代日本の政治家』は思いもよらず犬養毅の章が面白い。戦後の教科書で描かれているような清廉な政党政治家ではなく、狷介で、策謀家で、決して首相を目指すタイプの政治家ではなかったことが縷縷綴られている。そうしてみると頭山満や杉山茂丸のような民族主義者やアジア主義者(要するに今日で言う右翼)と密な交流を持っていたことも察せられようというものだ。
侠客という言葉は平成も過ぎた現在では輝きを失った言葉だが、犬養毅がこうした有象無象の浪人を手元に集めたがったのも、もとは漢籍に馴染んで文筆で身を立てたことに発したと知ると妙な説得力がある。漢籍と言えば中国の書物で、中国の書物と言えば膨大な歴史書と儒学の註釈と漢詩である。歴史書といえば『史記』で儒学といえば四書五経なのだろうがどちらも春秋戦国時代についての書籍である。描かれた中国は神話の時代を脱したばかりのころである。周が滅して秦が中原を制し、その秦が早々に滅して漢となるまでの時代には食客三千人を抱えた孟嘗君、主君よりも忠臣たちのほうが才長けていながら彼らを率いて国を統一した太祖(劉邦)のような政治家が活躍した時代なのだから、文章を通じてとはいえ、西洋近代が輸入される以前に自己を育成した人間ならではの政治観があったのだろう。
『近代日本の政治家』の内容は今上上皇に対して講義された内容でもあるそうで、人物中心であり講談的ともいえ、スムーズに頭に入っていったのではなかろうか。どうなのだろう。
TBSテレビの日曜劇場で放送している『キワドい2人』は、主人公たちの人格が入れ替わるという題材を用いた際の定番の表現をベタに繰り返しているそうで、その中には映画『転校生』そのままに転がり直してみるというものもあるらしく、「ドラマのTBS」に珍しいキワモノとして愉しまれているとのこと。思わぬ評判を呼んでいる。
自民党政治家がCOVID-19流行のさなか深夜まで銀座で会食を催していたことが問題になっている。以前にもキャバクラに通っていた公明党議員が職を辞したこともあって、三人の議員に対して二階幹事長が離党勧告をせざるを得なくなった。果たして三人が離党届を提出した。問題を起こした議員には「魔の三回生」の議員もいた。この政治家たちが近づいている衆議院選挙に立候補するか否かまでを見届けるべきなのだろう。
河村たかし名古屋市市長を旗振り役にした愛知県知事リコール運動だが、リコール署名の八割が偽造だったと明らかになったが、河村たかしは知らぬ存ぜぬどころか自身も被害者だと居直った。県の選挙管理委員会は刑事告発を視野に入れて調査をしているとのこと。署名を集めた団体代表は維新の会関係者であることも明らかになっており、どこまで司直の手が及ぶのかが報道の焦点になっている。
調べ物。山田風太郎をもっと読まなければ。とはいえわたしは山田風太郎の忍法帖ものをそれほど愛好できない。いつか味読することができるのだろうか。明治物は愛好していて、『明治波濤歌』の榎本武揚などには魅了された。というか榎本武揚という人物は、やはり興をそそらられる存在なのである。幕臣にあって北海道に五稜郭という近代的な城郭に構えて独立国家然とした空間を治めたという人物像は、どこかユートピアに迷い込んでしまった侍を思わせるところがある。その実際のところはわからないが、創作の題材にふさわしいのは間違いないだろう。安部公房が彼をして小説と戯曲も著したことは、その証左だろう。
ようやく手にLAMY2000が慣れてきた。
ニ月ニ日(火)
寒さのためか気圧が変動したためかわからないが、身体を動かすのが億劫だ。そのうち錆取りにラジオ体操でも始めるべきだろうか。
ブックオフで以下の本を買う。
・バイアット『抱擁I』
・福田恆存『人間・この劇的なるもの』
・山本昭宏『戦後民主主義 現代日本を創った思想と文化』
・田中拓道『リベラルとは何か 17世紀の自由主義から現代日本まで』
バイアットがマーガレット・ドラブルの妹と知った。
ニ月三日(水)
体調は悪くないはずだが、眠気がとれない。倦怠感を伴ったまま一日を過ごす。これといった本も見繕えず、収穫もなく帰宅する。食事と入浴を早々に済ませ「水曜日のダウンタウン」を見て眠る。TBSラジオ、ライムスター宇多丸の「アフター6ジャンクション」のバラク・オバマ特集(その文化人としての役割)は良かった。
ニ月四日(木)
昼食は日高屋。自棄になって豚骨ラーメン大盛りを食す。
「アウト×デラックス」で真木よう子の常識に欠けた友人(映画ライター)を見ていたら、久しぶりに大声をあげて笑っていた。何か底が抜けた人物であった。
森喜朗の女性差別発言への取材映像だが、記者のいなしかたも含めて堂に入っていた。しっかりした質問ができた記者もいたのだが、全体の水準が低く逃げ切られてしまいがちだった。森喜朗の価値観が現代にそぐわないのは確かに問題なのだが、それ以上に内閣(および総務省)が特定企業と法的に問題がある癒着を見せていることのほうが、わたしには問題と感じている。
菊地成孔がTwitterを始めたらしいが腕が錆びついており、読める文章になっていないと評判。
東芝が製造している全録ビデオデッキが五万円とのこと。買ってみようかとも思うが、そんなにテレビを見ることがあるのだろうかとも自分を疑う。配信での再放送を見ることが多いのではないか。
上野アメ横のマルイ商店でピナイダーの万年筆が求めやすい価格で売られているとの噂が立つ。週末に足を運びたいものだ。
ミャンマーの軍事クーデター、なかなか鎮静化しない。
ニ月五日(金)
明日は通院の予定であるので、その足でアメ横のマルイ商店に向い、そのまま石岡瑛子展も見に行きたいが、そもそもまだ展示していただろうか。
ニ月六日(土)
通院のち散歩。盛林堂と音羽館、古書ワルツで買い物。そのあとマルイ商店でピナイダーの万年筆(ラ・グランデ・ベレッザ・タイガーアイ)を買い求める。ご店主としばし談笑。このあと石岡瑛子展に向ったが、彼女の創作物よりも当時の広告文化の方に関心が向いてしまった。彼女が自身の才能を活かしたきったのが北京五輪だったということを考えると、この才能はどこか全体主義的なものに欠かせぬ要素である「宣伝」と相性がよかったのではあるまいかなどと考える。
以下は買い物の記録。盛林堂では以下を買った。
・『群像創作合評』一、二、三、八巻
・石子順造・梶井順・菊地浅次郎・権藤普『現代漫画論集』
音羽館で以下を買った。
・福田和也・坪内祐三『暴論 これでいいのだ!』、『革命的飲酒主義宣言』、『無礼講』
・橋本治『無意味な年 無意味な思想』
・上田閑照『私とは何か』
・岡田暁生『オペラの運命』
・舟橋聖一『相撲記』
・中村光夫『二葉亭四迷伝』
古書ワルツで以下を買った。
・橋本治『さらに、ああでもなくこうでもなく 1999/10-2001/1』
・ジャン・セルヴィエ『ユートピアの歴史』
・ゴットフリード・マルティン『ソクラテス』
・大久保典夫『転向と浪漫主義』
・篠田一士『ヨーロッパの批評言語』
石岡瑛子展から帰る途中の清澄白河にある古書店で以下を買った。
・川村二郎『文藝時評』
・美濃部達吉『憲法講話』
「群像」にいまも掲載されている「創作合評」だが、戦後間もないころから始まった企画とは知らなかった。読んでみると「戦後」という非常時が過ぎ去ったことを文学者たちが極めて早い時点で触知し、それを言語化していることに驚かされた。たとえば中島健蔵と高見順のやりとり。
中島 健康というか、つまり、たとえば、前ならば、小説を書くことについての疑いが問題になった。たとえば中野君(重治)のように小説の書けない小説家が問題になった。高見君の言うように、自分自身がどうにもこうにもおさまりがつかないという形が、そのまま小説のスタイルになったと思う。ところが、今のはどうも違うと思う。簡単にいうと、つまり、本気で小説を書きながら、結果として小手先の仕事になってしまうような気がするんだ。(『群像創作合評』一巻、p.101)
中島健蔵の発言は戦時下という非常時が終わり、文学者にとって苦悩の題材がなくなってしまったことが、作品の衰弱に繋がっているのではないかという疑いである。この発言を承けて作家の高見順が口にすることも面白い。
だから、そういう意味じゃあなたの言っているように前のもとは違うということが言えるね。もとの一種の混乱は、混乱しながらも、しかし、救済を求めつつの混乱だった。混乱の肯定でなくて、混乱は否定せねばならぬという憎しみなり、怒りなりがあって、そのうしろにはやはり理想の人生、あるべき人間に対する肯定的な愛情があった。そして、それが裏切られての苦悩があったわけでしょう。ところが今の作品には、そういう大いなる苦悩というようなものがいい作品ほどないような気がして、そこがわからなかった。(『群像創作合評』一巻、p.101)
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