読書のつづき [二〇二一年一月]麒麟がくる|大見崇晴 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2021.06.24

読書のつづき [二〇二一年一月]麒麟がくる|大見崇晴

会社員生活のかたわら日曜ジャーナリスト/文藝評論家として活動する大見崇晴さんが、日々の読書からの随想をディープに綴っていく日記連載「読書のつづき」。
依然コロナ禍の収まる見通しが立たないまま明けた二〇二一年一月。年明け早々、SNSで拡散される「紅白歌合戦」をめぐる誤情報への脊髄反射的な反応や、政治家たちの衆院解散に向けたきな臭い政略ばかりが目に付くなか、挫折の結末が約束されている歴史の敗者に新たな光を当てた『麒麟がくる』における「麒麟」とは何だったのかを、不条理劇の傑作『ゴドーを待ちながら』と対比させながら論じます。

大見崇晴 読書のつづき
[二〇二一年一月]麒麟がくる

一月一日(金)

昨晩の紅白歌合戦は演目から演歌がなくなったと言い張るツイートが出回っていたのだが、それに「いいね」が一万近くあるのに驚いた。昨晩わたしが堪能した五木ひろしは演歌歌手ではなかったのか。石川さゆりが歌う「天城越え」は演歌ではなかったのか。明らかに間違いの記述なのだが、それに釣られて裏取りもせずに、している人からの返信も読まずに、「いいね」を押す人が一万人近くもいることに呆れてしまう。「テレビは見ない」という態度が問題なのではなく、異論や批評、さまざまな経路からの情報を吟味できないひとが大量にいて、それでいて自己発信したがっているから「いいね」をクリックしてしまうわけではないか。年明け早々から暗澹たる気持ちになる。

自民党・藤丸衆議院議員、二〇人と飲酒のある会食に事務所で参加とのこと。もう総選挙対策である。

焦点:電通関連法人、突出する政府からの事業委託 運営の不透明感に批判も | ロイターという記事が年末に話題になっていたことを知る。

毎年の恒例、「格付けチェック」。司会の伊東四朗は大事を取って参加しないとのこと。今年は悪問が多く、若干興が削がれる。「ドリーム東西ネタ合戦」で、友近とハリセンボン春菜の「それもわたし、それもおれ」のコントを見る。これを見ないと年を越した気がしなくなってきた。

一月二日(土)

遅く起きた朝だが、まだ箱根駅伝は始まっていなかった。母校・國學院大學の調子が気になる。東京から神奈川へ向かう道路が立ち見の観客で混み合っていることに、否応なしに気付かされる。これはどうしたってCOVID-19の感染が広まる原因になるだろう。コースの主要な地域にあたる東京・神奈川の知事からは観戦を控えるように、もっと強く通知されるべきだった。

夕方近くになると、小池都知事が主導して関東の各知事が政府に緊急事態宣言を求める運動が報じられていた。

伊東四朗さんがラジオで「坊主めくりで一番いけないのは蝉丸」と話しているのを聴いて、わたしも中学校時代からそう思っていたので共感したが、なぜ一番いけなかったかを思い出せなくなっていた。わたしの中学校は荒れていたので、バカラだけでなく、花札・チンチロリン・坊主めくりといった古風な遊びも授業中に行われていたのだが、チンチロリンはともかく、バカラも花札のルールも忘れてしまった。年は取りたくないものだ。

夜。楽しみにしていた『逃げるは恥だが役に立つ』の特番を見る。「ねほりんぱほりん」(NHK教育)とのコラボとのシーンがあって、冒頭から大いに笑わされた。育児や労働(それもCOVID-19最中)が描かれているのは、非常に興味深かった。ちなみに、新規感染者が増えたとテレビが報じるシーンがあったのだが、そのシーンに「Nスタ」赤荻歩TBSアナが映されていたということは、当日は日曜日になる(赤荻アナは日曜のみの担当である)わけだが、それだとドラマとして辻褄が怪しい気がする。このドラマらしからぬツメの甘さではないかと、本筋ではないところに意識を一部奪われもしたが、平成だけでなく、令和にも記憶に残るドラマとなったのではないか。

特にドラマで重要なテーマとして取り上げられていた「夫婦別姓」は、今後大事な問題になると思われる。日本というのは諸外国より、この点で何と言おうと、遅れている。夫婦別姓をしづらい法制度だと、このデータベースの「検索性」が重要視されている社会では、どちらかの戸籍に移った際に名字が変わることで「検索性」が落ち、キャリアを一からやりなおさなくてはいけなくなるのである。キャリアを一からやりなおしたほうが好都合というひともいるかと思うが、それはそれとして、どちらも選択しやすい法制度になっていれば、どちらにとっても損はないのである。「検索性」の向上と並行して、男女平等が世界中で進むということは、男女ともにキャリアの形成と維持が重要になるわけで、そうした世界情勢に日本という国は、明確に立ち遅れているのである。

例年であればオーストラリアで正月を過ごす明石家さんまが、暇を明かして正月から生放送でフジテレビの「お笑い向上委員会」に出演しているのだが、M-1を制したマヂカルラブリー野田が「(M-1のネタを)漫才じゃないって言っているのは、(プロでは)オセロの松島さんだけ!」と指摘しているので、不意を突かれて大笑いしてしまった。わたしはもう、オセロのネタが漫才だったかすら思い出せなくなっているのだが、さて。

一月三日(日)

正月だがレギュラー番組が意外と放送されている。「安住紳一郎の日曜天国」を聴いていたら、正月休みとCOVID-19もあって出社人数が制限されていることもあって、録音を主とした放送。安住アナがTBSの最終面接でしたスピーチも放送されるなど、リスナーへのお年玉のような内容だったが、同時に安住アナの決意表明のような内容だったようにも思う。そう思いながら聴いていたところ(あの大沢悠里さんが絶賛したころ)の音声で、甲子園で高校生ながら司会を務めた興津和幸くんは、とあって驚いた。若いころの安住アナが読んだニュースに登場した興津和幸は、のちにジョナサン・ジョースターを演じる声優となるわけで、高校生のころから声に関わる仕事をしていたのだなと驚かされた(そうしたエピソードを丁寧な安住アナは拾いながら放送していた)。

昼になって読書。今年は笙野頼子であるとか阿部和重といった九〇年代後半から活躍が目立った作家たちについて歴史的な位置づけをしたいと思っているのだが、彼らの最近の仕事を読んでいないので、こういうときにでも、と思って読んでいる。出歩かない盆暮れ正月というのは本当に珍しい。

夜半から部屋の照明が壊れて、本を読むところではなくなった。不貞寝である。

一月四日(月)

ソニーがクランチロールの買収を完了しそう(したのか?)だが、今後数年間のCGM媒体というのは、ほかの配信事業者と同じ扱いになって、これまでコストにしていなかった「コンテンツの吟味」がコストとしてかさむので、ビジネスとして不確定要素が増えてしまうと考えている。EUが成立させようとしているデジタル法は、問題ある内容を発信した場合には、SNS事業者の全売上のうち最大一〇%を罰金として支払うことになるし、Twitterで扇動を繰り返したトランプのような存在を再登場させないためにもアメリカはいくつか法律を制定していくだろう。そう考えると、コンテンツの配給網として人気がある企業を購入するというのは、リスクが少なく、堅実な投資に思える。

CNNなどで人気の番組司会者だったラリー・キングがCOVID-19で入院とのこと。

箱根駅伝で母校國學院大學は、なんとか9位に滑り込み、来年のシード権を獲得した。

菅首相が「秋のどこか」とした衆院解散に関する発言について「秋までのどこか」と訂正発表したとのこと。一年の計は元旦にあるというが、解散という首相権限の行使時期を明らかにするというのは、たしかに本人とっては不利益だから当然なのだろうが、こういう発言は独り歩きしていく。いまの衆議院議員の任期は今年の一〇月二一日までである。であれば、遅くとも一〇月二一日までには選挙があり投票がある。衆議院は法律で投票日の一二日前には選挙を公示しなくてはいけない。ということは一〇月九日までには確実に選挙が公示される。

戦後日本で、衆議院が解散しないで満期まで達したというのは、三木内閣のロッキード選挙だけである。開票日当日に当選者が決まらないこともあることなどの備えもあって、ロッキード選挙の公示日は投票日の二〇日前になった。事務的な都合を考えると、この二〇日前というのがギリギリもギリギリの公示日となるだろう。ということは、一〇月一日が事実上の公示日締め切りである。そして、ここに暦の妙があって、自民党の役職というのは総裁以外は一年ごとに変わるが、現執行部は九月一五日までの任期である。つまり、仮に新執行部が取り仕切るとしても、半月しか選挙準備の期間がないのである。この半月を充分と考えるか、短いと考えるか。この日取りを巡って、はや大人の駆け引きが始まっている。それが「秋までのどこか」という言葉に集約されている。

一月五日(火)

NHKを国営放送と勘違いしているひとが多くて困る。NHKというのは公共放送である。国営放送は時の政府に不利な放送はしない(もしくはしにくい)ため、国民に不利な放送をするかもしれない。というか、戦前は、そういう国民に不利益な放送がなされたのだった。それを是正する面もあって公共放送となったわけで、国営放送と勘違いしたり、国営放送になればいいと思ったり、スクランブル放送にして契約者にしか見れない(公共の放送でなくしてしまう)と考えているひとは、放送というものも民主主義というものも公共というものもわからない未熟な人間である。どちらかといえば、そういう未熟な人間は、中国のような報道規制がなされる国家のほうが住みやすいのではないか。権威への従属と盲信というのは実に恐ろしいものだと思うが、案外に自由な国で不自由を望む人間も多いのだなと思わされる。しかし、不自由を嫌う大多数として、わたしは何としても、中国に憧れるひとたちから日本を守らなくてはいけないと思わされる昨今が続いている。

そんなNHKの「ファミリーヒストリー」を見ていたのだが、終幕が近づいている大河ドラマ『麒麟がくる』主演・長谷川博己の家系を辿っていた。これまで、どちらかといえば線が細いか、陰険な性格の人物として描かれる傾向にあった明智光秀が、長谷川博己によって偉丈夫で肉体的で裏表が少ない人物として演じられたことは画期的で、大変興味深く且つ魅力的で毎週を楽しみに視聴している(陰険な面が強調されたのは、戦後映画とテレビドラマで、悪人を演じることに定評があったろう佐藤慶が原因ではなかろうか)。

その長谷川博己という俳優を、わたしはほとんど知らないままでいた。なんとなく、CMの印象からマダムキラー然としている俳優だなと思っていて、『MOZU』の印象もないし、『シン・ゴジラ』は見ていない。『まんぷく』の安藤百福役は、立志伝中の人物が意固地で聞き分けのない人物だと気づかせてくれる不思議に魅力ある演技だったが、それもこれも明智光秀と結びつかないでいたし、俳優としてのバックグラウンドにも思い馳せないできた。

それが「ファミリーヒストリー」でイメージが一新した。長谷川博己の父親が黒川紀章らと同時代人の評論家で、その筆一本の生活から大学の研究者になる間には歌舞伎の評論をものにしており、それが坂東玉三郎と父親との交友に繋がっていたなどとは知らなかった。それも、これまで演じられてきた天皇のなかでも、もっとも雅な天皇と思える正親町天皇を坂東玉三郎が演じるきっかけになったとは想像だにしなかった。そして、父親のゼミに参加して彼に憧れる若い女学生の姿に驚かされた。のちの長谷川夫人となるそのひとの面影は、ほとんど鈴木京香だったのである。

一月六日(水)

最近の自民党では、「昼飯食ったか?」と昼飯をおごるセリフを口にするのが流行ってるらしいのだが、これは二階氏の口癖なのがきっかけらしい。だが、これの元をたどると桂太郎(ニコポン宰相!)あたりにたどり着く。社会科の教科書に西園寺公望とともに特記される叩き上げの宰相がニコポンと呼ばれたのは、ニコニコ笑いながら肩をポンと叩いて「今度昼飯でも」と誰とも構わず交流をを持ったためである。その敵を作らない桂の政治スタイルは急進右派からは「言葉のクロロホルム」とも揶揄されたそうだが、民主主義というのは武器によらず言葉でもって政治を進めるものであるから、そう考えると普遍的な政治スタイルではあるのだろう。

ネットを久しぶりに時間をかけて見ていたら、上念司がDHCなどの排外主義・差別主義の放送局のレギュラー番組を一斉降板していた。Qアノン批判をしたのが原因らしいのだが、そんなにまで日本の排外主義者・差別主義者の間でQアノンの陰謀説が人気を博しているのかと驚かされた。しかし、Qアノン支持者が差別する対象には、わたしたち日本人(アジア系)も含まれると思うのだが。

初競りでのマグロの価格が下がったのは、すしざんまいが入札しなかったためらしい。

アメリカの議会選挙、トランプが応援に行ったことが祟って、敗北したらしい。これで上院下院大統領と全部が民主党優勢だ。わたしが共和党の政治家なら、急進右派には静かにしてほしいと思うだろう。そうしないと、上下院・大統領とすべてで優位にある民主党が、現在は保守派が数的優位を保っている最高裁判事の定数を変更する動議を始めかねない、と。

神奈川県の重症患者病床が残り7.5%しかないことが話題になっている。

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