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  • 2020.05.15

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第8回 理想主義、観念論、そしてヘーゲル〜19世紀のアメリカ哲学

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第8回。いよいよ今回からは舞台を新大陸に移し、コンピューターの開発を可能にした知的風土に迫っていきます。すべての始まりは、19世紀革命期のリベラル派ドイツ移民が流れ着いたアメリカ中西部、「セントルイスのヘーゲル主義者たち」の出会いにありました。

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開発中のENIACと哲学者アーサー・バークス(1946年)
Douglas Harms, (2007), “Techniques to introduce historical computers into the computer science curriculum”より引用

コンピューター・サイエンスを生み出したアメリカの知的風土とは?〜理想主義と観念論

本連載でこれまで主に焦点を当ててきたのは、フォン・ノイマン、ゲーデル、タルスキという3名の数学者、および彼らの知的背景にある「ドイツ的」と対比されるものとしての「オーストリア的」なものだった。第二次大戦後、アメリカ市民となった彼ら3名は、今度はアメリカの知的風土と向き合うことになる。そしてそのアメリカの知的風土こそがまさにコンピューター・サイエンスを生み出す土壌となるわけである。ということで、今回はアメリカの知的風土の話をしたい。
アメリカの知的風土ということでまず挙げるべきものは、アメリカの独自の哲学として知られるプラグマティズムであろう。とりわけ、本連載でこれまでに見てきたような、哲学者のライプニッツやカントの数学観を背景に、数学者のフレーゲやヒルベルトが生み出し、発展させた数理論理学という抽象的な学問から、コンピューターという具体的な現実のモノがアメリカにおいて生まれたのは、プラグマティズム──ときには「実用主義」という全く本質を外した訳語が当てられる──との邂逅こそがきっかけだったのだ、というストーリーには、なにか腑に落ちるところがある。
困ったことに、このストーリーがまったくの大間違いだとも言えない。実際にプラグマティズムとコンピューターには一定の関わりがあるのだ。例えば、史上初のコンピューターとも言われるENIACの掛け算機構開発を担当したアーサー・バークスは、ミシガン大学の哲学科で博士号を取得し、ENIAC開発終了後には母校に戻って教鞭を取ったプラグマティズム哲学者だった。哲学科で博士号を取得した後にコンピューターの開発に携わるなどというのは、アメリカならではの感があることだろう。

しかし、当然のことながら、事態はそう単純ではない。そもそも「プラグマティズム」という言葉でどのようなことを念頭におくべきかは難しいという問題がある。典型的な教科書では、「プラグマティズム」を代表する哲学者として、チャールズ・サンダース・パース、ウィリアム・ジェイムズ、ジョン・デューイという19世紀生まれの3名の名前が載っている。しかし、彼らがみな同じ「プラグマティズム」を信奉していたのではない。むしろまったく逆だ。パースは後年、プラグマティズムを広く知らしめたジェイムズとの根本的な違いを主張し、自分の立場を「プラグマティシズム(pragmaticism)」という、今日では忘れ去られた名前で呼び始めた。デューイもまた、自分の立場をプラグマティズムとは考えず、むしろ「道具主義」という名称を積極的に用いていた。彼ら3人の間に共通点ももちろんあったとは言え、当人たちにとっては違いの方が重要だったのだ。
このような代表者たちの間の相違に留まらない。著名な思想家リチャード・ローティの著作『哲学と自然の鏡』(原著出版は1979年)では、プラグマティズムは分析哲学と相反するものとして位置付けられているが、それから30年後、プラグマティズム研究者シェリル・ミサックの著作『プラグマティズムの歩き方』(原著出版は2013年)では、逆にプラグマティズムは分析哲学と互いに影響しあい、入り混じったものとされている。そもそも、プラグマティズムの捉え方が一筋縄ではいかないということ自体、今から百年以上も前、1908年の段階で既に、アーサー・ラブジョイが論文「13のプラグマティズム(The Thirteen Pragmatisms)」で指摘している。プラグマティズムを特定のイメージで語ることは極めて危うい行為なのだ。
もちろん、ここで読者に「プラグマティズムとは何か?」という哲学史上の問題につきあわせるつもりはないので安心されたい。本連載で注目するのは、「プラグマティズム」と呼ばれる多様な相違を内包した思想が19世紀末のアメリカで誕生し、世紀をまたいだ20世紀にアメリカ全土へと広まっていったという事実である。この「プラグマティズム」なるものの誕生と広まりを可能にした背景こそが、数理論理学からコンピューター・サイエンスへの橋渡しも可能にしたアメリカの知的風土にほかならない。

では、その知的風土とはどういうものなのか。これを一言で述べるのは難しいが、あえてキーワードを挙げるとするならば、「理想主義(idealism)」と「観念論(idealism)」の二つ──あるいは数え方によっては一つ──である。
アメリカが理想主義の国であることには、それほど違和感はないのではないだろうか。アメリカは明確な建国理念がある珍しい国の一つである。アメリカ独立宣言はその冒頭で、人間の平等や生存権、自由権などが自明の真理だとみなすと宣言されている。また、「アメリカン・ドリーム」やオバマ前大統領のスローガン「Yes We Can」には、理想を追い求めることに肯定的な国民性がうかがえる。
一方の観念論についてはどうだろうか。アメリカと観念論哲学の関係についてはほとんど知られていないだろう。しかし、実は19世紀後半から第一次世界大戦までのアメリカでは観念論が支配的だったのだ。しかも、興味深いことに、その発端となったのは、ハーバード大学やイエール大学、コロンビア大学、プリンストン大学といった日本でも馴染みのある名だたる名門大学が位置するアメリカ東部の諸州ではなく、オハイオ州やミズーリ州、ミシシッピ州といった中西部の州だったのだ。いったい19世紀のアメリカ中西部では何が起きていたのだろうか?

1858年、セントルイス〜「セントルイスのヘーゲル主義者たち」

1858年のミズーリ州セントルイス。ミシシッピ川に面するミズーリ州最大のこの街で2人の男が出会ったことがすべての始まりだった。若い方の名はウィリアム・トーリー・ハリス。1835年に東部のコネチカット州で生まれたハリスは、名門イエール・カレッジ(正式にイエール「大学(University)」となるのは1881年のことだ)で学んでいたが、卒業前に公立学校の教師の職を得てセントルイスに来たばかりだった。年長の方は、ヘンリー・コンラッド・ブロックマイヤーという1826年プロイセン生まれの男だ。かの宰相ビスマルクの甥であるブロックマイヤーは、16歳の時に単身アメリカに移住していた──極めて信心深い母親にゲーテの詩集を燃やされたことがきっかけだったという。ニューヨークやケンタッキーで職を転々としていたブロックマイヤーがセントルイスにやってきたのは、彼が20歳の頃だった。そんな一見したところ何の共通点も持たない彼ら2人が意気投合したものこそ、ヘーゲルに代表されるカント以降のドイツ哲学、すなわち、いわゆるドイツ観念論(German Idealism)だったのだ。

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