宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.01.15

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ 第5回 「フォン・ノイマン」と呼ばれた男の名前の変遷

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第5回。2度の世界大戦の狭間で、哲学・数学・物理学の垣根を超えて人類知の中核が地殻変動を起こしていた1920〜30年代、いよいよ歴史の表舞台に登場するジョン・フォン・ノイマンの生涯に迫ります。ハンガリー、ドイツ、そしてアメリカへの流転を通じて、かの天才はいかにして「フォン・ノイマン」となったのか──?

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▲フォン・ノイマンが1926年5月に奨学金の申請書と共に提出した個人記録。氏名欄には「ジョン・ルイス・ノイマン・フォン・マルギッタ(John Lewis Neumann v.margitta)」と記されている(ロックフェラー財団所有)(引用

若き天才的数学者フォン・ノイマンの半生

ジョン・フォン・ノイマンは元々ハンガリー人であり、ハンガリーの首都ブダペストで生まれた。誕生時の名前は、ナイマン・ヤーノシュ・ラーヨシュという(ハンガリー語では日本語と同じように姓を先に表記する)。裕福なユダヤ人家庭に生まれたフォン・ノイマンは幼少期から神童として知られており、特に数学でその才能を発揮していた。
当時のハンガリーは、オーストリアとの二重帝国であり、フォン・ノイマンも「オーストリア的」教育制度のもとで学ぶ。だが、ゲーデルや、前回登場したその師ハンス・ハーンのように、フォン・ノイマンが帝国首都ウィーンのウィーン大学に進学することはなかった。決定的な違いは、ゲーデルやハーンがドイツ語を母語とするドイツ系オーストリア人であったのに対し、フォン・ノイマンはハンガリー人だったことだ。同じ国家で生まれたにもかかわらず、このことがフォン・ノイマンの人生を大きく左右することになる。
当時は民族自決主義が高まっていた時代であり、ハンガリーもオーストリアからの独立の機運が高まっていた。本連載の第2回で触れたように、フォン・ノイマンが学んだ首都ブダペストにあるブダペスト大学も、ハンガリー語を母語とするハンガリー人のためにハンガリー語で授業を行う大学だった。もちろん、神童であったフォン・ノイマンにとって語学は問題でなかった。彼は幼少時から複数の言語に加え、ラテン語にも精通していたことが知られており、のちに彼が提出した個人記録にも、母語のハンガリー語、ドイツ語、英語、イタリア語の四カ国語を話すことができると記されている。だからフォン・ノイマンは、本来ならどの言語が用いられる大学に行っても問題なかったのだが、紆余曲折の結果、ブダペスト大学に進学する。
フォン・ノイマンがブダペスト大学に進むことになったのには、第一次世界大戦が関わっている。彼がまだ十代だった1914年に第一次世界大戦が勃発する。終戦後、オーストリア帝国は崩壊し、ハンガリーはオーストリアから独立するのだ。フォン・ノイマンが大学進学を決める頃には、ハンガリー人の若者が旧宗主国であるオーストリアの大学にわざわざ進学する理由はまったく無くなっていたのである。
もっとも、ブダペスト大学に進学するのも簡単には決まらなかった。まず、第一次世界大戦後のハンガリーでは、短期間の間だが共産主義政権が成立する。その指導者のクン・ベーラがユダヤ人であったために、共産主義政権崩壊後のハンガリーはユダヤ人にとって住みやすい国ではなくなっていた。そのためブダペスト大学にも、入学するユダヤ人学生の数にも上限が決められていた。加えて、有能なビジネスマンだったフォン・ノイマンの父が数学を専攻することに難色を示していた。フォン・ノイマンの友人の一人に、より実学に近い分野に専門を変更するよう息子を説得してくれと依頼したほどだ。最終的に、数学と同時に工業化学も学ぶという条件で、フォン・ノイマンの父は進学資金を出すことを了承する。こうしてフォン・ノイマンは、ブダペスト大学で数学を学ぶのと並行して、当時ヨーロッパで最高峰の工科大学だったスイスの名門チューリッヒ工科大学で工業化学を学ぶことになる。そして数学と工業化学の二つの博士号を同時期に取得するという離れ業をやってのけるのだ。
フォン・ノイマンはブダペスト大学の授業にはほとんど出席せず、チューリッヒに住み、試験に出席するために帰国するだけで学位を取得したという。とはいえ、フォン・ノイマンの関心は数学にあり、チューリッヒでも数学の授業に熱心に出席していた。
チューリッヒでフォン・ノイマンにひとつの小さな転機があった。ドイツ語圏であるチューリッヒに住むにあたり、名前をドイツ式で名乗るようになったのだ。それ以前に、フォン・ノイマンの名前は、生まれた時の「ナイマン・ヤーノシュ」ではなくなっていた。第一次世界大戦直前の1913年、最後のオーストリア・ハンガリー皇帝となるフランツ・ヨーゼフ一世がフォン・ノイマンの父の経済的貢献を称え、貴族に列することを許可する(ただし、貴族になるためには一定の費用を支払う必要があったのだが)。貴族の姓は領土と結びついていなければならない。フォン・ノイマンの父は、ハンガリーの歴史的都市であるマルギッタ(現在はルーマニア)を「領土」とすることを選び(もちろん本当に領土にできるわけではなく、どういう姓にするかだけの問題である)、フォン・ノイマン一家の姓は「マルギッタイ・ナイマン」となっていた。チューリッヒに移り住んだフォン・ノイマンはこれをドイツ式に改めるのだ。こうして、彼は「ヨハン・ノイマン・フォン・マルギッタ」と名乗るようになる。
移住先の言語に合わせて名乗り方を変えるのは、珍しいことではない。我々日本人も、英語で名乗る時は姓を後に名乗ることが多い。ただ、フォン・ノイマンの場合、ドイツ式で名乗るようになったことは、それまでのオーストリア・ハンガリーの知的風土から、ドイツの知的風土へと移動することを意味していた。

当時のフォン・ノイマンが憧れていた数学者は、本連載の第3回で登場したヒルベルトである。ヒルベルトの夢は数学の基礎づけであり、数理論理学を用いてそれを実現しようとしたのがヒルベルト・プログラムだった。数学の天才少年だったフォン・ノイマンは、大学入学前から数学の基礎づけに関心を持っていたと言われている。フォン・ノイマンはチューリッヒ工科大学で、ヒルベルトの教え子である数学者のヘルマン・ワイルからヒルベルトの手法である「公理化」を学び、学生時代に集合論の公理化に関する論文を発表している。博士号を取得したフォン・ノイマンが次にヒルベルトのもとで学ぼうとしたのは当然のことだったろう。しかし、当然ながら父からの資金援助は望めない。幸運なことに、ちょうどその頃、ロックフェラー財団の出資で国際教育委員会(International Education Board)という組織がニューヨークに設立されたばかりだった。フォン・ノイマンは、このロックフェラー奨学金により、ヒルベルトのいるゲッティンゲン大学で半年間学ぶことになるのである。
こうしてフォン・ノイマンは1926年の秋にゲッティンゲンに到着するのだが、思いがけないきっかけで新たな分野の研究に手を染めることになる。量子力学だ。フォン・ノイマンがゲッティンゲンに着いてまだまもない時期に、不確定性原理を導いた理論物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクの講演があった。のちにノーベル賞を受賞するが当時はまだ23歳だった若き新鋭のハイゼンベルクは、「シュレディンガーの猫」で知られるオーストリア・ウィーン生まれの物理学者エルヴィン・シュレディンガーと対立していた。両者は量子力学にまったく異なる表現形式を与えていたのだ。その後、両者は数学的に等価だと考えられるようになり、シュレディンガー自身も部分的な証明を与えるのだが、完全な証明はまだ得られていなかった。ヒルベルトも聴講した彼の講演も量子力学の表現形式に関するものだったのだが、ヒルベルトからその話を聞いたフォン・ノイマンは、量子力学の公理化に取り組む。そして、ハイゼンベルクの表現形式とシュレディンガーの表現形式が等価であることを証明するのである。

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