これはオンラインRPGやソーシャルゲームなどと異なり、参加プレイヤーが自分の分身となるキャラクターを創作し、その行動を文章で書いてウェブ上のフォームから運営会社に送り、ゲームマスターと呼ばれる判定者が小説形式でプレイヤーキャラクターたちの活躍する物語をまとめてサイト上で公表していくという、いわば「人力RPG」だ。
PBWは、そもそもはテーブルトークRPG(TRPG:紙や鉛筆、サイコロなどの道具を用いて、人間同士の会話とルールブックに記載されたルールに従って遊ぶ対話型のRPG)の発展形とも言えるゲームジャンルである。
日本にTRPG文化が根を下ろした1990年代、遠隔地のプレイヤー同士が、郵便などの通信媒体を用いてひとつのフィクション世界を共有してプレイする多人数同時参加型RPG「プレイ・バイ・メール(PBM:play by mail)」のジャンルが隆盛したが、2000年代のインターネット時代に入り、通信手段を郵便からウェブに置き換えたものが、日本における商業PBWサービスのあらましだ。
つまりTRPG〜PBM〜PBWへの発展を通じて、数百〜数千人規模でひとつの巨大なフィクション世界と物語を協同構築していく集団創作システムの実験が、非電源系ゲーム市場の一角で、四半世紀にわたり積み重ねられてきたのである。
さしずめ“厨二病支援システム”とでも言うべき特異な発展を遂げてきた集団創作エンジンとしてのPBWは、人々のコミュニケーションとクリエイションの在り方をいかに変えてきたか。
本稿では「現代ゲーム全史」番外編として、トミーウォーカー創業者の代表取締役・上村大氏、同社取締役・一本三三七氏に、PBMからPBWに至るムーブメントの来歴と可能性をうかがうべく、同社の所在する札幌の地を訪ねた。
■札幌TRPGシーンからの始動
――今回、トミーウォーカーさんをお訪ねさせていただいたのは、去る5月、御社の新作PBW『ケルベロスブレイド』の
記者発表イベントが、東京・池袋のニコニコ本社で行われていたのを見たことがきっかけでした。
実は僕は黎明期のPBMプレイヤーで、日本での商業PBMの草分けである遊演体の『ネットゲーム’88』(1988年)や『蓬莱学園の冒険!』(1990年)、ホビー・データの『クレギオン』シリーズ(1991〜2003年)の初期作品を体験しています。その経験を踏まえて、本メルマガ連載の「現代ゲーム全史」でも
初期のPBM事情についてまとめているのですが、自分の勝手な印象では、以後のPBM自体が存在感を失って、きわめて細々としたジャンルになっていたのかなという印象でした。それが突然、niconicoという日本のインターネット文化の中心に近いところで、新作PBWとの提携が行われると知り、非常に驚いたのです。
上村 多分、PBMについては、20年くらい前にオワコンになっていたと皆さん認識していらっしゃったと思います。今回のニコニコさんとの協業そのものは、先日の記者発表の通り、ドワンゴの伴龍一郎さんの奥様が、以前のうちのゲームでイラストマスターをされていたのがきっかけでした。
ただ、ここに至るまでは、いわゆるバナー広告も出していませんでしたし、インターネットの世界ではサブマリン的な立ち振る舞いを通してきましたからね。
▲2015年5月3日 ニコニコ本社(東京・池袋)にて行われた『ケルベロスブレイド』記者発表会
――はい、まさに。しかし自分としては、プレイヤーだった四半世紀前から、虚構と現実のあわいを衝くような集団的なフィクション創作法の極致とも言えるこのジャンルが、いつか日の当たるものになってくれるといいなと思ってました。
そこで今回は、自分の「現代ゲーム全史」の基礎取材も兼ねて、PBM時代からの脈絡を踏まえつつ、去る8月16日にサービス開始した『ケルベロスブレイド』に至るまでの、トミーウォーカーさんのPBW事業の来歴について、お話しを聞かせてもらえればと思います。
まず、トミーウォーカーさんの出自について整理しておきたいんですが、元々は遊演体、ホビー・データに続く第3の商業PBM企業だったテラネッツ(現:クラウドゲート)での業務経験を元に、独立されるかたちでPBW事業を開始されたわけですね。
上村 そうです。正確にはテラネッツは、元々は北海道のコスモエンジニアリング社の一部門として1990年代前半にTRPGとPBMの事業を開始し、途中で独立して不動館、テラネッツと社名を変えながら、「メイルトークRPG(MT)」と称したPBM事業をMT1『サイコマスターズ』(1993年)からMT14『PSYCHOMASTERS AD2058 “ラスト・リゾート”』(2003年)までの計14作品を、だいたい半年おきくらいに運営していました。
インターネット時代の2001年からは、テラネッツのPBW事業である「ウェブトークRPG(WTRPG)」が立ち上がり、WTRPG1『学園退魔戦記ZERO』が始動します。私と一本は、このWTRPG事業の立ち上げに携わった後にテラネッツを離れて、2003年からトミーウォーカーを創業して独自のPBW事業を始めました。
一本 私は不動館時代の1995年に入社して、MT3『竜創騎兵ドラグーン』のゲームマスターや公式情報誌「ニュージェネレーション」の編集員をやったのが最初です。もともと会社に入社する前の学生のうちから、バイト扱いで同社のゲームのルールブック編集を手伝っていた流れですね。MT11では開発から全て通して運営を行い、上司が役員になった後は、PBM部門の責任者をしていました。
上村 私自身がテラネッツに入社するのは2001年で、MT12『エターナルヴォイス』の時期です。それまではプレイヤーでした。
――コスモエンジニアリング時代以来、北海道が拠点になっているのは何故ですか?
一本 全員、北海道の出身だっただけです(笑)。あと、1980年代後半のTRPGブームの時点で、北海道にはTRPGの会社が2つありました。だから、自然にそういう仲間が集まり、他から圧力もこないので好きなことができる部分もありました。よそを知らない負け惜しみかもしれませんが(笑)。
上村 北海道の人は島国根性が強いということと、そもそもTRPGはカルチャーとしてマイナーだったので、そんなに東京一極集中型ではなかったんですよね。実際、当時の一番の主流は、神戸に所在地のあった「グループSNE」でした。よって、東京にわざわざ行く必要はなかったのではないかと推測します。
――当時、TRPGの裾野を全国的に広げたのが、「コンプティーク」誌に連載されていた、グループSNEによる『ロードス島戦記』のリプレイでしたね。1988年に同グループの水野良さんが小説化して、今で言うライトノベルの源流の一つにもなるわけですが、元々はTRPG『ダンジョンズ&ドラゴンズ(D&D)』のルールでプレイしていたセッション風景を文字起こしした、会話調の記事でした。
上村 その通りです。あと、TRPGにおけるエポックメイキングとしては、1990年に富士見ファンタジア文庫で出た神坂一さんのライトノベル『スレイヤーズ』シリーズがあります。『ロードス島戦記』と『スレイヤーズ』がヒットしてアニメ化したことで、ファンタジーは知っていて当たり前という空気になりました。
一本 そのもうちょっと前のマイコンブームの時期、FM-7やX1といった8ビットのパソコンを持ってる人たちも、TRPGをプレイする風潮がありました。『ローグ』とかのコンピューターRPGから入って、学校のパソコン部でTRPGをしていた人も多かったですね。
上村 そう。それくらいの時代から、札幌ではコスモエンジニアリング時代からの初期メンバーにあたるゲームデザイナーの冴島鋭士さんや九条巧さんたちのサークルが、公民館などの施設を借りて、自分たちの作ったTRPGを皆に披露するという活動をやっていたんですよ。「俺たちはすごい面白いから、みんな見に来るはず」と言って会場を借りて、ただTRPGのセッションをしていました。このような謎の会にけっこう人が来ていたので、冴島さんが自分たちの人気を確信したのが、そもそものきっかけです。
――えええ、そんなカルチャーがあったんだ!
上村 ないです、冴島さんが作り出したものです(笑)。冴島さんが自作したTRPGは、アニメ『聖戦士ダンバイン』をモチーフにしたものでした。『ロードス島』『スレイヤーズ』の時代以前に日本で人気のあったファンタジー作品と言えば『ダンバイン』でしたから、それをRPG化したセッションを冴島さんが行って、人気を獲得したんですね。
一本 もともと冴島さんは『宇宙戦艦ヤマト』がきっかけで、この業界に入った人で、その後自作のダンバインTRPGを遊びながらバージョンアップして、後に発表する「ASURAシステム」の原型を作ったと聞いています。
ダンバインTRPGは遊ばせてもらいましたけど、良く出来ていたんですよ。
MT3『ドラグーン』は、そのダンバインTRPGをPBM版に作り替えたもので、世界設定の説明を聞いていると「ジャコバ・アオン的な存在が……」といった話が良く出てきました。
■「メイルトークRPG」のビジネスモデルと作風の変化
――なるほど。TRPGやPBMカルチャーの母体というと、「タクティクス」誌などが扱っていたようなウォーSLG(シミュレーションゲーム)系の系譜の方が正統視されがちですが、そっちのガチゲーマーというよりはアニメ同人誌のカルチャーに近かったわけですね。
上村 そうです。遊演体やホビー・データは、当初ウォーSLG系の層に訴求したわけですが、我々のルーツは違っていました。
で、その冴島さんや九条さんたちが、たまたま知り合いだったカメラ機器や警備機器を卸していたコスモエンジアニアリングの社長に、TRPGの企画を持ち込んで「俺たち、TRPGの世界ですごい人気者なんですけど、TRPGやそれと連動したPBMを売り出しませんか?」と言い出したんです。テラネッツ系はそういう感じで、まったく無関係な業種だったコスモエンジニアリングの一部署から始まってます。
――コスモエンジニアリングって、そういう会社だったんですね……。それは同社に、コンテンツ系の事業に進出していこうという欲目があったということですか?
一本 普通にありました。MTやWTRPGは、表向き最先端のデジタルネットワークゲームのように見えました。だから、「今のうちに始めておけば、ゆくゆくは『リネージュ』のようなMMORPGの日本版みたいな立ち位置に成長するぞ」的なプレゼンができたわけです(笑)。
――確かに、出版に比べてもPBMって、プリントアウトされた紙を売っているだけの事業でしたからね。
上村 出版面でもマニュアルを刷らなければいけないのですが、それはお客様からのお金が入ってからやればいいという考えでした(笑)。のちのPBWだと、初期にお金を取ることはないんですけど、PBMはほぼ全額最初にいただく感じでした。
このようにして、いただいたお金を利用してPBMを運営していました。運営側はプレイヤーから締め切り直前に送られてくる山のようなプレイヤーキャラクター(PC)たちのリプライ(行動を記入したアクションシート)葉書を手作業で分けて、マスターさんに郵便とファックスで指示を出します。
で、マスターさんが執筆したリプレイ(複数のPCたちの行動結果を処理して小説形式にまとめたもの)は、パソコン通信の時代だったのでニフティーサーブの独自システム「ヤギネット」を使って回収。そして会員全員分のリプレイをプリントアウトして封筒に入れて、消印ギリギリに中央郵便局にコンテナで持っていくという作業をしていました。
一本 私はMT3の頃のマスターをしていましたが、あの当時、マスターになった人は全員、パソコンとモデムを無料で貸してもらえました。
上村 母体が機材屋さんであることがプラスになったということです(笑)。
一本 パソコンを持っている人が当時少なくて、笑い話として「電源が入りません」とマスターさんから電話がかかってきたんです。そして「この3本線がついているコードが怪しいと思うんです」と言われました。なんとアースのついているコンセントを見たことがない人で、電源コードを差していなかったのです(笑)。そのくらいのマスターさんが入る時代でした(笑)。
――コスモエンジニアリングの参入あたりから、PBMのカルチャーはだいぶ様変わりしてきましたよね。初期の遊演体やホビー・データの時代には、PCの行動にボツがありました。つまり、能動的に情報収集をしてシナリオで提示された入り組んだ謎を解き明かしたり、全体の状況に貢献して面白い物語展開を起こすような優れたプレイングをすることが「ゲーム」として競われていて、その能力によってプレイヤー間に格差が生まれるのが当然でした。
対して、テラネッツ系ではそのへんがカジュアル化して、全体シナリオに対するプレイの成否判定をするというよりは、登録PCの個々の世界の中での居場所を承認して描写を与えてあげる、創作支援システム的なものに近づいていった印象があります。
上村 その通りです。最初のMT1『サイコマスターズ』での謳い文句を見ると、「遊演体やホビー・データと違い、もらったプレイングは全員登場させます。そして全員、物語で活躍させます」という提言から始まっていたので、たぶんファンジンの流れが大きかったのではないかと考えています。そのせいか、当時プレイヤーに占める女性比率も高い方ではなかったかと思います。
一本 ガチで戦わない感じが、女性ウケをよくしたんでしょうね。
――それまでのプレイングの花形は、プレイヤー同士が連絡を密に取り合って大規模な共同作戦を組織して、対立する他のプレイヤー陣営との抗争を競ったり、シナリオをめぐる知恵比べでマスターを唸らせて世界の状況を大きく動かしたりすることでした。そういう大きなダイナミズムは、MT時代にはあったのでしょうか?
一本 はい。元々ファンジン系の争わない文化が強かったのですが、MT9『真・退魔戦記 伝承妖魔降臨』は違いました。
上村 これはプレイヤーが妖魔と退魔師側に分かれて対戦するPvP(Player v.s. Player)型のゲームでした。要するに大規模で勝ち負けのある戦闘です。売り上げは良かったのですが、運営側はみんな疲弊しました。心ない手紙をたくさんもらい、マスターは書いていても楽しくないリプレイを書きました。そりゃそうですよ、敗者には死んだというメールを書かなくてはいけないので、書いたって満足してもらえないわけです。それで文句の手紙が山のようにきました。MT9終了後はベトナム戦争が終わった時と同じ空気がありました(笑)。
――なるほど、『蓬萊学園』の時の内戦後もそんな感じでした。よくわかります(笑)。
一本 ファンレターに磁石チェックがあったのはこのゲームだけです(笑)。その流れから、MT11はみんなで仲良くプレイするということになりました。
上村 あそこで荒れて、傷を舐め合った経験が、以後に活きてますよね。
■斜陽化するPBM時代に顕在化した構造的問題
――市場規模的に、PBM事業の最盛期はいつ頃になるのでしょうか?
上村 1994〜95年ごろだったと思います。
一本 MT3の頃ですね。当時は初月入金が1億円あったと聞いています。
上村 メールゲームはどこの会社もそうだと思いますが、前作を超えることはありませんでした。やっぱり最初にお金を集めているので、よほどなことがない限り、だんだん入金額は高くなっていくし、間口は狭くなっていきます。
だんだんプレイヤーは減少していき、会社的にも窓際部署になっていきました。僕が入社したMT12当時は、『エターナルヴォイス』のトレーディングカードゲームで回収しようとしてましたね。ちょうどブームだったので。
――やはり、業界全体がどんどん斜陽化していた、と。
上村 この時点で、遊演体もかなり厳しい状況にあったようです。
一本 うちは2作くらいしかありませんでしたが、ホビー・データは3〜4作を一気に公開したりしていました。1作での儲けが少なければ、たくさん出せばいいという考え方です。発売数が少なくなると、小さい会社が増えてきました。
上村 ふわっと参入してきて、プレイヤーからお金をもらって最後まで運営しない会社の乱発ですね。そういう小さい会社の影響で、業界自体が信用を下げるところが結構ありました。
一本 逃げた小さい会社のゲームをプレイしていたお客様が、PBMを辞めていくという悪循環です。
上村 それだけ当時のPBMでは、マスターさん一人一人にかかる負担が大きかったのです。もらえる給料が少ないのはもちろんなんですが、ゲーム期間中は継続して同じお客様の面倒を見なければいけないという縛りがきつかった。
一本 1ヵ月単位のターンで動くために、プレイヤーからのプレイング締切後、全体の整合性を取る打ち合わせをしながら、10日くらいのうちに膨大な執筆作業をこなさなければなりませんでした。あとの20日は農閑期のようになるんですが。
――全体の整合性を持たせるための基本的なPBMの構造は、グランドマスターとかコンセプトワーカーと呼ばれる統括者がいて、その統括の下にブランチとかディヴィジョンと呼ばれる中間的なストーリー単位を処理するリーダーマスターがいて、というツリー構造で運営されてましたよね。それを毎月やっていた。
一本 個々のマスターからすれば、プレイングを見てリーダーに報告し、リーダーがそれを取りまとめて方針を決めるのを待って……ということをしていると、リプレイをいつ書くんだよ、という話になるわけです。
上村 結局のところ、ディヴィジョン制度がPBMの構造的な問題だったわけです。リーダーは本質的には中間管理職なので、運営の権限はありませんが、命令をしなければならず、当然、命令されても聞かないマスターもいた。社員とかではないですからね。逆にリーダーが、自分の言っていることが間違っているということがわかって揉めたりもしました。
一本 マスター間で派閥みたいなものもできましたね。
上村 その辺が一番大変でした。全てのPBM関連企業について言えますが、斜陽になってきて、そうなると一番コストがかかっているのはマスターであるという話になってきます。そこでマスターがいなくてもメールゲームのようなものが作れないのかということから、1990年代末から2000年代初頭にかけては、マスターなしのコンピューター処理で機械的にアウトプット的な文章がちょこちょこっと出てくる、というようなシステムを各社が試し始めました。
一本 ただ、私はその流れには反対でした。人間がマスタリングしてくれるからメールゲームは面白いわけで、機械で処理するなら、はじめからコンピューターゲームの方がいいに決まっています。マスターは、お客様のちょっとした機微を何気なく読み取ることもできますが、例えばこのなにげない行為ひとつでも、面白さを生むとても大事な要素だと考えています。
上村 しかし、機械処理なら100万人のお客様が来ても対応できる、という考えの経営者が多かったんです。運営している人もそうだし、お客様もそういう考えの人が多かったような気がします。TRPGもそうなんですが、年季の入ったお客様は業界のことを考え出すので。マスターが必ず必要であるという考えは、本当に一本くらいしかいませんでした。
■「ウェブトークRPG」事業の立ち上げへ
――それは、PBW事業が始まる前夜くらいの時期ですね。
上村 ちょうどこの時期、ごく一部の人がインターネットをやりだすようになったんです。インターネットがあれば、郵便代の問題がクリアできるし、執筆期間が長くなります。また、一本が元々考えていた、インターネットを利用するメールゲームの仕組みがありました。インターネットのホームページを使うことでいらない作業を極限まで減らすことによって、運営側の一人が電話の指示ではできなかったレベルで、中間的なリーダーなしに全てのマスターに指示を出すというシステムを作れるんじゃないかということです。
一本 予算が無いがシステムは必要ということで、当時の部下に誰かいないかと聞いた所、その部下が、大学の頃に所属していたアニメサークルから、上村を連れてきたんです。
――上村さんにはプログラマーとしてのバックグラウンドがあったのですか?
上村 大学時代、私はアニメサークルに所属していたのですが、先輩達がサークル内に別途プログラマー集団を作って勉強会をしていたんですよ。この先輩達が会社を立ち上げたいと考えていると伺ったので、じゃあどこかの会社に入って仕事を斡旋しようかなと思い、テラネッツに入社しました。そこから、MT13の運営と並行して、最初のPBW事業であるWTRPG1『学園退魔戦記ZERO』のためのシステム開発が始まります。
最初のシステムは簡単なもので、ほぼ手動でした。基本的にプレイヤーにフォームに入力してもらって、それがメールで到着する。そこにあるパラメーターや項目類をExcelで整理したり、手でHTMLを書いて公開したりといったものです。
――つまり、当時多くのPBM運営者が考えていたように、リプレイの文章作成自体をAI的なシステムで機械処理するのためにコンピューターを使うのではなく、例えばプレイヤーが作ったキャラクターの一人称とか口調とかの様式を規格化して共有するなど、とにかくコミュニケーションコストを削減してマスターの人力処理を徹底的に効率化するためにITを駆使する、という発想だった。
一本 そうです。キャラクターデータやプレイングを、うまいことテキストで見やすいようにしていました。
上村 一本からWTRPGの構想を聞いた時点で、「もうどうやっても面白くなるなこれは」という実感がありました。ですが会社の人間は皆まったく理解せず、予算も出なかったので、当時僕は平社員でしたが、「お前ら全員バカか、コイツ(一本)の方が絶対正しい!」と言い続けて、半分無理矢理に始めた感じです(笑)。
一本 開始すると、生々しい話、当時としては驚くほど利益も上がりました。1ヵ月程度と予定していた目標も10日程で達成した時に、ようやく他の人達も理解してくれました。
上村 WTRPG1は、郵便でのPBMよりだいぶ儲かりました。それを踏まえたWTRPG2『武神幻想サムライキングダム』も良かったです。ただ、テラネッツで我々が関わっていたのは、この2作目くらいまででしたが。
■PBMとPBWで何が変わったか
――WTRPGの時代に入って、参加者数は増えましたか?
一本 増加はしたのですが、PBM最盛期のMT3を超えることはありませんでした。それに売上げ的にも、一人当たりの課金も安くなったのもありますね。
上村 インターネットの普及は始まっていましたが、当時は年齢層高めのユーザーさんに限られていたので、運営側はともかく、ユーザー間ではインターネットは普及していませんでした。
――大きく変わったシステムとしては、PBM時代は月単位のサイクルだったじゃないですか。WTRPGになった時、プレイスパン的にはどうなりましたか?
上村 現在のPBWは、PBMの月単位で全体が同期するフローに拘束される点を反省して作られました。要するにディヴィジョン制度のように、マスター陣が打ち合わせをして、上の人の命令を受けて、それを咀嚼して、という時間がないように作っています。
具体的には、マスターさんがシナリオを思いついたとしたら、まずは『ソード・ワールドRPG』でいう「冒険者の酒場」みたいなところで、前後のつながり関係なしにシナリオを1本出します。「こんな状況があります、どうしますか」という初期条件を書いて、この依頼を受ける参加者を募集して、リプレイを書く。
この依頼を受けるたびに、プレイヤーがその都度課金される、というシステムになりました。
一本 PBM時代はあらかじめ7〜12ヶ月間のプレイ期間中のスケジュールが拘束されてしまうので、途中で転職したり結婚したりすると、マスターさんがもう書けなくなってしまう。こういう、マスターの都合以外の事情でスケジュールが決まってしまう仕組みをやめました。マスターもプレイヤーも、好きな時に始められるようにした上で、マスターがリプレイを書く時間とプレイヤーがプレイングを考える時間を、変わらず1週間ずつ確保しました。
――1つの依頼では、どれくらいのプレイヤーさんが参加するのですか?
上村 1依頼につき、抽選で選んだ8人です。
一本 なぜ8人かというとマスターがリプレイを書くとき、楽しめる適正人数だからです。
上村 多くても10人ですね。それ以上だと仕事感が出ます。どうせならマスターがリプレイを書くのも楽しいほうがいいよねということからです。
一本 色々試してみた結果、11人以上だと執筆が大変で楽しくなくなり、6人以下だとプレイングの分量が不足したり、お客様が余分な遊びを入れる余地が無くなってしまったりしたので、今のところは、8人ぐらいが一番いいのかなと考えています。
――PBM時代には、リプレイなどで同じシナリオに参加したプレイヤーの連絡先がリプレイシートなどに載っていて、そこから交流が発生しました。そういうプレイヤーグループの形成のようなことは、依頼シナリオレベルでは起こるのでしょうか?
上村 基本的にメールアドレスを知らなくても、どんな相手にも「お手紙」を出せるようになってます。ただ、同じ依頼そのものではグループ形成はされないですね。解散して「お手紙」を出し、どこかのコミュニティに集まることで形成されます。そこでコミュニティ同士を友好関係でつなげば、お互い行き来できるようになるので、そこで仲良く喋ったりすることはあります。
しかしシナリオが終わった後、そのシナリオについて話す場を我々は用意しません。なぜならモメるからです(笑)。あくまで一期一会です。
▲「依頼」シナリオのオープニング画面 『ケルベロスブレイド』(c)トミーウォーカー
――そうした「酒場での依頼」型の構造を、先ほど『ソード・ワールド』になぞらえていらっしゃいましたが、TRPGのトレンドの変化からのフィードバックという側面があるのでしょうか。
上村 TRPG的な考え方から言っても、『D&D』をみなさんがシステム的なガイドなしに遊んでいた頃と『ソード・ワールド』が普及した頃では、明らかに考え方が変わっています。『D&D』の頃は、依頼を酒場で受けるのはそれほど主流ではありませんでした。「道を歩いていたらお姫様が出てきて助けてくださいと言ってきた」とか、「戦乱があって君たちは傭兵としてここに参加するのだ」など、ゲームマスターが任意のストーリーテリングで決めていました。それに対して、『ソード・ワールド』は「冒険者の酒場」があり、ここで依頼を受けるというフォーマットを導入することで、プレイヤーの裾野を広げたことは、とてつもない発明です。