宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2019.02.14
  • 成馬零一

テレビドラマクロニクル(1995→2010)堤幸彦(9) 『SPEC』(後編)  超能力から〈病い〉へ

ドラマ評論家の成馬零一さんが、90年代から00年代のテレビドラマを論じる『テレビドラマクロニクル(1995→2010)』。9回に及んだ堤幸彦論は今回がラストです。「超能力(スペック)を使う犯罪者」という設定を取り入れながら、当初は『ケイゾク』の作風を反復していた『SPEC』ですが、主人公がスペックに覚醒したことで、物語は新しい展開を迎えます。

『SPEC』は2010年にTVシリーズ(起)が放送され、2012年にSPドラマ『SPEC~翔~』と映画『劇場版SPEC~天~』、2013年に当麻と瀬文が出会う前の前日譚を描いたSPドラマ『SPEC~零~』、そして完結編となる映画『劇場版 SPEC~結~』の前編『漸ノ篇』と後編『爻ノ篇』が放送された。
「ミステリーから超能力へ」というジャンルの変化を通して90年代から00年代への変化を描いた『SPEC』だったが、では、ストーリーと演出はどのようなものだったのか?

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▲『SPEC~翔~』『劇場版SPEC~天~』(2012)

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▲『SPEC~零~』(2013)

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▲『劇場版 SPEC~結~漸ノ篇爻ノ篇』(2013)

組織と個人

TVシリーズが始まった当初、『SPEC』が描こうとしたのは「人間VS超能力者」の戦いだった。
1~4話では、スペックホルダーと当麻たちミショウの刑事たちとの戦いが描かれる。スペックを表現するためにドラマでは異例の量のCGが用いられたが、漫画やアニメでは定番化している超能力をいかに可視化するか。というのが演出面での一番の課題だったと言えるだろう。これに関しては「時間が止まった世界」の描写も含めて、本作ならではの映像が展開できていた。その意味でも、最初の課題はクリアできていた。
5話以降になると、スペックホルダーの存在を追って研究・捕獲・監視していた警察内組織・公安零課(アグレッサー)が物語に絡んでくる。物語はより複雑化し、誰が敵で誰が味方なのかわからない混乱状態になっていく。
この展開は、『ケイゾク』後半の反復だが、スペックホルダーをヒューマンリソース(人的資源)として利用しようとする謎の秘密組織・御前会議が登場する陰謀論的展開は類型的で、やはり印象に残るのは、国家や御前会議の思惑を超えて暴走するスペックホルダーたち、中でも自由気ままに振る舞う時間を止めるスペックホルダー・ニノマエの圧倒的な存在感だ。
物語も、暴走するニノマエをいかに止めるのか? というクライマックスへと向かう展開が一番見応えがある。
ニノマエの「時を止める」能力が、超高速で動く能力で、それと引き換えにニノマエの体感速度が常人の数万倍だと気づいた当麻が、毒を混ぜた雪を浴びせることでニノマエを倒すという展開も、「人間VS超能力者」という構図にこだわった本作ならではの展開だったと言えるだろう。

心配だったのは、この対立軸を作り手が放棄して、当麻や瀬文がスペックホルダーに目覚めて超能力者同士のバトルになってしまうのではないか? ということ。
特に「時間を止める」という圧倒的な力を持ったニノマエを冒頭で出してしまったため、彼に対抗するには『ジョジョの奇妙な冒険』第三部における空条承太郎とディオ・ブランドーの対決のように、主人公サイドも敵と同じ(時間を止める)能力に目覚めさせるしかないのではないか? と心配だった。『ジョジョ』の映像化なら、それでも構わないのだが、本作の斬新さは、人間が超能力者に立ち向かうという構図にあり、これを放棄してしまえば、作品自体のアイデンティティが瓦解すると思っていた。
その意味で、対ニノマエ戦までは見事だったと言えよう。
しかし、最終話で、当麻の恋人・地居聖(城田優)が、実は人の記憶を操作するスペックホルダーで当麻の記憶も地居に操作されたものだったことが唐突に明かされると、雲行きは一気に怪しくなる。

心から身体へ

心の闇を描こうとしたサイコサスペンステイストの『ケイゾク』に対し、『SPEC』では身体性が強調されている。これは堤がチーフ演出を務めた『池袋ウエストゲートパーク』(TBS系)を経由して『ハンドク!!!』(同)や『TRICK』などにも現れていた00年代的な傾向だろう。
中でも『SPEC』は、当麻が餃子を食べるシーンを筆頭に、食事のシーンが多い。同時に出てきた時から包帯を巻いている当麻を筆頭に、身体の損傷や痛みを通して身体性が強調されている。「死」の描き方も重みが増しており、瀬文の部下だった志村が事故で意識不明の重体となって入院する姿が執拗に描かれていた。
そこには「心から身体へ」とでもいうような流れが伺える。これは『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の「破」にも見られた傾向で、漫画ではよしながふみの『西洋骨董洋菓子店』(新書館)、テレビドラマでは木皿泉の『すいか』(日本テレビ系)などに現れていた、食事を通して身体性とコミュニティを取り戻そうという、00年代のフィクションに現れていた一つの流れだったと言える。

当麻たちは地居によって記憶を操作されてしまうのだが、サイコメトリー(触った人間の記憶を読み取る能力)のスペックを持った志村美鈴(福田沙紀)の協力によって真実を思い出す。記憶を取り戻した瀬文は「人間の記憶ってのはなぁ、頭の中だけにあるわけじゃねぇ、ニンニク臭え人間のことはなぁ、鼻が、この傷の痛みが、身体全部が覚えてんだよ!」と、地居に宣言する。

おそらく、「記憶を書き換える」スペックを持ち真実は存在しないとうそぶく地居は、『ケイゾク』の朝倉のような90年代的な悪意を象徴する存在なのだろう。地居が当麻と瀬文に倒される姿を通して90年代から00年代、『ケイゾク』から『SPEC』へという時代の変化を描いたのであれば、最終話が、地居との対決で終わるのは、必然だったのかもしれない。
ここまでは納得できる。しかし最後の最後で本作は「人間VS超能力者」という対立構造を放棄してしまう。
地居に追い詰められた当麻は怪我で動かない左手で拳銃を構えて「左手動けぇ!」と叫び、発砲する。すると、時間が止まり、地居が撃った弾丸は地居に命中する。死んだはずのニノマエが生きていたのか? それとも当麻がスペックを発動したのか? 謎は宙吊りにされたままTVシリーズは終了する。

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