オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展|古市雅子・峰岸宏行
北京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第9回。
今回は、国家主導の独自インフラの構築で知られる中国産のインターネットプラットフォームが、いかにオタク文化と関係してきたのかを辿ります。いまやGoogleやFacebookとならぶ世界的プラットフォーマーとなったテンセントの「QQ」や中国版ニコニコ動画「Bilibili」の成立、そして政治環境の変化とともに一気に普及した中国版Twitter「微博」など、時流と規制に振り回されながらユーザー文化も発展を遂げていきます。
古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
第9回 オタク文化を育んだ中国ネットプラットフォームの発展
中国のオタクが個から集、そしてまた個へと変化していった経緯をネット海賊版アニメ、コスプレ文化、同人誌文化の歴史から紹介してきました。
個から集に際して、オンライン掲示板やフォーラム、そして雑誌、大学が大きな作用点となりましたが、集まった人々はそこから細分化し、新たなコンテンツに対する判断、鑑賞基準を作っていきます。そこには中国で独自に発展したプラットフォームの存在がありました。
今回は、以前紹介した中国のオタク文化の細分化と共に様々なネットプラットフォームが立ち上がり、衰退、勃興していく中、オタクがどのようにそれらを利用していったか紹介したいと思います。
ネットプラットフォームとはサービスやシステム、ソフトウェアを提供・カスタマイズ・運営するために必要な「共通の土台(基盤)となる標準環境」とされています。コミュニケーションの土台となる、という意味では、グループチャットができるチャットソフトやコミュニティを形成できるSNSも含むので、旧来的な掲示板やフォーラム以外にもBilibiliや愛奇芸のような動画プラットフォームやチャットツールも含め、年代別に紹介していきたいと思います。
2000年代初頭:チャットツール「テンセントQQ」
オタク文化の発展のみならず、中国全体のビジネススピードにも大きく寄与しているのがテンセントが運営しているチャットツール「騰訊QQ」です。QQは当時世界的にユーザーが多くいたICQをモデルに開発されたツールですがオタク文化のプラットフォームになったのは、2000年代、フォーラムでは動画アップロードができず、まだ動画プラットフォームもなかった時代、動画やゲームファイルを気軽に友達同士で転送できるということ、そして大規模なグループを構築できるという点がその理由に挙げられます。
中国のインターネット元年と呼ばれる1999年2月にリリースされたQQは、2021年現在、MAU(月間アクティブユーザー数)が6億人前後、同じくテンセントが運営する「Wechat(微信)」(2011年・テンセント)の12億に比べると往年の勢いはありませんが、QQの使用者は2000年以降生まれが50%を占めると言われています。ゲームや趣味の大規模コミュニティが多く立ち上がっており、筆者がメイドレストランを経営していた2010年頃は、来客のファンコミュニティをQQで運営していました。
QQのグループチャット「群」(Qun、グループという意味)の参加者は最大500人(現在では条件を満たせば3000人)で、1日あたりの上限はありますが、数百Mbの大容量のファイルを転送することができます。VCDの容量700Mbに海賊版アニメが5~10話ほど詰め込まれていたことから考えると、かなりの量の動画を転送することができます。また500人と言えば、当時、中国の大学のアニメサークルメンバー全員が参加できる規模でもあり、サークル内でQQを使ってアニメ動画ファイルやゲームファイルのやり取りを行うことができたのです。
高校の勉強漬けの日々から解放され、大学で「オタク」デビューした学生たちが晴れてサークルに参加していくという動きは以前にも紹介しましたが、中国では部室やサークル部屋がないことが多く、寮くらいしか集まる場所がない中、QQは部室のような役割を果たしていたと言えるでしょう。
そこはサークルの新着情報の告知やコスプレ大会、イベント参加の通知等を行う回覧板的な機能を持ち、また日常的な情報交換や雑談をするのにとても適したプラットフォームだったのです。
「群」にはサークルやファンコミュニティ用途の側面だけでなく、ゲームの中国語化(「漢化」と呼ばれる)や字幕組制作チームの制作グループ用プラットフォーム的な立ち位置もあります。それは今でも続いていて、字幕組や漢化組は、最初にフォーラム等から仲間を集めてスタートし、QQにグループを作ってリアルタイムに情報交換や動画シェアを行い、役割分担をすることによって作業を進めていました。
このようにして字幕がつけられたアニメやゲームはフォーラムにアップロードされ、フォーラムメンバーへの布教として無償で提供されていました。これらはあくまでも限定的な範囲での利用でしたが、やがてより効率の良いシェアの方法が現れます。動画配信プラットフォームの「土豆」・「優酷」そして弾幕動画サイト「AcFun」です。
2000年代中盤:「土豆」と「優酷」
土豆と優酷はそれぞれ2005年と2006年、AcFunは2007年に登場しています。中国外の動画配信プラットフォームとしては「YouTube」や「ニコニコ動画」がありますが、それら海外の動画プラットフォームと中国の配信サイトはほぼ同時期に立ち上がっています。
土豆の創始者の一人、王微は同サービスを開始した4月15日のことを以下のように振り返っています[1]。
―当時、土豆は全部で5人。まもなく夜が明けようとしている。私は開発プログラマーとパソコンのモニターをにらみ、土豆をサービスインさせるかどうか、決心しかねていた。2005年、私はインターネットの素人で、私のチームもそうだった。
「いくつかのバグの修正がまだです」、「怖くなってきました。もう数日サービスインを延ばせませんか?」
当時、私たちは、私の頭にあるアイデアの開発をはじめて3カ月たっていた。私たちの知る限り、これはこの世界で唯一の動画シェアリングサイトだった。私は誰からも学ぶことはできなかった。世界にはYouTubeさえもなかったのだから。土豆を検索すると、開くのは料理に関するサイトだった(訳者注:土豆は中国語でジャガイモを意味する)。私たちはみなある言葉を知っていた。「もしあるアイディアを思いついたのがあなたひとりだったら、それはいいアイデアではない」。もし、世界中で私たちだけが昼夜問わずこれをやっているのだとしたら、それは極めて愚かなことではないのだろうか。(中略)
「リリースしますか?」
プログラマーが聞いてくる。もう早朝だ。「しよう」私は思い切っていった。「800元のプレスリリース代を準備したんだ。返金できないっていうんだぜ。」
無知な者は恐れを知らず。私はあの時、中国のインターネットの恐ろしさと難しさをまだまったく知らなかった。
少しでも多くの金を払って自分を追い込み、この危険きわまりない窮地に身を置くことは、恐怖を克服するもうひとつの方法だった。
YouTube社の設立は2005年2月、3人の創設者の一人、ジョード・カリムの有名なサンディエゴ動物園の象の動画が投稿されたのが4月23日、β版が公開されたのが5月と言われているので、土豆はおそらくYouTubeのメンバーと同じぐらいの時期に着想を得て、YouTubeより1週間ほど早くリリースされたと言えます。
一方、のちに土豆と双璧をなす動画サイトとして市場を二分した優酷は、2006年6月に会社設立、12月にサービスインしました。
土豆の創始者、王微はドイツのメディアコングロマリット、「ベルテルスマン」の中国エリア総裁で、その後アメリカで衛星テレビの仕事をしており、優酷の創始者、古永鏘(Victor Koo)はアメリカのプライベートファンド「ベインキャピタル」、中国のインターネット会社「捜狐」(Sohu)の副総裁兼CFOを歴任しています。王微は中学中退しているものの、どちらもアメリカで学位を取得しており、海外での留学、就職経験があるエリートです。
土豆は何も参考がなく、資本金もゼロに近い状態から始まった動画サイトですが、優酷は300万ドルを元手に始めたビデオサイトで、王と古の両者の生い立ちを表しているようにも思えます。
この、背景がまったく異なる二つの動画サイトはすぐに中国で受け入れられ、多くのオタクがこれらのサイトに動画をアップロードし始めます。
2007年には湖南衛星テレビが放送した中国の男性タレント発掘オーディション番組「快楽男声」、左溢を始めとする天才少年が有名になった同じく湖南衛星テレビのバラエティ番組「天天向上」といった人気テレビ番組の映像がアップされたり、TBS DIGICONで賞も獲得した国産アニメーション『功夫兎』(李智勇・2005年)が投稿されたりと、優酷はデイリー再生回数が1億を突破[2]し、中国で動画サイトが広く使われるようになっていきました。この時点で、土豆、優酷、のほか、2005年サービス開始の「PPTV」、「LeTV楽視」と、すでに少なくとも4社の動画サイトが登場しています。このころから、日本でもサイトにあげられた日本アニメの無許可アップロードが注目され始めました[3]。
そんな中、2007年にニコニコ動画がサービスインします。ニコニコ動画の弾幕や「歌ってみた」、「踊ってみた」等の投稿スタイルは中国のオタク文化にも大きな影響を与えます[4]が、これはそのフォーマットを学んだというより、「二次創作」を一般人でも行えるという考えを知らしめたことが大きかったと言えます。
従来の動画プラットフォームにおける字幕組は、アニメの仕入れ担当、日本語の書き起こし担当、翻訳担当、編集担当など、比較的専門的な知識やスキルが必要でした(今でこそ動画編集はハード的にもソフト的にも手軽になりましたが、当時はまだまだ素人にはできない作業でした)。それまでは単純に「見る」だけだった消費者も、自分たちもコンテンツに「参加できる」という考え方をニコニコ動画から学んだのです。
そうして登場するのが、「〇〇してみた」の中国独自の形である「日本アニメを中国語にアフレコしてみた」(同人アフレコ)です。その中で一番最初に、そして一番バズったのが『ギャグマンガ日和』(増田こうすけ・2000年~)アニメ版の同人アフレコでした。
2010年5月、南京にある中国傳媒大学南広学院の学生サークル「CUCN201」がアフレコした『ギャグマンガ日和』の第10話「西遊記 ~旅の終わり~」がアップされました。この動画は瞬く間にQQやフォーラムでシェアされ、彼らが独自に当てはめたセリフに出てくる単語、「老湿」[5]、「給力」[6]、「最終形態」などがネットスラングとして広まります。これらの言葉、特に「給力」は爆発的に流行し、人民日報一面の見出しで使用され、国から「メディアはネットスラングを使わないように」というお達しが出るほどの事態となりました。
これらネットスラングが「ニューヨークタイムズ」でも解説され、「給力」(ピンイン表記:geili)は「gelibable」「geibility」など活用変化し英語のスラングとしても流行ったと中国で話題になりました。そうした言葉の浸透も、動画サイトが一般層に定着していたことを示しています。
そんな中、登場するのがアニメ専門動画サイト、「AcFun」と「Bilibili」です。
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