宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.12.15

どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生|小山虎

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第13回。
ヒトラーのナチス総統への就任がせまる1930年代、いち早く渡米してアメリカの学術研究の中心地になるプリンストン高等研究所に所属することになったフォン・ノイマンとゲーデル。二人をこの地に招き寄せ、結果的にのちのコンピューター技術発展の立役者になった先達の数学者らの足跡を追いかけます。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第13回 どうしてフォン・ノイマンとゲーデルはアメリカにやってきたのか──アメリカ学問の中心地プリンストンの誕生

前回はアメリカに来てからのタルスキに焦点を当てた。では、フォン・ノイマンとゲーデルはいつ、どのようにしてアメリカにやってきたのだろうか。フォン・ノイマンが初めてアメリカ・マンハッタンの地を踏んだのは、1930年にまで遡る。タルスキの9年前、アシモフの5年前だ。プリンストン大学に招聘されたフォン・ノイマンは、それから数年、アメリカとドイツを行き来する生活をすることになる(本連載第1回)。そして、1933年に設立されたプリンストン高等研究所の最初のメンバーとなり、ここを拠点にして様々な活動を行う。コンピューターの開発に関わり、ノイマン型アーキテクチャーを考案するのもその一つだ。
ゲーデルの最初の渡米は、フォン・ノイマンより3年後の1933年の秋。アシモフのコロンビア大学面接(本連載第11回)より1年半ほど前のことである。その時ゲーデルは、フォン・ノイマンのいるプリンストン高等研究所のメンバーとして1年間滞在し、オーストリアに帰国する。その後ゲーデルは2度アメリカを訪れるが、最終的に1940年に渡米した後、アメリカ市民権を取得して永住することになる。
だが、どうして彼ら二人はアメリカに、そして同じプリンストンという土地に来ることになったのだろうか。そのためには、アメリカに来て以降のフォン・ノイマンとゲーデル両名の終生の地となったプリンストンの歴史をひもといてみる必要がある。

研究大学としてのプリンストン大学の誕生

プリンストンといえば、まず思い浮かぶのはプリンストン大学だろう。プリンストン大学は、世界の研究をリードするトップクラスの名門大学の一つであり、我が国でもその名は広く知られている。だが、意外かもしれないが、フォン・ノイマンとゲーデルが初めてプリンストンにやってくるよりも前の1920年代までのプリンストン大学は、決して現在のような世界的にも高名な大学ではなかった。
プリンストンは、ニューヨーク州の西隣にあるニュージャージー州の決して大きくない町である。ニュージャージー州は、隣接するニューヨーク州がもとはオランダ領だったこともあり(本連載第11回)、オランダ移民が多く、彼らが建設した入植地が数多くあった。プリンストンもその一つであり、その名もオランダにちなんだものだ。現在のオランダ王家は、オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau/Orange-Nassau)家というが、オラニエ=ナッサウ家では、代々の当主が「オラニエ公(Prins van Oranje/Prince of Orange)」という肩書きを受け継ぐしきたりになっている。プリンストンという名は、そのオラニエ公の町、すなわち、「プリンス(公)のタウン(町)」ということで、「プリンストン(Princeton)」と呼ばれるようになったとされているのだ。

「プリンストン大学」という名前は、所在地であるプリンストンという町に由来するものだが、最初から「プリンストン大学」だったわけではない。もともとプリンストン大学は、ニュージャージー州の最初の大学として1746年に設立されたものであり、当初は「カレッジ・オブ・ニュージャージー(College of New Jersey)」という名称だった。本連載の読者であれば、カレッジということから推測できるかもしれないが、アメリカ最古の大学であるハーバード大学と同じく、当初は聖職者養成を目的としたものであり、現在のような研究大学ではなかった(本連載第9回)。
カレッジ・オブ・ニュージャージーは設立10年目の1756年に、プリンストンに引っ越してくる。だが、「プリンストン大学」という名前になるのはもっと後になってからだ。1896年、創立150周年を迎えたカレッジ・オブ・ニュージャージーはそれを機に、所在地に合わせ、名称を「プリンストン大学(Princeton University)」と変更する。そして改名と歩調を合わせるかのように、プリンストン大学は、現在我々の知る世界的な研究大学への道を歩み始めるのである。

プリンストン大学が研究大学へと変わるきっかけとなったのは、1902年、後にアメリカ大統領となるウッドロー・ウィルソンがプリンストン大学の学長に就任したことだ。ウッドロー・ウィルソンはプリンストン大学の卒業生であり、ジョンズ・ホプキンス大学大学院で政治学を学んで博士号を取得した後、母校プリンストン大学に教授として帰ってくる。そしてウィルソンは、母校をジョンズ・ホプキンスのような研究大学へと変えることを目指し、学長に就任するのである。プリンストン学長としての手腕を評価されたウッドロー・ウィルソンは政治家に転身し、ニュージャージー州知事となる。そしてさらには第28代アメリカ大統領となる。博士号を持ったアメリカ大統領は彼が最初だ。

ジョンズ・ホプキンス大学はアメリカ最初の研究大学だった(本連載第9回)。ウィルソンは、自らが博士号を取得したジョンズ・ホプキンスを参考に、プリンストンに大学院を設置し、研究大学への道を進ませる。それを実現するためにウィルソンは教授陣の数も倍増させる。また、それまでプリンストンにはいなかった、ユダヤ人やカトリック教徒の研究者も迎え入れる。ウィルソンの大胆な改革には、保守的な旧来の教授陣や同窓生からの抵抗も大きく、これがウィルソンの政治家転身のきっかけでもあったのだが、ウィルソンによる一連の改革がなければ、いま我々が知るようなプリンストン大学がなかったことは疑いない。

画像1プリンストン大学最古の建物ナッソー・ホール(Nassau Hall)。
この名称もまたオランダ王家オラニエ=ナッサウ(Oranje-Nassau)家から来ている。(画像出典

アメリカの数学を変えた男、オズワルド・ヴェブレン

さて、ウッドロー・ウィルソンによる大学改革により、一人の数学者がプリンストンに職を得ることになった。彼の名はオズワルド・ヴェブレン。ヴェブレンこそ、フォン・ノイマンとゲーデルをアメリカに招いた張本人である。彼ら二人以外にも、例えばアインシュタインを招いたのもヴェブレンであり、ヴェブレンがいなければ、こうした数学や物理学の歴史で一、二を争うような学者がアメリカに来ることは、おそらくなかっただろう。それだけではない。様々な意味でヴェブレンは、アメリカの数学を大きく変えた人物なのである。

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