『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第2回 のび太系男子の闇・前編 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.09.04
  • ドラえもん,稲田豊史

『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第2回 のび太系男子の闇・前編

本日は大好評の稲田豊史さんによるドラえもん論『ドラがたり』の第2回をお届けします! 今回のテーマは「のび太系男子の闇」。元々「人格的にもアウト」ですらあったのび太というキャラクターが、「残念だけど優しくていい奴」というイメージへと変わっていったのはなぜなのか? 今回配信の前編では、時系列を追いながらのび太イメージの成立過程を読み解きます。


 

■ 前回記事
稲田豊史『ドラがたり――10年代ドラえもん論』第1回 作風とっちらかってる問題

● のび太は人格的にもアウト

『ドラえもん』の準主役、否、考え方によっては主役と呼んでも差し支えないのが、野比のび太である。勉強も運動も苦手な、怠け者で弱虫の小学生。意志が弱く、すぐ人に頼ろうとする。残念な子供の典型だ。
ドラえもんとは、あまりにもダメすぎるのび太の面倒を見るべく22世紀から送り込まれたネコ型ロボットである。送り込んだのは、のび太の孫の孫であるセワシ君。もともとはセワシが小さい頃に子守り役だったお世話ロボットがドラえもんであり、のび太はそのお下がりをあてがわれたというわけだ。なお、セワシという名前は「世話し」から来ていると思われる。
今や「のび太=劣等生の象徴」という認識は、日本国民ほぼすべてに行き渡っているといってよいだろう。ただ、のび太が「頭脳・体力面で平均値より劣る」という認識はあっても、「人格面でも劣る」という認識はそれほど人口に膾炙していない。
実はのび太ほどのクソ野郎は、なかなかいない。まずは、のび太のクソ野郎ぶりがわかるエピソードをいくつか拾ってみよう。

てんコミ(てんとう虫コミックス)2巻「ゆめふうりん」では、のび太が「大人になったらガキ大将になりたい」と発言してパパを失意のどん底に叩きつける。「こどものうちになれないから、おとなになってからなるんだ」とのび太は説明するが、残念にもほどがある。
てんコミ21巻「いばり屋のび太」では、タイムふろしきで大人になったのび太(精神性は子供のまま)が、ジャイアンやスネ夫たちに威張り散らして悦に浸るという、寒すぎる行動を起こす。
てんコミ23巻「透視シールで大ピンチ」では、優等生の出木杉君としずかちゃんの交換日記を盗み見するという、人として完全NGの悪事を働いた。その上、のび太が糾弾されたり罰されたりということがないまま物語が終わるので、むしろ後味が悪い。ちなみに盗み見自体は過失だが、それは出木杉のノートを盗み見して宿題を写そうという悪巧みに端を発したことなので、どちらにせよ情状酌量の余地はない。
人間的アウト度が図抜けて高いエピソードなのが、同じく23巻の「ボクよりだめなやつがきた」だ。ここではのび太以上に勉強も運動もできない転校生・多目(ため)くんが登場し、のび太は彼に友好関係を結ぼうと接近する。要は「自分よりダメな人間が来たから自分がいちばんダメではなくなった、だから嬉しい」という感情を無邪気に表しているのである。
これは、「クラスのいじめられっ子が、ターゲットが自分以外に変更されて喜ぶ」のとまったく同じ構造。貧しい農民に不満を抱かせないよう、その下に卑しい身分の存在を設定した中世支配層のさもしい発想と変わらない。劇中、のび太が「あいついいやつだよ。ずっと親友になろう」発言するに至るくだりでは、ドラえもん全作中、最高レベルに醜いのび太の言動が目白押し。ちょっとありえないくらいの心根の卑しさは、むしろ必読である。

また、のび太は非モテのくせに、童貞ネット民なみに上から目線で女子を品定めする。
てんコミ18巻の「ガールフレンドカタログ」では、「ぼくの身のまわりで、これから……25歳くらいまでの間にあらわれる女の子を全部知りたい」などと下卑た欲望を口に出し、ドラえもんの道具(ガールフレンドカタログメーカー)を使って、今後知り合う全女子の写真とパーソナルデータをウヒウヒと閲覧する。しかも「かずは多いけど、質がどうもな……」などと、ネットなら一発炎上のセリフをつぶやくのだ。全国の小学生女子はドン引きしたであろう。
ちなみにこの時点で、のび太の結婚相手はしずかちゃんであることは確定している。なのになぜ…という疑問も生じるが、のび太のセリフを引用すると、「結婚は一生のことだからね。あとからちがう子を知ることだってあるし……」。要はしずかちゃんとは別に保険を打っておきたいのだ、このクソ野郎は。
「保険」「キープ」はのび太の得意技で、てんコミ24巻「虹谷ユメ子さん」でもやらかしている。これはのび太が少女雑誌の文通欄を利用し、今で言うネカマのように女の子人格になりすまし、女子との文通を目論むエピソード。その動機ははっきりと「しずちゃんにふられたときのすべりどめ」だそうだ。下劣極まりない。
てんコミ37巻「たまごの中のしずちゃん」は、しずかちゃんを出木杉に取られるのではないか?と懸念したのび太が(未来で結婚することが決まっているのに、この肝っ玉の小ささったらない)、しずかちゃんの心ごと“書き換え”ようとする恐ろしいエピソードである。「刷りこみたまご」という道具にしずかちゃんを入れてフタをし(少女を完全にモノ扱いである)、15分後にフタが開くと最初に見た人間(のび太)を好きになる――という、どこぞの陵辱系エロゲーにでもありそうなシナリオだ。犯罪スレスレのマインドコントロールであり、道具を出したドラえもんもドラえもんだが、のび太がこれに大乗り気なのがひたすらイタい。
ことしずかちゃんが相手となると、のび太の鬼畜度は大幅にアップする。てんコミ38巻「冒険ゲームブック」でのこと。出来杉と一緒に「しずかちゃんを救う」というミッションを設定してファンタジー系のゲームを開始したのび太だが、知力も体力もないため、どの課題もうまくいかない。最後はズルをして出木杉を出し抜こうと、どこでもドアを使う始末。卑怯極まりないチート野郎だ。心根が腐っている。

なお、てんコミは藤子・F・不二雄の自薦によるベスト盤なので、のび太のクソぶりがこの程度に押さえられているが、てんコミ収録作以外の作品では、さらに目を覆うようなクソぶりが拝める。
ドラえもんプラス(以下、プラス)4巻「チューケンパー」でのび太は、「ぼくだけを信じ、ぼくのためだけを思い、そんな友だちがほしいなあ」と発言した。どこぞの半島の将軍様並みの発想に、開いた口が塞がらない。実際のび太に、ドラえもんを除いて“親友”と呼べる友達がいるかどうかは微妙であることからも、この発言の業は深い。
プラス5巻の「ユメコーダー」では、のび太の将来の夢が、「朝から晩までしずかちゃんとくっついて家に居る」ことだと判明する。仕事はどうするんだとドラえもんに聞かれたのび太は「どうでもいい」と返答。昔の貧農なら完全に口減らしの対象である。
極めつけは同じプラス5巻の「いたわりロボット」だ。のび太より年長の「優しいお姉さん」といった見た目のロボットが、のび太をひたすら過保護にいたわり続ける、恐ろしい道具である。彼女はのび太がどんな失敗をしても、「小さいことにこせこせしないのが長所」だの、「勉強ができなくても偉くなった人はいる」だのという強引なポジティブワードを連発し、のび太をスポイルする。
劇中、彼女の膝に顔をうずめるのび太はまさに廃人。マザコンの引きこもり男が母親の庇護下で生き続けるイメージが頭から離れない。しかも、その直後タイムテレビに映った未来ののび太は、インパクト絶大なホームレス物乞いルック。それでも彼女に「こうなっちゃえば、火事や泥棒の心配もいらない」と諭され、「ぼかあしあわせだなあ」と言う(物乞い姿で)。一撃で読む者の心を荒ませる、破壊力抜群の一コマだ。

● 「のび太再評価」3つの理由

もちろん、これらの話のいくつかは、結末でのび太にしっぺ返しが下ったり、のび太が反省して改心したりする。しかし、それは当該エピソード内でだけのこと。翌月の連載誌では、あいも変わらずのび太が倫理に反した行動を取る。のび太は骨の髄まで「心身ともに残念な奴」なのだ。
一部の「感動作」と呼ばれる短編や大長編ドラえもんを引き合いに出し、「のび太は成長している」「のび太の成長こそが『ドラえもん』のテーマだ」と主張する向きは少なくない。しかし、果たして本当にそうだろうか? 感動作も大長編もあくまでスペシャル回であり、それをもってのび太の人格を決定するのは、いささか無理があるのではないか。後から反省した、成長したからと言って、文通を盗み見したり、人の心を書き換えようとするような人間性に、弁護や擁護の余地はない。
『ドラえもん』は、未来の道具に帯びるセンス・オブ・ワンダーを楽しむSF(藤子・F・不二雄風に言えば、す【S】こし・ふ【F】しぎな)物語であり、ヒューマンドラマや成長物語ではない。ヒューマンドラマや成長物語といった品行方正イメージは、前回【第1回】でも述べたように、1980年代初頭に確立されたものにすぎないのだ。なお、1980年には「のび太が成長する系ストーリー」の原点とも言える大長編一作目『ドラえもん のび太の恐竜』が公開されている。
藤子・F・不二雄は、『のび太の恐竜』以降も、変わることなく人格的にダメなのび太を描き続けた。その点からも、やはりのび太のデフォルト性格設定は「心身ともに残念な奴」なのだ。感動作や大長編で描かれるのび太は、作者としても「よそ行きののび太」であり、盆と正月に親戚の家でだけ「良い子」を演じる小学生と同じである。

ところが、藤子・F・不二雄が逝去した96年前後を皮切りに、かつて『ドラえもん』を読んでいた大人たちの間に、「のび太再評価」の気運が生まれ始める。前述の「のび太は成長している」ことをひとつの足がかりに、平和主義でノンビリ屋ののび太というキャラクターを、哀れみではなく好意的に捉えようとするものだ。
「のび太再評価」ムーブメントを具体的に後押しした要因は、90年代中盤から後半にかけて大きく3つ存在した。

第一が、小学館コロコロ文庫(全18巻)の存在だ。
1994年に第一弾・全6点が刊行され、2005年まで続いたこのシリーズは、巻ごとに「恋愛編」「0点・家出編」「感動編」といったテーマ別でまとめられており、手軽にドラえもんのエッセンスを味わえる傑作選の役割を果たしていた。特に1990年代半ばはマンガ文庫の隆盛期だったため、多くの書店で平積みにされていたのを見かけた人も多いだろう。
本文庫は傑作選だけあって、物語として完成度の高い「のび太成長系・感動系」の美談も多く収録されている。そのため、てんコミ版を丹念に追っていない(=のび太のクソ野郎ぶりをあまり知らない)相当数の大人読者が、のび太の人格に対してあまり悪い印象を抱くことなく、のび太を持ち上げるいち要因にもなったのだ。

第二が、1998年ごろからチェーンメールを中心として広く流布した、「幻の『ドラえもん』最終回」だ。藤子・F・不二雄による『ドラえもん』の最終回といえば、70年代に学年誌の年度変わりである3月号に描かれた「さようなら、ドラえもん」(てんコミ6巻収録)だが、作品自体はその後も続いたので、本来的な意味での最終回は存在しない。
ネット上に流布した「幻の最終回」は、作者知らずの二次創作テキスト(のちにコミック版も登場)であり、無論、藤子プロ非公認のもの。プロットにはいくつかのバリエーションがあるが、最も流布していたのは以下のようなものだ。

 ドラえもんがバッテリー切れで停止する。しかしドラえもんはメモリのバックアップ機能が詰まっている耳がない(元々の製造課程ではついていたが、ネズミにかじられてなくなった)ので、電池を交換するとメモリから記憶が飛んでしまう。つまりのび太との思い出も消えてしまうのだ。
のび太は悩んだ末、ドラえもんの電池交換をしないことに決める。それ以来、のび太は人が変わったように勉強をするようになった。
長い年月が経ち、世界的な技術者になった老のび太は、メモリを保持したままでドラえもんを再起動することに成功。ドラえもんが「のび太くん、宿題やった?」という言葉を発し、物語は終わる。

 

のび太が特定のエピソードで「頑張り屋」的な側面や「ドラえもんへの想い」を見せることは、あるにはある。それを「こうあって欲しいとファンが望む」最高の形で具現化したのが、この最終回というわけだ。
たしかにこの話はよくできている。エモーショナルであり、かつSF短編としても巧い。それでいて『ドラえもん』の世界観を熟知した上で作られているため、二次創作としての完成度が高い。単純に読み物として面白いし、泣ける。


 

▼執筆者プロフィール
稲田豊史(いなだ・とよし)

編集者/ライター。キネマ旬報社でDVD業界誌編集長、書籍編集者を経て2013年にフリーランス。『セーラームーン世代の社会論』(単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)、評論誌『PLANETS』『あまちゃんメモリーズ』(共同編集)。その他の編集担当書籍は、『団地団~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『成熟という檻「魔法少女まどか☆マギカ」論』(山川賢一・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』など。「サイゾー」「アニメビジエンス」などで執筆中。http://inadatoyoshi.com

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