長谷川リョー『考えるを考える』 第3回 産業医・大室正志に聞く、"自分探し系"生き方への処方箋 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2017.12.26
  • 長谷川リョー

長谷川リョー『考えるを考える』 第3回 産業医・大室正志に聞く、”自分探し系”生き方への処方箋

編集者・ライターの僕・長谷川リョーが(ある情報を持っている)専門家ではなく深く思考をしている人々に話を伺っていくシリーズ『考えるを考える』。前回は21世紀の空海・石山洸さんが構想するメディア・レボリューションについてお伺いしました。第3回目となる今回はテレビをはじめ各種メディアで大活躍している産業医の大室正志先生です。教養と知識に裏打ちされた軽妙な語り口で知られる大室先生に、「働き方」や「メンタルヘルス」の現在から、大室先生自身の思考方法についても迫りました。「体系知から初期衝動へ関心が移ってきた」ーー。大室先生の知の源泉には、山下達郎から始まる音楽遍歴がありました。

長谷川 情報が氾濫しているなかで、特定の情報に精通した専門家の方は数多くいらっしゃいます。事実、産業医である大室先生も「働き方」や「メンタルヘルス」にスペシャリティを持たれています。一方で、テレビや雑誌など幅広いメディアで畑の違う方々と対談をされているのを拝見すると、専門から飛び出して思考しているのではないか、と考え今回取材を打診させていただきました。

大室 僕の思考の原型に影響を与えた一人は、現代アートの祖と呼ばれるマルセル・デュシャンです。磁器の便器を横に置いて署名しただけの彼の作品『泉』は物議をかもしました。彼は「選択と配置」という言葉で、この作品を説明します。つまり、選んで、配置し、『泉』と名付けたわけですね。「選択と配置によって、無から有を生み出す」ーーこういった思考に自分の原点があります。

音楽の世界でも同様で、スティーヴィー・ワンダーは新しいコード進行やメロディーを生み出す天才。無から有を生み出すために、音楽的知識を組み合わせるのに長けているわけですね。

長谷川 とはいえ、選択と配置をするために、そのベースとなる考え方のフレームも必要になりますよね?

大室 カントが提示した「真善美」のフレームが分かりやすいかもしれません。物事は「真か偽か」、「善か悪か」、「美か醜か」で判断できるわけですが、話のピントが合わない人は、おそらくこの判断基軸の前提を相手に合わせることが苦手です。たとえば、「この前観た『アウトレイジ』良かったね〜」といった話をしているとき、明らかに誰も『アウトレイジ』の極悪非道な内容自体は肯定していませんよね。

長谷川 「全員悪人」ですからね(笑)。

大室 そう。ただ、「あの映画は美しかった」と話しているにすぎない。「あれは法律違反だ」と言い出せば、いつまでもピントが合いません。ただし、それが行き過ぎても「映画は美か醜で観るもの」だと固定化されてしまう。なので、常にフレームワークを変えてみる発想を心がけています。

僕自身、完全に物事のフレームワークが異なる医学とビジネス、二つの世界に身を置いているわけです。労働者の健康のためのフレームワークと、収益性というビジネスのフレームワーク。どの立場から物事をみるかで、単位が変わっていきます。

医学と権力、病は社会によって規定される

長谷川 僕が門外漢ということで、医学界のフレームワークについても少しお聞かせください。大室先生の分野はもしかしたら精神病理学寄りなのかもしれませんが、医学自体が西洋的概念の産物に近い印象を持っています。大きな括りでは東洋医学もあるわけですが、産業医の目からはどのように全体像を見られているんですか?
11cac5ed83a3efe0eeff5ba696c4c0f6ea78b911

大室 西洋医学は、まず体を臓器別に分解します。つまり、身体の悪い箇所を治す考え方。一方、東洋医学は身体全体をトータルなシステムとして捉え、悪い部分を除去する。システム全体の統合を目指すイメージです。なので、考え方そのものは異なります。

ただ、西洋医学のなかでも新たな事実が少しづつ明らかになってきました。たとえば、小腸が免疫作用を担っていることや、脳だけではなく、実は身体も物事を考えていることなど。つまり、必ずしも部分別に分けるだけではうまくいかないことが分かってきた。西洋医学的な考え方と東洋医学的な考え方は対立概念なのではなく、富士山を静岡側から登るか、山梨側から登るかといった、似た考え方だったのではないかといった気もします。

長谷川 長い時間軸をとると、一昔前は精神病患者は投獄されてわけじゃないですか。権力と医学の関係性にも興味があります。

大室 まさにミッシェル・フーコーが『狂気の歴史』で書いたことですね。精神病はあるときに発見され、可視化されたことで管理されるようになった。ただ、「精神病」はあくまでも社会的に定義されるため、その時々の社会にも影響されます。

「誰々に盗聴されている」といった典型的な統合失調症が減少していることを示すデータがあります。昔であれば、ある村で患者が出ると、その人たちは座敷牢に隔離されていたんです。昭和には、北関東の山奥にそうした人たちを収容する病院がありましたし。

長谷川 現在はどうなっているんですか?

大室 二人以上の精神保健指定医の同意がない限り、強制入院ができないよう、人権的な配慮がなされるようになっています。権力構造としては、一定の解決に向かっているといえるでしょう。

そうした大文字の精神病は一定の人権的配慮がなされている一方、今の社会構造はほとんどの分野でコミュニケーションが求められます。コミュニケーションが取れる人が正常とされ、そうではない人は「コミュ障」と呼ばれますよね。空気を読み過ぎるのに疲れ果て、その挙句に極端な行動に走れば、「人格障害」と言われ、読まな過ぎたら「発達障害」と言われてしまいます。ただその「基準となる空気」は時代、地域、集団によって変わりますので絶対的なものではない。

長谷川 社会状況が病を規定するということですね。

大室 分かりやすい大きな権力構造から精神病の人が分断されるというより、ゆるやかにコミュニケーションがうまく取れない人間が排除されるということです。そこにある種、精神科的な疾患のレッテルを貼られてしまうのが現在なのかもしれません。

この記事の続きは、有料でこちらからお読みいただけます!
ニコニコで読む >>
noteで読む >>

関連記事・動画