森田真功「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」 第2回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(1) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.09.07
  • 森田真功

森田真功「関与するものの論理 村上龍と20-21世紀」 第2回『オールド・テロリスト』と『希望の国のエクソダス』をめぐって(1)

批評家の森田真功さんが、小説家・村上龍の作品を読み解く『関与するものの論理 村上龍と20-21世紀』。2015年刊行の長編小説『オールド・テロリスト』の舞台は、『希望の国のエクソダス』(2002)の19年後の日本です。00年代と10年代、少年と老人、建国とテロリズム――対象的な主題を扱うこの2作品に共通しているのは、週刊誌・ワイドショー的な想像力が成立させている共同体への、強烈な否定でした。
老人たちの蜂起を描く『オールド・テロリスト』
80年代や90年代における活発さと比べるのであれば、近年の村上龍は作家としての活動をさぼり気味である。したがって、目下のところの最新作は、2015年に発表された『オールド・テロリスト』だということになる。『オールド・テロリスト』が古い世代の存在とテロリズムに紙幅を割いていることは、題名に示されているとおり。単行本の「あとがき」にある村上の言葉を借りるなら〈70代から90代の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がるという物語のアイデアが浮かんだのは、もうずっと前のこと〉であって〈彼らの中で、さらに経済的にも成功し、社会的にもリスペクトされ、極限状況も体験している連中が、義憤を覚え、ネットワークを作り、持てる力をフルに使って立ち上がればどうなるのだろうか〉という問いを作品の支柱にしていることがわかる。


▲『オールド・テロリスト』(2015)

老年に差し掛かったベテランの作家が、老人に材を取った作品に取り組むことは一種の必然であろう。自身が関わっているテレビ番組の「カンブリア宮殿」で巡り会った成功者をヒントにした部分があるのかもしれない。いずれにせよ、若い世代の共感に寄り添うような立場とは距離を置き、物語が作られていることは明らかだ。1996年の『ラブ&ポップ』に付せられた「あとがき」における〈(女子高生のみなさん)私はあなた方のサイドに立ってこの小説を書きました〉という発言のなかで射程に置かれていたのとは異なった層が『オールド・テロリスト』では見据えられているのである。他方、社会の高齢化は、2010年代に入り、より深刻になりつつあって、そこにフォーカスを絞った作品だとも読める。ちなみに2015年には、かつてヤクザであった老人の右往左往を描いた北野武の映画『龍三と七人の子分たち』が公開されている。こうしたシンクロニシティは、いかに社会の高齢化がオンタイムなテーマであったかの証左になりえると思う。

さて、しかし、率直に述べれば、『オールド・テロリスト』は、村上龍の著作において特に秀でた小説というわけではない。荒唐無稽な筋書きと登場人物たちを囲うスケールとが、どうもちぐはぐな印象を受けるし、展開に中弛みがあり、終盤のカタストロフィまで引っ張っていく力に弱さを覚えるのである。熱心なファンでさえ(あるいは熱心なファンだからこそ)まず『オールド・テロリスト』を挙げる向きは少ないのではないか。だが、決して捨てておくべき小説でもない。先にいったように、今日的な社会の問題、現代的な日本の風景を作品は下敷きにしており、それを切り出していく筆致に村上龍の「らしさ」がある。この国と、そして、この現在とに直結した困難を突きつけてくるかのような「らしさ」である。全体の整合性であるよりも一場面ごとにグロテスクなうねりを感じさせる「らしさ」が、作品に長編であることとは別のレベルでヴォリュームを与えているのだ。では、その「らしさ」は何によっているのか。『オールド・テロリスト』の語り手であるセキグチのプロフィールが大きな手がかりとなっている。

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