ネトウヨ時代の「二重の卑しさ」にどう抗うか――「ナショナリズムの現在」に寄せて(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.08.15

ネトウヨ時代の「二重の卑しさ」にどう抗うか――「ナショナリズムの現在」に寄せて(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、2014年に刊行された対談集『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来 』の電子版に掲載された、宇野常寛による「あとがき」をお届けします。ネットにとめどなく溢れるヘイトスピーチに対し、「卑しさ」の再生産に陥ることなく立ち向かうための「語り口」を見出し、それを維持できる「場」を構築するという決意を語ります。
※この記事は2014年12月12日に配信した記事の再配信です。

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▲左=紙書籍版『ナショナリズムの現在』(朝日新聞出版)/右=電子版『ナショナリズムの現在』(PLANETS)

 

※紙書籍版には、電子版『ナショナリズムの現在』の内容に加えて、宇野常寛と萱野稔人さん、與那覇潤さんとの対談がそれぞれ収録されています。

 

あとがき

 本書は今年2月に行われたシンポジウム「ナショナリズムの現在─〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来」の再録に大幅な加筆修正を加えたものを中心に、その前後に行われたふたつの対談によって構成されている。
 最後の収録から数カ月が経ったが、この間僕がずっと考えていたのはいったいいつの間にこの国は、こんなに卑しくなったのだろうか、ということだ。
 議論のなかで、僕たちはヘイトスピーチ的なものへの対決と、そのために必要な現実的なリベラルの構築を、そしてカルト化する保守勢力の歯止めの必要性を確認し合ったはずだ。その結論に、修正を加える必要はとくに感じていない。ただ、ほんとうにそれだけでいいのか、問題はもっと見えづらく、そして厄介なところにあるのではないか、という思いが今の僕の頭の中には渦巻き続けている。
 自衛官だった僕の父親は生前、中国の覇権主義的な外交に違和感を示すことが少なくなかった。しかし、その一方で大陸の文化には深い敬意を抱いており、僕は小さい頃からその精神と歴史を学ぶようにと言われて育った記憶がある(怠惰な僕はせいぜいビデオゲームの「三国志」シリーズにハマった程度だったが……)。僕の父親は専門家でもなんでもなく、これはごくごくありふれた、単に間違っていないだけの凡庸な見識にすぎないと思う。しかしこのような最低限の「凡庸な妥当さ」さえも成立しなくなっているのが現代の日本なのだ。

 

 そしていま本屋に足を運べば、隣国を蔑み、敵視することで読者を満たそうとするサプリメントのような見出しが並び、ネットを覗けばとめどなくヘイトスピーチが流れてくる。
 もちろん、こうした排外主義や民族差別に対しては決然と対応するしかないのだが、たぶんモグラ叩きのようにこれらに対抗するだけでは、対症療法だけではダメなのだという思いも日に日に強くなっている。
 いま、この国の社会には隣国の人々を蔑まないと自信がもてない、卑しい人々が増えている。その背景にはたとえば、経済的なものもあるのだと思う。貧すれば鈍する、というのも間違いないし、その一方で結局日本の実情に即した市民社会を構築できなかった政治文化的な問題もあるだろう。
 そしてその結果、いま僕がいちばん怖いなと思うのが、この卑しさが「ネトウヨ」たちの外側にも広がりつつあることだ。
 たとえば僕は、2012年に自民党の石破茂氏と対談本を出版した。同書に収録された対話のなかで、氏と僕とのあいだには当然、意見が合うものもあれば合わないものもあった。しかしある日、僕はTwitter上で「自民党の国会議員と本を出したあいつは敵だ」と罵倒する投稿が何百回もリツイートされているのを見て愕然とした。自民党の幹部とは、話し合いのテーブルにさえついてはいけないのだろうか。それでは、少しでも親中、親韓的な発言をした人間を「サヨ」と決めつけ、言動の内実も吟味せずに罵倒する「ネトウヨ」たちと変わらないのではないか。
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