ニューヨークの大学とユダヤ人哲学者の系譜|小山虎 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.09.02

ニューヨークの大学とユダヤ人哲学者の系譜|小山虎

分析哲学研究者・小山虎さんによる、現代のコンピューター・サイエンスの知られざる思想史的ルーツを辿る連載の第11回。
19世紀後半の中東欧の動乱を受け、新大陸に殺到したユダヤ系移民たち。その中の一人に、のちにアメリカを代表するSF作家となるアイザック・アシモフの姿もありました。彼が直面したニューヨーク近郊の大学での「ユダヤ人問題」を背景に、科学と哲学を架橋する知的土壌が築かれていくさまを活写します。

小山虎 知られざるコンピューターの思想史──アメリカン・アイデアリズムから分析哲学へ
第11回 ニューヨークの大学とユダヤ人哲学者の系譜

1935年、マンハッタン

1935年の春、一人のユダヤ人の若者が生まれて初めてマンハッタンを訪れた。彼はまだ15歳だったが、飛び級でコロンビア大学に入学する機会を得て、面接審査に臨もうとしていたのだ。彼の名は、アイザック・アシモフ。後に『われはロボット』や『ファウンデーション』シリーズ、そしてロボット三原則で知られるようになるアメリカを代表するSF作家だ。アシモフはロシア生まれだったが、ロシア革命の影響を受けて一家でアメリカに移り住み、マンハッタンの対岸にあるブルックリン地区で幼少時代を過ごしていた。
若きアシモフの面接はうまくいかなかった。だが奇妙なことに、面接官は、コロンビア大学付属のセス・ロウ短大(Seth Low Junior College)という学校がブルックリンにあることをアシモフに教え、入学を勧めた。ニューヨークで育ったアシモフはコロンビア大学についてはよく知っていたが、地元にあるこの短大のことは全く聞いたことがなかった。とりあえずお礼を言って帰宅し、セス・ロウ短大の入学について調べたアシモフは一つの結論に達する。面接官がセス・ロウ短大を勧めたのは、自分がユダヤ人だったからに違いない、と。
セス・ロウ短大は1928年から1936年という短期間だけブルックリン地区に存在した学校だ。入学資格はコロンビア大学の学部であるコロンビア・カレッジと変わらず、学費も同額だったが、二年制であるため卒業しても学士号は得られない。学士号を得るにはロー・スクール等に改めて入り直す必要があった。そして、学生の大半はユダヤ人、それ以外もブルックリン在住のイタリア系アメリカ人のみという極めて偏った構成をしていた。要するに、セス・ロウ短大は、アシモフのようなブルックリン在住で、コロンビア大学への入学を希望するユダヤ人の若者を、コロンビア大学本体から「隔離」するのを目的に設立されたものだったのだ。

前回も触れたように、新天地アメリカへと渡ってきたユダヤ人の多くはニューヨーク近郊に住み着いた。このことには様々な要因があったのだが、今回は特に大学に焦点を当てたい。彼らがニューヨークの大学へと進学していったことは、20世紀のアメリカ哲学にとって重要な意味を持っていたのだ。

画像1セス・ロウ短大は独自の建物すらなく、ブルックリン・ロー・スクールという別の学校の建物の一角に間借りしていた。
http://www.columbia-current.org/seth_low_junior_college.html

宗教と結びついていた建国当時のアメリカの大学

建国当時のアメリカの大学はすべて「カレッジ」であり、その主な役割は聖職者育成だったが(本連載第9回)、聖職者といってもプロテスタントに限られていた。イギリス植民地時代に設立されたアメリカの大学は全て、特定のプロテスタント宗派と結びついていたからだ。例えばアメリカで最も古い大学であるハーバード大学の場合、設立当初の入学者の大半は、プロテスタントの中でも、あのメイフラワー号でアメリカにやってきたピルグリム・ファーザーズと同じ、ピューリタンだった。
ピルグリム・ファーザーズは現在のマサチューセッツ州プリマスに入植地を建設する。このプリマス入植地が近郊の他の入植地と合併して──正確には、より大きく成長していた後発のマサチューセッツ湾入植地に吸収されて──マサチューセッツ入植地となるのだが、いずれの入植地も、ピルグリム・ファーザーズをまねてアメリカに渡ったピューリタンが建設したものであり、支配層はピューリタンだった。実際、初期のマサチューセッツ植民地には、ピューリタンでなければ選挙権がなかったほどだ。そしてハーバード大学を設立したのは、そのマサチューセッツ入植地政府である(本連載第9回)。こうした経緯もあり、別に設立規約に定められていたわけではなかったものの、ハーバード大学は、自然とピューリタン向けの大学となった。20世紀に入るまでカトリックやユダヤ人の学生は数%程度だったと言われている。
似たような事情でピューリタン向けだった大学は他にもある。例えばイエール大学がそうだ。マサチューセッツ入植地は後にマサチューセッツ州になるのだが、マサチューセッツ州をはじめとするアメリカ北東部の6州は、いずれもマサチューセッツ同様にイギリスから逃れてきたピューリタンたちが設立した入植地に端を発するものであり、これら旧イギリス植民地はニュー・イングランド地域と呼ばれるようになる。コネチカット州のその一つなのだが、イエール大学は1701年にコネチカット入植地政府によって神学校として設立されたものである。

だが、ユダヤ人が多く住み着くことになるニューヨークでは事情が異なっていた。そもそもニューヨークは、古くはニーウ・アムステルダム(Nieuw Amsterdam/New Amsterdam)といい、オランダの植民地であるニーウ・ネーデルラント(Nieuw Nederland/New Netherland)に属していた。ブルックリンやハーレムといった著名な地名も、オランダに由来するものである。ニーウ・ネーデルラントは、第三次英蘭戦争の講和条約である1674年のウェストミンスター条約によってイギリスに割譲されるが、オランダの多文化主義や宗教的多様性はそのまま残されることになる。
ニューヨーク最初の大学は、1754年に設立されたコロンビア大学だ。当時の名前は「キングス・カレッジ(King&#39s College)」といい、イギリス国王ジョージ二世の名の元に設立された。宗教的には、イギリス国王を長とするイングランド国教会(アングリカン・チャーチ)に属していたものの、オランダ領だった伝統のおかげで宗教的自由が広く認められていたことという点では、ニュー・イングランドのハーバードやイエールとは異なっていた。
アメリカの独立は、イギリス国王によって設立されたキングス・カレッジにとっては痛手となり、独立後に閉鎖されることになる。キングス・カレッジは1784年、アメリカの古い呼称である「コロンビア」を用いた愛国的な名称「コロンビア・カレッジ(Columbia College)」でもって再出発することになる。その後、アメリカの他の大学と同様に、ロー・スクールやメディカル・スクール、そして大学院を供えるようになったコロンビアは、1896年、正式に「コロンビア大学(Columbia University)」と改称するのである。
こうした経緯もあり、19世紀のコロンビア大学はユダヤ人が多い大学として知られていた。19世紀の終わり頃、当時のアメリカ総人口のうちユダヤ人の割合は3%であり、アイビー・リーグ(コロンビア大学を含むアメリカ北東部の名門私立8大学の総称)全体のユダヤ人学生の割合は7%だったが、コロンビアでは15%にものぼっていたという。

画像2オランダ領時代のマンハッタンの様子(1660年)。
左右に伸びる広い道が後のブロードウェイ、
右側の上下の道が後のウォール・ストリートだと言われている。
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:CastelloPlanOriginal.jpg

「ユダヤ人問題」と「消えていくニッカボッカー」〜アイビー・リーグを恐れさせたユダヤ人学生の増大

アイビー・リーグの中でも特にユダヤ人を多く入学させていたコロンビアが、どうして若きアシモフにこのような差別的な待遇をしたのだろうか。

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