テレビの発展と『変形金剛(トランスフォーマー)』論争|古市雅子・峰岸宏行 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2020.11.10

テレビの発展と『変形金剛(トランスフォーマー)』論争|古市雅子・峰岸宏行

京大学助教授の古市雅子さん、中国でゲーム・アニメ関連のコンテンツビジネスに10年以上携わる峰岸宏行さんのコンビによる連載「中国オタク文化史研究」の第2回。
1980年に中国初のテレビアニメとして『鉄臂阿童木(鉄腕アトム)』が放送されて以降、中央政府の施策によるテレビ局の増加によって、多くの日本のテレビアニメが堰を切ったように一気に上陸していきます。
とりわけ、日米資本が合同した玩具展開とタイアップした1985年の『変形金剛(トランスフォーマー)』の大ブームは、都市部の消費文化に大きなインパクトを与え、中国社会で論争を引き起こしていくことになります。

古市雅子・峰岸宏行 中国オタク文化史研究
第2回 テレビの発展と『変形金剛(トランスフォーマー)』論争

中国で最初のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』が放送されてから、さまざまなかたちで、日本のアニメが中国で放映されるようになります。そこにはテレビ局の増加とそれに伴うテレビ番組の需要の増加がありました。各省だけではなく、その下の行政単位である県や、直轄市でもテレビ局が設立され、毎日途切れず放送を続けるために手探りで努力を続けるテレビ局において、日本のアニメは重要なコンテンツの一つとなりました。テレビの発展とともに消費経済の洗礼を受けた当時の様子を振り返ります。

1.地方テレビ局の増加と『一休さん』(1975年)による波状放送の始まり

『鉄腕アトム』がCCTVで放送されると、続いて『ジャングル大帝』が『森林大帝』という名前で放送され、すぐにマンガも出版されました。しかしこうした規格外のビジネスモデルは続かなかったのか、CCTVが直接放映権を入手し放映する流れは途絶えてしまいます。代わりに出てくるのが地方局です。

1983年、政府は『四級辦台(テレビ局四級構造)』という新しい政策を打ち出しました。四級とは中央テレビを第一級、各省や北京、上海など国の直轄市のテレビ局を第二級、各省の直轄市を第三級、その下の県を第四級と分け、各地の条件に合わせてテレビ局の設置を許可したのです。それまでは中央、省レベルでしかテレビ局を設立できなかったためごく少ないテレビ局で全国をカバーしていましたが、1983年に北京で開かれた第11回全国広播電視工作会議(ラジオテレビ業務会議)で、中央と各省単位でしか設立できなかったテレビ局が地方直轄市、省の下の県でも設立できるようになり、中国のテレビ局数は一気に増加、そして番組制作も許可されることになりました。

しかしまだCCTVでさえ手探りで運営していた時代です。新設されたテレビ局には番組を制作する設備もノウハウもありません。また初期資金も少なく人材もいなかったので、海外からの番組を買い付けることも、海外番組の字幕を制作したり、吹き替えしたりすることも困難でした。当時はCCTVから配信されたニュースしか放送するものがないという状態の局も多かったようです。
そこでこれらの地方テレビ局は、設立が比較的早かった他局に、すぐに放送できる番組がないか聞いて回ることになります。しかしそれでも番組は足りません。

当時、香港と国境を接し、同じ広東語文化圏である広東省の広東電視台が香港のテレビ局から番組を買い付ける計画を密かに進めていました。1979年に許可が出ると、CCTVと広東電視台は共同で、10本の香港ドラマと1本のアメリカドラマを輸入、まずはCCTV主導で翻訳吹き替えしました。このアメリカドラマは1980年1月に放映開始した『大西洋底来的人(大西洋から来た男:Man from Atlantis;米1977年)』です。ドラマ『大西洋』は大ヒットします。そして翌年、『鉄腕アトム』がCCTVにて放映され大ブームを起こしたのを受け、1983年、新しく香港から日本の大人気アニメを買い付けますが、どうも翻訳がうまくいきません。なんとか2話制作したもののあとが続かない。どこか他の局でやってくれないだろうか。

そんな時、唯一名乗りを挙げたのが、当時、遼寧省広播電視庁副庁長だった晋稻光です。
「我々の省には児童劇団がある、そこでやってみてはどうか。」
なんとか話をまとめると、晋稻光は手に入れたアニメを担いで遼寧に戻り、遼寧児童芸術劇院(以下、遼芸)[※]に持ち込みました。

[※]ここでいう児童劇団は子供の役者が所属する児童劇団ではなく、大人が子供のための劇を演じる劇団のこと。

遼寧電視台は晋稻光に指示されて持ち帰ったフィルムを翻訳吹き替えするために同局スタッフ、張井方を監督に据え、遼芸で声優オーディションを行いました。張監督はオーディションとは一切通達せず、ただ詩と新聞速報の朗読録音テープを役者に提出させ、本当に技術とやる気のある役者を揃えて、遼寧テレビのスタジオで収録を行いました。そして1983年、スタッフの必死の努力の末、吹き替え版が完成します。それが中国で最も知られている日本アニメの一つ、『一休さん(聪明的一休)』(1975年)です。

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▲中国で販売されていた一休さんの漫画(1984年)

『一休さん』は日本のお坊さんの話であるため、仏教に関する内容、唯心論に依拠する内容が含まれており、中国での放送にふさわしくない──これが広東テレビが制作を続けられなかった理由でした。日本のお寺での生活や習慣など、香港で翻訳、放送されたものを買い付けても、理解できない部分も多かったのでしょう。しかし、遼寧省はかつて満州国の一部だったところです。幸か不幸か、日本語で教育を受け、日本人の習慣や考え方などに精通した人材が中国で最も多い場所の一つでもあります。遼寧大学日本語学科の教授が翻訳を担当し、チーム一丸となって背景資料に至るまで詳細に調べ上げ、このアニメが中国の子供にいい影響を与える作品であることを確信し、仏教色を減らし、かつ不自然な吹き替えにならないよう一字一句考え抜いて翻訳、吹き替えを行ったのです。

かくして放映された遼寧版『一休さん』は完成度が高く、視聴者からもとても高い評価を得ました。実は遼寧児童芸術劇院は吹き替えの経験などなく、スタジオもなかったのですが、中国人が受け入れやすいように細部まで考え抜かれた翻訳に、海外アニメの吹き替えとして始めて児童劇団の役者を使ったことによって、より質の高い物が出来たこと、そして国内において海外アニメどころかアニメを放送する局がCCTV以外ほとんどなかったことから、これを機に遼寧テレビは一躍、人気テレビ局となります。

アニメの翻訳吹き替えを得意とする遼寧電視台と遼寧遼芸の登場は中国のテレビアニメ放送に大きな一石を投じました。地方局に日本アニメをはじめとする海外番組を翻訳アフレコできる団体が出現したことは大きな出来事です。そして最も重要なのは、「香港等から番組を安く買い付け」、「国内で翻訳吹き替えし」、「自局で放送」、「他地方局で再放送」という、海外ドラマの放送で確立されたビジネスモデルが、『一休さん』を皮切りにアニメでも成立するようになったことです。『一休さん』以降の日本アニメの普及は、全てこの「地方局での再放送」が鍵を握ることとなります。この現象を中国テレビ局の番組「波状放送」と名づけます。つまり、ある地方局が買い付け、吹替版を制作し放送されたアニメシリーズが、波が広がるようにその他の地方局で次々に再放送され、全国に広がっていくのです。

この時期に中国で放送された日本アニメにはほとんど修正は加えられず、そのままの状態で放送されました。朝から晩まで途切れず番組を放送するだけで精一杯だった時代です。厳しい検閲を加える余裕はまったくありませんでした。
この時期、国内で放送されたアニメは中国で吹替版を制作したものだけではなかったようです。1984年に放送された『花の子ルンルン(花仙子)』(1979年)は台湾訛りの中国語だったと当時を記憶している人から聞きました。中国と台湾との関係はまだ緊張が続いていた時代です。台湾で翻訳吹き替えしたアニメが香港に売られ、そこからまた中国に転売されたのかもしれません。もちろん、こうした放映権の二次販売、三次販売時に著作権料が日本に払われたかは定かではありません。改革開放によって、文革の鎖国状態から突然海外の市場経済に接することとなった中国では、そうした行為が許されないことだという認識もなく、また、そもそも正規に放映権を購入する力もないというのが実情でした。

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