【新連載】世界文学のアーキテクチャ はじめに──世界・小説・商品|福嶋亮大 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2023.03.28
  • 福嶋亮大

【新連載】世界文学のアーキテクチャ はじめに──世界・小説・商品|福嶋亮大

本日より批評家・福嶋亮大さんの新連載「世界文学のアーキテクチャ」が始まります。
グローバルに流通する文学作品の研究において、「世界文学」の概念が用いられるようになりました。もともとは産業革命期の19世紀に誕生したこのワードを手がかりに「小説」と「資本主義」の構造的な類似を分析しながら、「世界文学」としての小説が持つ特徴を理論化していきます。

福嶋亮大 世界文学のアーキテクチャ
はじめに──世界・小説・商品

 私はこの間PLANETS刊の雑誌『モノノメ』に世界文学論を連載してきましたが、それはもともと第一部の理論パートおよび第二部の歴史パートという二部構成を想定していました。ただ、書き進めるうちに、世界文学を理論的対象とするには、まず小説の歴史的な歩みを明確に描き出さねばならないということに気づきました。そこで編集部にお願いして、当初の第二部のプランだけを独立させて、新たなウェブ連載「世界文学のアーキテクチャ」として仕切り直すことにしたのです。そのような経緯があることを初めにお断りしておきます。

1、アーキテクチャとしての世界文学

 二一世紀に入ってから、一八二〇年代のドイツでゲーテが語った「世界文学」(Weltliteratur)という概念が、しばしば文学研究の議論の俎上にのぼるようになった。グローバル化に伴って、各国の文学作品がその流通の領域を自国の外へと広げつつある今、西洋偏重の文学史観への反省を含んだ、より包括的な文学理解が要求されているのは確かである。「世界文学」はその要請に応えるために呼び出された一種のパスワードだと言えるだろう。
もっとも、世界文学がいささか捉えどころのない、漠然とした言葉であるのも確かである。われわれはそこから何を引き出すことができるだろうか。例えば、アメリカの比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュは『世界文学とは何か?』という著作のなかで、世界文学を文学全体の「ある一つの部分集合」と見なす立場から、次のような考えを示している。

私の考えでは、世界文学とは翻訳であれ原語であれ(ヴェルギリウスはヨーロッパではずっとラテン語で読まれてきた)発祥文化を越えて流通する文学作品をすべて包含する[1]。

 ダムロッシュによれば、ある作品が発祥地を超えて異郷で「アクティヴに」存在するとき、その作品は「世界文学」としての資格をもつ。これは植物学的な「移植」(transplant)のモデルに近い。原産地から別の環境に持ち込まれることによって、いっそう繁殖力を増した文学――それがダムロッシュの言う「世界文学」である。彼はこのような生育環境の変更に、きわめて積極的な意味を与えている。「世界文学の領域へ入った作品は、真正さや本質を失うどころか、むしろより多くの点で豊かになりうる。このプロセスを追うためには、特定の状況において作品がどのような変容を遂げるのかをじっくりと見なければならない」[2]。
ダムロッシュはここで、世界文学という概念を、さまざまな国家から移植された文学作品たちで賑わう一種のプラットフォームとして捉えている。このプラットフォームにおいてさまざまな偶発的な「読み」の機会にさらされるとき、作品には思いがけない照明が当てられるだろう。ダムロッシュにとって、世界文学とは各国文学のたんなる総和ではない。世界文学に《なる》ことは、作品を既存の理解の文脈から離陸させ、そこに新たな「実りある生」を芽生えさせる出来事なのである。
このような見解はそれなりに説得力をもつ。文学作品は確かに旅によって自らを転生させるのであり、この旅する文学に「世界文学」という別名を与えることは不自然ではない。この旅には内在的な終わりがないため、世界文学へのエントリーによって、作品にはいわば長い余生の可能性が与えられることになるだろう。さらに、各国の古代文学から現代文学までが「世界文学」という理念的なプラットフォームに登録されれば、作品どうしの関連性や結びつきが変わり、文学の評価をめぐるコミュニケーションにもおのずと変動が生じる。第一章で詳述するように、そもそもゲーテの世界文学論こそが、まさに文学の評価者・翻訳者・伝達者の増大というコミュニケーション革命を前提としていたのである。
もっとも、ダムロッシュが世界文学を評価するとき、しばしば具体性を欠いた、広告的な表現をしがちであることも否めない。例えば「アクティヴに存在する」とか「豊か」であるとか「実りある」というのが、どういう状況を指すのかは判然としない。文学作品の異郷への移植が、その作品の新たな読みの発見につながり得るのは確かだとしても、それを指摘するだけではきわめて平板な言説に留まってしまう。したがって、もしわれわれが「世界文学」という概念の復権を目指すのであれば、まずはその概念の根幹に何があるのかを問わねばならない。
私はここでとりあえず、世界文学という概念を「アーキテクチャ」の隠喩によって捉えたいと思う。英語のarchitectureはもともと「建築」を意味するが、それがコンピュータ科学においては基本的な「設計思想」(一定の手順に基づくデータの処理装置をいかに配置するか、コンピュータのどの部分を最適化するか等)を指す言葉として転用され、その用法が今ではインターネットにまで波及している[3]。いずれの用法においても、さまざまなテクネー(技術)に先立つテクネー、つまりアルケー(始原)のテクネーの力が「アーキテクチャ」として総称されていることに変わりはない。
この概念を世界文学に当てはめてみよう。そうすると、世界文学というアーキテクチャは、たんに各国の作品を陳列する見本市ではなく、むしろ数世紀をかけて形作られてきた設計思想の集積として理解することができるだろう。コンピュータがデータを特定のやり方で処理するように、文学も複雑な心的事象や社会的事象を言語に変換するためのさまざまなプログラムを開発してきた。世界文学の時代の到来とは、これらのプログラムを搭載したアーキテクチャが地球規模で共有されるようになった状況を指している。では、個々の作品を操縦するアーキテクチャは、いかなる歴史をたどって生み出され、成長してきたのだろうか。
もとより、世界文学というアーキテクチャの仕様書があらかじめ作家たちに与えられていたわけではない。しかし、事後的に観測すると、作家たちの仕事を導くプログラムが、各時代においてある程度共有されていたことが浮かび上がってくる。しかも、これらのプログラムはそれぞれの歴史的な軌道のなかで、固有の進化や変遷を遂げてきたのであり、その進化のプロセスは今も終わったわけではない。この点で、世界文学というアーキテクチャは、いわば未完のオープン・システムとして捉えることができるだろう。私がやろうとするのは、このアーキテクチャの進化史を捉えるための理解の通路を作ることである。

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