【全文無料公開】倉田徹 香港民主化問題:経済都市の変貌史(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

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  • 2019.06.14
  • 倉田徹

【全文無料公開】倉田徹 香港民主化問題:経済都市の変貌史(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、香港政治に詳しい立教大学の倉田徹教授の寄稿を再配信します。香港立法会補欠選挙への出馬を、基本法違反を理由に無効とされた周庭さん。なぜ香港の若者が活発に民主運動を行うことになったのか、なぜ政府は民主派を弾圧するのかーー。現在の状況に至るまでに香港が辿った歴史について解説していただきました。
※この記事は2018年3月1日に配信された記事の再配信です。

 香港と聞いて、日本人がイメージするものは何か。グルメ天国、買い物天国、目もくらむような看板のネオンサインの洪水、あるいは林立する高層ビル、アジアの金融センター、はたまたブルース・リーやジャッキー・チェンのカンフー映画……。観光や文化、経済についての様々なキーワードが浮かんできそうだが、その一方で香港の政治は、従来注目されることが非常に少なかった。「香港人は金儲けにしか興味がない」が、自他共に認める香港人に対するお決まりの評価であった。
 ところが2014年、その香港が国際政治の焦点になってしまう。「真の普通選挙」を求めて集会に殺到した人々が、79日間も道路を占拠して民主化運動を展開したのである。警察の催涙スプレーから、手持ちの傘でとっさ身を守ろうとする人々の姿から名付けられた「雨傘運動」は、「エコノミック・アニマル」とは全く異なる新たな香港人の像を世界に示したのである。
 一体なぜ、このような大きな変化が生じたのか。
 重要なのは若い世代の台頭であった。「雨傘運動」で活躍したのは、当時わずか17歳の黄之鋒(ジョシュア・ウォン)や周庭(アグネス・チョウ)などの若者であった。上の世代と全く異なる価値観を持つ世代の登場によって、香港の民主化運動は空前の盛り上がりを見せた。一方、巨大な運動は、北京の中央政府からの強力な弾圧も引き込むこととなった。そういう情勢の中で、香港の民主化運動は現在どういう状況にあり、将来どのような展開が見通せるであろうか。
 現在を知り、将来を考えるため、ここでは香港の民主化問題を過去から遡って考えてみよう。

植民地期・「金儲けにしか興味を持てなかった」時代

 香港は1842年にアヘン戦争によってイギリスの植民地となり、1997年に中国に返還された。その150年を超えるイギリス統治の歴史のうち、1980年代までの約140年の間、香港にはほとんど全くまともな民主主義はなかった。政治権力はほぼイギリス人の総督が独占し、反政府的な社会運動には厳しい弾圧もあった。しかし、香港市民の間では、強い民主化運動は起きなかった。これが香港市民は「政治に無関心」と評された主な理由である。
 なぜ香港に民主化要求は起きなかったのか。イギリスの統治の巧みさや、政治を汚いものとして嫌う中国人の政治文化などが理由とされてきたが、近年言われているのは、政治に興味を持つことを許されなかったという、香港市民の置かれた環境条件である。選挙がほぼ存在せず、異民族支配の環境では、そもそも一般市民には議員や政府の高官や長になる手段がなく、政治家を職業とすることは不可能である。
 もっとも、イギリス当局への批判は弾圧の対象であったが、中国を批判することは自由であり、政府に動員されたり、忠誠を誓わされたりする類いのこともなかった。その点では政治の面でも、毛沢東の中国や、蒋介石の台湾といった周辺の独裁体制よりもましでもあった。少なくとも、社会主義体制とは異なり、金儲けは自由にできた。特に戦後の香港は飛躍的な経済成長を実現したから、裸一貫から大富豪になる者もいたし、そこまでは無理でも、努力によって暮らしを改善させてゆくことは、多くの者にとって可能であった。香港市民の多数派は、こういう条件の香港という地を選んで、大陸から逃げてきた難民とその子孫たちなのである。当然ながら、彼らは政治に背を向けて、自身の生活のために日々努力を重ねる以外に生きる術がない。「金儲けにしか興味がない」というより、「金儲けにしか興味を持てなかった」のである。

返還問題と民主化のスタート

そんな香港で突然民主化が始まったのが1980年代、その大きなきっかけは、香港市民の下からの運動よりも、むしろ上から降って湧いた運命、即ち、1984年に中国とイギリスが、1997年の香港返還で合意したことであった。イギリスは植民地からの撤退が決まり、インドなどで行ったのと同様に、民主主義を残して去ることを考え、1985年に議会での一部議席への選挙の導入に踏み切った。中国は、一方でイギリスの突然の民主化開始に強く反発もしたが、他方、返還後50年間、香港では資本主義の体制を維持する「一国二制度」方式に基づき、香港人が香港を統治する「高度の自治」を実施すると約束してもいた。中国はイギリスに譲歩して、少しずつ香港の民主化を進めることを受け入れ、返還後最終的には、政府の長である行政長官と、議会である立法会を普通選挙で選出することを、返還後の香港の「ミニ憲法」とも称される香港基本法に明記した。

中国共産党から逃げてきた香港市民の多くは、その共産党の中国が香港を統治することを大いに憂慮した。社会主義中国で許されなかった「金儲け」で成功した財界人は、特に返還を恐れた。しかし、1970年代以降に社会運動を担ってきた当時の香港の若者は、民主化された香港として祖国に復帰する「民主回帰」に期待をかけた。つまり、1980年代に香港の民主化を支持した若者たちは、香港の返還を支持する愛国者であった。中国政府もそういった若者に期待をかけ、弁護士の李柱銘(マーティン・リー)や教師の司徒華などの指導者たちを基本法起草委員に任命するなどして厚遇した。

天安門事件・民主派と中国政府の決裂

しかし、この状況に大きな転機がやってきた。1989年の天安門事件である。民主化を求める北京の若者を装甲車が容赦なく排除し、多数の死傷者を出し、世界に大きな衝撃が走った。最も大きな衝撃を受けたのは香港である。返還を8年後に控えた香港では、北京の学生運動が中国の民主化につながる可能性に期待して、大規模な学生支援デモが繰り返されていたが、流血の大弾圧に対し、香港市民は怒りと恐怖に包まれた。民主派は共産党政権と決別し、共産党一党独裁を終わらせ、民主的な中国を築くことを求めるようになった。このような姿勢を香港市民の多数派が支持し、民主化で共産党に対抗する「民主抗共」が香港社会の大きな流れとなった。

一方の中国政府も、冷戦終結時に東欧で相次いだような、民主化運動による共産政権の打倒を大いに恐れた。外国勢力と結託する香港の民主派は、欧米による中国転覆の陰謀の手先になるのではないかと考えた中国は、民主派の中国入国を禁じ、香港や外国のテレビの民主化に関する映像を大陸で流す際には黒塗り画面に切り替えて、国内での情報を封鎖した。

民主派と対立し、香港市民と対立した共産党が頼ったのは、従来は親英・反共的であった香港の財界人であった。財界は民主化で香港が福祉国家化し、経済活動の自由が失われることを恐れていた。中国政府は、民主化に否定的な香港の財界人に様々な役職と大陸でのビジネスチャンスを与え、彼らを味方につける工作を進めると同時に、選挙制度において、財界人しか投票できない枠を設けるなどして彼らを極端に優遇し、財界人と政治の面でも同盟関係を結んだ。これによって、中国は民主派の影響力を薄めようとしたのである。

返還後の香港・「金儲けの自由」の時代の終わり

このような状況下で香港は1997年の返還を迎えた。香港を待ち受けていたのは、戦後の高度成長期から、返還直前のバブルに到った経済の黄金期の終焉であった。香港経済は返還早々にアジア通貨危機で大いにつまずき、不動産価格が暴落して巨額のローンの返済に苦しむ者が続出した。2003年には新型肺炎SARSの流行などもあり、不況と失政への怒りから「50万人デモ」と称される大規模デモも発生した。生活に苦しんだ市民が、怒りの矛先を政府に向けたのである。

中央政府は香港経済を救済するために、大陸住民の香港への個人観光旅行の解禁などの経済融合を進めた。その効果は大きく、チャイナ・マネーの流入により、GDPは成長を取り戻し、不動産価格は回復し、失業も改善して、香港市民は一時経済融合を大いに歓迎した。返還10周年の2007年から、北京五輪の2008年頃には、香港市民は中央政府と香港政府を大いに支持し、香港市民の間に中国人としてのナショナリズムが高揚した。

しかし、経済融合はやがて大きな副作用をもたらす。一般の香港市民を凌駕する大陸観光客の購買力から、市内にはドラッグストアや宝石店などの「爆買い」客向けの店が過剰に増える一方、香港市民向けの小さな商店は高騰する家賃に耐えられず、次々と廃業に追い込まれた。不動産は暴騰に転じ、庶民は住宅難に喘いだ。

この状況で大いに割を食ったのは若者であった。「金儲けの自由」を売りにする香港は、米・ヘリテージ財団からは今年まで24年連続して経済の自由度世界一と評されている。しかし、金儲けの自由とは、裏を返せば野放図な金儲けへの放任でもある。現在香港には相続税も贈与税もキャピタルゲイン税制もなく、最低賃金がようやく導入されたのは2011年、標準労働時間は未制定である。当然ながら、貧富の格差はアジアでも最悪レベルとなる。

かつて、こうした放任型の自由は、才覚ある者が徒手空拳でチャンスをつかめる可能性を開いた。しかし、富豪がますます富み、それをそのまま世襲する一方で、暴騰する家賃を前に創業はますます難しくなり、平均的な収入では、かつて香港市民が得意とした、安いマンションをまず購入して高く売り抜け、買い換えを繰り返して資産形成をすることはもはやほぼ不可能である。香港の「金儲けの自由」は、若者に対しては急激に縮小していった。

抵抗運動と世代間抗争

多くの若者が、このような不自由な環境での「金儲け」よりも、他の価値を追求するようになった。返還後、これまで開発主義や植民地統治の下では顧みられなかったり、意図的に軽視されたりしてきた歴史的文物の保存や、環境保護・有機農業推進などの生活の質の追求といった多様な価値を求める、地元愛に満ちた新しい社会運動が、主に若者によって2006年頃から次々と勃興してきた。これはまさに、「金儲けにしか興味がない」という香港像に対する抵抗運動と、「経済都市」という看板に代わる香港の自画像を求める「自分探し」の試みであった。

このような香港の若者の変化に対し、過去の成功体験を引きずっている大人世代と、今も絶賛成功体験中の中央政府は無理解であった。大人は若者にさらなる努力を促し、うまく行かないのは怠惰の証と非難する。中央政府は経済融合で香港経済が潤っていることに味をしめ、香港は政治を忘れて経済発展に集中せよと開発主義に拍車をかける。若者はこうした価値観を強制する大人と、中央政府に対し、違和感と反発を強めていった。

そんな中、若者の間に突然ニュー・ヒーローが誕生した。2012年、香港政府は北京の求めに応じ、「愛国教育」を香港で必修化することを計画した。これを中国式の洗脳教育であるとして、当時わずか15歳の黄之鋒や周庭らが、政府に「愛国教育」の撤回を求める「反国民教育運動」を展開した。急速に普及していたSNSを通じて運動は急速に拡大し、10万人規模の政府前での座り込みという、これまで香港の抗議活動にはなかったスタイルの運動が展開され、ついに政府は必修化の断念に追い込まれたのである。

「雨傘運動」

「反国民教育運動」の余勢を駆って、若者は民主化運動に参戦した。民主や自由、法の支配といった価値は、開発主義へのアンチテーゼとして彼らが定義する新しい「香港らしさ」の源泉であった。中央政府も、香港との関係が安定していた2007年に、2017年の行政長官選挙は普通選挙にしてもよいとの決定を行っていた。これは、1980年代の初期から民主化要求を続けてきたベテランの民主活動家にとっても、歴史的な瞬間となるはずであった。

しかし、中央政府は彼らの期待を裏切った。「共産党政権を嫌い、逃げてきた」香港市民が行政長官を自由に選ぶことは、北京にとって「国家の安全」への脅威であった。2014年8月31日、中央政府は、香港で行政長官普通選挙を行う際には、必ず事前に親北京派財界人を主とする委員会で立候補者を選別することを決定し、民主派の出馬を事実上不可能にした。

「ニセ普通選挙」に対し、彼らの怒りは大きかった。民主派はかねてから計画してきた、香港中心街・セントラル地区の道路に座り込む「オキュパイ・セントラル」運動を実行に移すと宣言した。10月1日の国慶節に予定されていたその実行を前に、黄之鋒ら周庭ら若者は9月26日に政府庁舎前で集会を開始した。その規模が拡大して主要道路の車道にあふれ出ると、9月28日、警察は催涙弾を使ってこれを排除しようと試みた。これが却って市民の怒りを買い、集会にはテレビやネットでこの様子を知った市民が殺到した。警察は排除を断念し、混乱に乗じて若者や市民は香港主要部各地で道路を占拠し、うち3カ所で長期の道路占拠が発生した。民主派主体の「オキュパイ・セントラル」が、偶然の展開によって若者による「雨傘運動」へと転化したのである。

若者の新しい運動

しかし、中央政府の態度は頑なであった。「雨傘運動」の長期の座り込みに対し、北京は完全に無視を決め込んだ。香港の民主化に関して決定権を一手に握る中央政府は、普通選挙から民主派を排除する制度の導入は既決事項として譲らず、直談判のため北京に乗り込もうとする学生たちを入国拒否した。FacebookやTwitterなどがブロックされた環境の中で、中央政府は、「雨傘運動」は共産党政権転覆の陰謀であるとのネガティブ・キャンペーンを、政府系メディアを通じて大規模に行った。大陸住民はナショナリズムを刺激され、大陸の世論は「雨傘運動」への強い敵対心で満ちあふれた。運動は中央政府を動かせずに終息した。

30年にわたり追求してきた「民主回帰」に挫折した民主派のベテランたちが、新しい方向性を失う中、「雨傘運動」を経て政治に覚醒した若者は、新たな目標を定めた。それは、中央政府が返還交渉時に約束した、「一国二制度」の「50年」というタイム・リミットの問題である。2047年以降の香港が「一国二制度」を続けられるかどうかは未知数である。黄之鋒・周庭らは、香港市民の住民投票によって香港の将来を自ら決めるという「民主自決」の主張を展開した。彼らは「自決派」と呼ばれた。

一方、「雨傘運動」が成果をあげられなかったことに対し、平和な座り込みという手段の生ぬるさにしびれを切らした一部の若者勢力は、大陸との関係を断ち切り、自らの本土である香港を優先すべきと主張した。大陸観光客の排斥デモ等を行う「本土派」は、暴力的手法をも辞さず、2016年の旧正月には繁華街で争乱を起こし、暴動罪まで適用されたが、一部の若者はこの新しい勢力を熱狂的に迎えた。彼らの一部は、香港市民は中国大陸とは異なる価値観を持った「民族(nation)」であるとして、香港の中国からの独立をも主張し始めた。歴史的に見てほとんど存在しなかった香港独立運動の展開に到ったのである。

北京の怒りと反撃

しかし、香港独立の主張は、いよいよ本格的に中央政府の怒りを買った。従来の民主派は共産党政権に批判的ではあったものの、少なくとも「民主回帰」や「民主的な中国の建設」を主張し、歴史問題や尖閣諸島問題で日本を非難する「愛国者」ではあった。しかし、若者が展開し始めた独立の主張は、中国において絶対的な罪である。中央政府の最高指導者層までが、「港独」を名指し批判するようになった。

北京の強い意向を受けた香港政府は、なりふり構わず新勢力の排除に乗り出した。2016年9月の立法会議員選挙に立候補した本土派の有力候補を、「香港は中国の一部である」と定めた香港基本法に反しているとの理由で失格とし、出馬を阻止した。それでも、選挙では若者の投票率が上昇した結果、本土派や自決派が多数当選したが、当選後に「中華人民共和国に忠誠を誓う」との文言を含む就任宣誓を正しく行わなかったとして、本土派・自決派の大部分を含む6名の議員が資格無効とされた。

資格を剥奪された議員の中には、黄之鋒・周庭らが2016年に設立した新政党「香港衆志」から出馬した、大学生の羅冠聡(ネイサン・ロー)が含まれた。羅冠聡の抜けた穴を埋めるための補欠選挙が、2018年3月11日に行われる。香港衆志は、議席の奪還を目指して、立候補可能な21歳に達した大学生の周庭をこの補選に擁立した。

しかし、政府は1月27日、周庭を失格として、この補選に出馬させないことを決定した。

政府が挙げた理由は、香港衆志が主張する「自決」である。香港の将来を決める住民投票において、自決派は独立も選択肢の一つとしてきた。これを理由に、政府は彼らを「独立派」と断定し、選挙から排除したのであった。

周庭はこれを、自分個人の排除ではなく、香港の若者世代、一つの世代の排除と述べた。

香港の将来

こうして、香港の民主化問題は今日に到っている。香港の民主化には、どのような未来が待っているのか。

普通選挙の実施時期決定の権限は中央政府が握っている。習近平体制の中国は、一方では高度の経済成長を実現した共産党体制を、非効率で不合理な西側諸国の民主主義体制より優越していると見て自信を深め、他方で民主化は独立運動や政権転覆につながるとの陰謀論を堅持している。中央政府が香港に民主主義を与える動機はほとんど見当たらない。かつて中国は、香港の経済的繁栄と政治的安定を、自身の近代化実現のためにも重視した。しかし、今や世界第二位の経済大国になった中国が、一都市に過ぎない香港の経済力に依存することはどんどん少なくなっている。香港政策で中央政府が最も重視するのは「国家の安全」である。香港内部の安定や国際的な評価を多少犠牲にしても、自決派や独立派は排除し、政治活動には枠をはめるというのが彼らの方針である。

排除された若者たちは、どこへ行けばよいのか。

中央政府の回答はシンプルである。即ち、「金儲けにしか興味がない香港人」に戻ることである。植民地期と同様に、香港人が行使できる政治権力には限界があることが明らかになった。上からは立候補者の選別という天井が「真の普通選挙」を封じ、下からは自決派・独立派は排除するというボトムラインが香港の将来像の議論を阻む。この隙間の狭い空間でしか、「政治に興味を持つ」ことは許されない。一方、経済は「自由」である。政治をあきらめ、社会問題に目をつぶり、経済活動に集中し、中国に「貢献」すれば、「一帯一路」の追い風を受けて、チャンスを掴む者も現れるであろう。

上の世代にとっては、これはかつての香港像のいわばDNAである。「雨傘運動」を経て、若者は急進化した一方、中高年はむしろ保守化が進んだとされる。彼らは若者に対し、努力して道を開けと迫る。自家用飛行機を親からプレゼントされるような大富豪の二代目が、政府の青年事務委員会主席に任命され、若者は日本への旅行の回数を減らして貯金して家を買えば良いと放言する。しかし、公団団地も億ションになっている今の香港に、高度成長期と同じようなチャンスはない。

若い世代が絶望しないような社会を作ることは、オトナたちの義務ではないだろうか。

(了)

▼プロフィール
倉田 徹(くらた・とおる)
1975年生まれ。立教大学法学部政治学科教授。
2008年東京大学大学院総合文化研究科博士後期課程修了。03年から06年まで在香港日本国総領事館専門調査員。日本学術振興会特別研究員、金沢大学人間社会学域国際学類准教授、立教大学法学部政治学科准教授を経て現職。専門は現代中国・香港政治。著書に『中国返還後の香港』(名古屋大学出版会、09年、サントリー学芸賞受賞)、『香港-中国と向き合う自由都市』(岩波新書、15年、張彧暋〈チョウ・イクマン〉と共著)など。
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