宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2021.10.11

視覚言語としてのグラフィックレコードが見せる世界|清水淳子

本日のメルマガは、視覚言語研究者・デザインリサーチャーの清水淳子さんによる特別寄稿をお届けします。
テキストでの(ディス)コミュニケーションや図解による「わかりやすさ」を体験するとき、私たちのコミュニケーション環境には何が起きているのでしょうか。人々の話し言葉を視覚言語としての「グラフィックレコード」に即座に「翻訳」する清水さんに、現代人の情報認知のあり方について論じていただきました。

会議の中で声をグラフィックで描くと何が起きる?

話し合いは「声」のやりとりで進んでいく。誰かが声を出せば、そこにいる全員に同じ声が届く。だが、同じ声を聞いていても、全員が同じ内容を思い浮かべているとは限らない。話し合いの参加者が思い描く内容は、少しずつズレが生じていくものだ。ズレが生じること自体は人間なら当然で悪いことではない。むしろ、話し合いの場というのは、そのズレを再認識したり、調整したり、あるいは新しい視点として取り入れる重要な機会なのだ。しかし、一度大きくズレが生じてしまうと、ズレを楽しむどころか泥沼のように予定通りに進まない話し合いになることも少なくない。

2010年、私は大きくズレの生じた会議の中にいた。長時間にわたる声のやりとりも虚しく、声を重ねれば重ねるほどに、参加者の認識はズレにズレていく。誰かが何とかしようと何か言ってもうまく伝わらず、さらに大きくズレていく。なぜ同じ空間で同じ声を聞いているはずなのに、こんなにも聞こえ方がズレてしまうのだろうか? おそらく他の参加者もそれぞれの立場で同様のことを思っていただろう。 いっそのこと知らんぷりできればいいが、それはできない。なぜならズレた認識は下っ端である自分が全て抱え込んで帳尻を合わせることになりそうな状況だったからだ。

私はその場で生まれては消える声のズレがもたらす原因がなんとなく見えていた。しかし、そのことを勇気を出して訴えてみても、まるで湯気のように声が消えていく。そこで一か八か苦し紛れに、微動だにしない動きの無い会議室で、私は勇気を出して立ち上がり、ペンを持ってホワイトボードの前に立った。そして今までに出たみんなの意見を描き出した。その上で、矛盾点や未定な部分に対する違和感を伝えた。すると弱々しい私の声が、ビジュアルと混ざり合って、しっかりとした構造となって、参加者全員に同じカタチで届いたのだ。この出来事によって、空間に充満していた違和感の匂いをすっかり消し去り、会議は無事に終了した。これは私にとって忘れられないできごとになった。音声だけでやりとりしている時には起きなかったことが、ホワイトボードに描きだしたビジュアルを用いることで、あっさりと達成できたのだ。これは一体なぜだろう?

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衝突or沈黙の会議で観測された変化

その疑問を解くべく、私は2013年よりグラフィックレコーダーという肩書きを名乗り、様々な話し合いの中にある声をリアルタイムにビジュアルとして描き出す活動をし始めた。初めは知り合いのトークイベントの記録ノートや記事作成のためのイラストレーションとして描くことが多かった。次第に活動範囲は広がり、依頼のバリエーションは増え、企業の新規事業会議でアイディアのビジュアライズを行なったり、大規模なシンポジウムのコミュニケーションツールとして活用するための設計を行うようになった。近年ではSDGsをはじめとする複雑な社会課題について、様々な立場の人々が話し合うための場を作るために参加することも多い。今まできちんと数えたことはないが大小含めて2013年より1000以上の現場で様々な方法のビジュアライズを実践してきたと思う。

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▲ホスピタルとデザイン展でのグラフィックレコーディングの様子

私の元に来る依頼の種類は様々だが、共通点がひとつある。それは、今までにない新しい枠組みで、横断的にものごとを考える必要がある場であることだ。例えば、「新聞社が従来のように紙だけでなく、どのようにデジタルメディアと連携していくべきか?」または「地域の祭りの中にどのようにアートを取り入れ街を盛り上げられるか?」「大学で学ぶべきことと企業の中で求められることのギャップを共有しあい、そのギャップをどのように捉えて今後の教育を作っていくべきか?」このように、既存の領域を深めていくテーマというよりは、今まで交わりにくかった領域や価値観を混ぜることで、新たな化学反応や繋がりを期待するような話し合いの場である。

こういった話し合いの場には、自動的に多様な参加者が集まることになる。職種の違い、年齢や経験の違い、立場の違い。そういった違いは、話し合いの中で交わす言語や概念の中に少しづつ現れて、話し合いは難航することが多い。同じ日本語話者にも関わらず、お互い初めて聞く外国語のような壁を感じながら過ごすことになる。そのような言語環境の中では、認識の違いから激しい衝突になることもあるが、私がよく出会うシーンはお互い遠慮して愛想笑いでしか本音が言えないことだ。衝突も恐ろしいが、平和を装った沈黙も同じくらいに恐ろしい。

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未知のテーマで衝突or沈黙の会議。正直なところ「できる限り近づきたくない……」と感じる人が多いだろう。しかし私はどうなるかわからない不安定で緊張感が漂う話し合いの場がとても好きだ。なぜかと言うと、このような場は不安定な分、何か新しい発想が生まれる可能性も高くなるからだ。今までにない発想は、今までとは違う世界に一歩近づくためのデザインにつながる。私はひとりのデザイナーとして新しいデザインを生むことも好きだが、今の社会では、デザイナーではない人が集まる場で、デザインが生まれやすい場をデザインすることも重要なデザインなのだと感じている。

まだ見ぬデザインに出会うまでの遠い道のりを歩けるように、参加者が持つ不安の中に隠れてる期待感が消えないように。私はビジュアルを使った対話を試みる。固まった空気の中で、散らばりそうな参加者の声をひとつの紙に描くことで、衝突or沈黙の会議は、曇りの空が、少しづつ晴れていくように、空気が変わり、関わり方が変わり、関係性が変わり、会議の結果が変わる。このシンプルな効果を求めて、今日も私の元に多くのクライアントから会議のビジュアライズに関する仕事依頼メールが届くが、未だに冒頭の疑問への答えははっきり出ていない。「なぜ話し合いの中で、人々の声をビジュアルとして描き出すと、固まった空気が柔らかくなり、コミュニケーションがうまくいくのだろうか?」
本稿では、はっきりとした答えは出せない。しかし、自分自身がグラフィックレコーダーとして活動しつつ、その活動をデザインリサーチャーとしてメタ的に探求している途中段階の仮説としては伝えたいことがたくさんだ。その内容を本稿ではスケッチのように描いてみようと思う。

通訳/翻訳者としてのグラフィックレコーダーの姿

グラフィックレコーディングをシビアなムードの会議に取り入れる理由として、参加者の方々は「表現豊かな絵があると華やいでいいからね」と考えることが多い。画家の視点では単純に嬉しく思いつつも、デザインリサーチャーとしてはイマイチ納得がいかない仮説である。声をビジュアルとして描くことで話し合いに与える効果は、果たして玄関に飾られた絵のような癒しの役割だけなのだろうか。それも一つの重要な役割であることは間違いないが、もっと未知の複雑なことが起きているはずだ。

私は足掛かりとして、グラフィックレコーディングで行っている行為は、美術の授業で描く自画像や風景画のような表現活動とはかなり違ったものだと疑ってみた。絵は主に目で見たものや感じたできごとを、自分の感性を交えながらキャンバスの上に表現して完成させる。その後に展覧会などの場を作り、お客さんに鑑賞していただくという流れがある。はじめに制作を行う場があり、そのあとに鑑賞を行う場がある。つまり、制作と鑑賞の時間が離れているのだ。

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しかし、グラフィックレコーディングは、耳で聞いた人の声を、頭の中で整理しながら、平面上にビジュアルとして再構成し、その場にいる他の参加者にリアルタイムで見せるところまでが一連の活動として繋がっている。制作を行う場で、すぐに鑑賞を行う。制作と鑑賞の時間軸が重なっている。つまり、グラフィックレコーディングで行っている行為は、声という言語形式を、別のビジュアルという言語形式に置き換えて、伝える活動とも考えられる。言い換えると、グラフィックレコーダーが大きな紙にペンで何かを描いている様子は一見「画家」の仕事に見えるが、背景にある情報処理のプロセスと他者への伝達形式は「通訳」や「翻訳」の仕事とも考えることができる。

ちなみに「通訳」 (interpretation) は、異なる言語を話す人の間に入り、口頭での話し言葉を、その場で聞き手が求める音声言語として伝達を行う。「翻訳」(translation) は、記録された文書や動画に対象に、異なる言語へテキストとして記述していく。グラフィックレコーディングで行っていることは、音声言語を、その場で異なる言語形態であるグラフィックに記述していくので、通訳であり、翻訳でもあるので、大変ややこしい。簡単には割り切れない部分で、まだ固定化したくない部分なので、本稿では「通訳/翻訳」という言葉で進めさせていただく。

通訳/翻訳者がある言語を違う言語に置き換えるために、数え切れない語彙を持つことと同様に、グラフィックレコーダーは、人々の声に含まれる多様な情報を、通訳/翻訳するため、文字はもちろん、イメージを象徴する色彩、線の太さや繋がりで構造を作る図解、感情や動きや空間を示すことのできるイラストレーションという語彙や文法を持つ。話し合いの中で生まれる音声言語を耳で聞き取りながら、頭の中では、その声に対応する適切な語彙や文法を選び取り、手で素早く描き出す。そして描き出している最中には、耳は次の声を聞き取っている。その繰り返しで、すぐに消えてしまう声を、文字と図と絵を組み合わせたグラフィックへと記述して伝達していく。

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▲描き出されたグラフィックレコードの読み取りを行っている様子

このような視点で観察してみると、グラフィックレコーダーは、己の感情や感性を表現する画家というよりは、耳で受け取る音声言語から、目で見る視覚言語への通訳/翻訳を行う活動であると考える方が合点がいく。すると、私はあることに気がつくのだ。固まった空気の中で、参加者の声をひとつの紙に描き出すことで、空気が変わり、関わり方が変わり、関係性が変わり、会議の結果が変わる。その原因は、使用する言語の違いにあるのではないか? 例えば、日本語で話してる時と、英語で話してる時、「おはようございます」と「good morning」の違い。些細な挨拶だけでも、ものごとの捉え方の感覚や、その一言から生まれるコミュニケーションを想定した思考を変えていく。違う国の言語のように、音声言語でやりとりする時と、視覚言語でやりとりする時では、話し合いの参加者全員で世界の捉え方が変化して、話し合いの中での態度や考え方の変化をもたらしてるのではないか?

使用する言語で見える世界は変化する?

冗談のような仮説として、文字と図と絵を組み合わせたグラフィックという視覚言語がもたらす思考への影響とメカニズムがあるはず……と妄想を楽しんでいたのだが、ある時から本気で考えてみたくなった。そのきっかけは、2017年公開の映画『メッセージ』を見たこと。突然現れたエイリアンの発するメッセージの読み解きに挑戦する言語学者のルイーズと物理学者のイアン。映画の結末に関わることなので詳細は伏せるが、彼らはエイリアンなので、人間とはまったく違う方法で世界を認識しており、当然ながら扱う言語にもその違いが現れている。巨大なイカのようなヘプタポッドが発する唯一の言語は、真っ黒の円状のビジュアル。ルイーズは根気強く少しづつ彼らの言語を学ぶ過程で、彼らの言語だけでなく世界の捉え方まで会得し、物語を大きく動かしていく。

劇中で、ルイーズとイアンが「サピア=ウォーフの仮説」について触れる会話がある。この仮説は映画の中の設定ではなく、現実にある仮説である。「私たちの母語は、私たちが世界を知覚し、世界について考えるやり方を決定する」というこの仮説は、1930〜40年代に、アメリカの言語学者サピアとその考えを引き継いだ弟子のウォーフにより世界に広がった。この仮説は一度はもてはやされて受け入れられたかのように見えたが、じつのところの実証が不十分であることなどから破綻しているとの指摘があり、様々な論争を呼んだ。しかし『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』の著者ガイ・ドイッチャーは、「この大胆な主張には様々な間違いがあり反省が必要だが、言語が思考に影響しうる、という考えを安易に切り捨てるべきではない」と語りつつ、空間、ジェンダー、色彩の言葉に関して、私たちが世界を認識する時、言語がフィルターとして世界の見え方に影響を及ぼすという可能性を実証を丁寧に行いつつ示している。

言語が思考に及ぼす影響はどのくらいなのか? この議論についてはここではっきりと決着をつけられるものではないが、過去に外国旅行の中で触れてきた言語の違いからも、サピアとウォーフが主張したかった世界の入り口くらいは納得できる。使用する言語と思考の関係についての研究は、現在進行形で更新中であるが、ここでは話し合いの中で声をグラフィックに通訳/翻訳することで誕生する視覚言語を用いることで、参加者にどのような変化が観測されるかについてもう少し話を進めてみたい。

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