社会運動において遅いインターネットは可能か :「速すぎる」ハッシュタグ・アクティヴィズムを弛めるオンライン・プラットフォーム|富永京子
SNSの普及に伴って、「声を上げる」という行為がより一層広がっていった2010年代。オンラインと組み合わさったかたちでの「社会運動」は、いかにして世界を変えてきたのでしょうか? SNS活用を前提とした2010年代の社会運動の成果と課題について、社会運動研究者の富永京子さんが総括します。最新の社会運動研究の成果にも目配せしながら、ソーシャルメディア型社会運動の困難を乗り越える、「手間」と「面倒くささ」ありきのプラットフォーム型活動の可能性に迫る試論を寄せてもらいました。
社会運動において遅いインターネットは可能か :「速すぎる」ハッシュタグ・アクティヴィズムを弛めるオンライン・プラットフォーム
社会運動における「出来事」と「日常」
ここ数年で定着した社会運動と言えば、日本と海外とを問わずやはり「ハッシュタグ・アクティヴィズム」に代表されるようなインターネット、とりわけSNS上の活動ではないだろうか。2014年のアイス・バケツ・チャレンジに遡るまでもなく、2015年の安保法制に対する抗議行動などでも盛んにSNSは用いられてきたし、近年でも「検察庁法改正案」「入管法案」に対してTwitter上で行われてきた。#MeTooや#FridaysforFuture といった形で、インターナショナルな連帯を喚起する際にも有効とされており、多くの先行研究がハッシュタグ・アクティヴィズムの研究に取り組んでいる。
筆者は10年と少しの間、日本の社会運動を中心に研究を続けてきたが、これまで、どちらかと言えばオフラインに重きをおいた社会運動を検討してきた(富永 2016, 2017, Tominaga 2017など)。社会運動と言うと多くの方が組織による集合行動、例えばデモや集会、あるいはアドボカシーやロビイングなどをイメージすると考えられるが、筆者は社会運動に従事する人々が個人的に営む「日常」もまた、運動の理念が反映された一行動として捉える。例えば、エネルギーの消費に反対する人々が自動車の利用を避け自転車で移動したり、菜食主義を貫いたりといった活動が例としてよく挙げられる(Haenfler et al. 2012)。どのような形の日常を社会運動として意味づけるかは、普段その人がしている活動や関心のある政治課題によって大きく異なるが、例えば選択的夫婦別姓制度を推進したい立場の人であれば、議員に陳情する、署名する、SNSでハッシュタグをつけてメッセージを書くなどが組織による集合行動(筆者の用語法では「出来事」)となるが、例えば法律婚でなく事実婚を選ぶ、場合によっては男女の既婚パートナーに対して「旦那」や「主人」といった呼称を避け、「パートナー」や「連れ合い」といった呼び方を選ぶ(筆者の用語法では「日常」)といったものがあるだろうか。
こうした枠組は、筆者が修士課程に進学し社会運動の研究を始めた2009年以降、G8サミット抗議行動(現在はG7)に参加した社会運動従事者の方々とやりとりを続けていて思いついたものだ(関連する研究にHaug 2013などがある)。サミット抗議行動とは、G7やG20サミット、WTO閣僚会議などが行われる現地に集まって世界中から参加した社会運動従事者がともにサミット抗議のためのデモやワークショップを行う活動を指す。しかし、数日行われるサミットに抗議するために遠方から来た参加者が多数いるということは、彼らが滞在する宿舎を用意しなくてはならないということでもある。そのため、抗議行動の中で社会運動従事者がともに暮らす「プロテスト・キャンプ」が生まれる。このプロテスト・キャンプは、ただの宿舎ではなく、社会運動の理念を反映した「オルタナティヴ・ヴィレッジ」と呼ばれることがある(McCurdy, Frenzel, Feigenbaum 2013など)。そこでは、例えば電力を使わないソーラークッカーなどが用いられたり、身体障害を持つ人々や子供でも楽しめるオリジナル・ルールのサッカーが楽しまれるようになる。つまり、サミット抗議行動は、集団で行う、環境問題や途上国開発に関するワークショップやサミット抗議のためのデモという「出来事」に加え、プロテスト・キャンプにおいて振る舞われるヴィーガン食や、部屋を男女で分けない、誰でも使える寝室やトイレといった「日常」によって支えられていたのだ。
少し前置きが長くなってしまったが、冒頭でも書いたとおり、2010年代以降、オンライン社会運動の存在感はますます高まってきた。2011年の東日本大震災後、原発再稼働に反対する官邸前行動や激化するヘイトスピーチに対する反レイシズム運動、2014年に生じた特定秘密保護法案に対する抗議行動や2015年の安保法制反対運動など、オンライン上での社会運動の戦略は、オフラインでの抗議行動と絡み合う形でより洗練されてきた。そして2020年初頭より、コロナ禍のために外出できない状況からハッシュタグ・アクティヴィズムのみならずオンライン署名やクラウドファンディングといった活動もより顕著となってくる。
では、筆者の提示した分析枠組である「出来事」と「日常」を通じて、オンライン上の運動はどのように考察でき、またどういった課題点や革新性を見出すことができるのか。本格的にデータを収集し、最新の研究を渉猟した上での論文ではないため、あくまで「試論」に過ぎない試みではあるが、これを読んでいる読者の方が現代の社会運動を考える上で、何か補助的な役割ができたなら幸いである。
2010年代の社会運動とソーシャル・メディア
東日本大震災から10年が経つが、近年の日本の社会運動はインターネットとどのように付き合ってきたのか。日本でも代表的なものとして、伊藤昌亮(2012)の研究が参考になる。
伊藤は2012年時点でのデモにおけるソーシャルメディアの役割を、告知、実況、振り返りのツールとして捉えている。また、仮にオフラインでのデモが一段落しても、なおネット上で「祭り」が続くこともあるという。この典型例として、東日本大震災以後の反原発デモが挙げられているが、海外の事例として当時の代表的事例に「オキュパイ・ウォールストリート」「アラブの春」が挙げられるだろう。伊藤はこれらの事例にも触れており、オキュパイ・ウォールストリートでは「#occupywallstreet」というハッシュタグが用いられたことにも言及している。アラブの春においてもまたFacebookやTwitter、ブログで情報共有が大規模になされ、一部地域ではTwitterのハッシュタグを利用したムーブメントも見られたという(ちなみに「アラブの春」については、総務省のサイトがきわめて詳しい分析を掲載しており、興味深く読むことができる )。
しかしこうした活動は、あくまでオフラインの活動を下支えするオンラインの活動という位置づけがなされている点で、現在見られるハッシュタグ・アクティヴィズムとはやや異なる。伊藤と同様にMario Gerbaudoも、ソーシャルメディアに見られるこの効用を、オフラインの活動に対する「動員」の面から説明している。ソーシャルメディアにおけるデモや「集まり」の映像は、それを観ている側の「孤立」を煽ることになる。だからこそ、孤立を解消させるためにデモの現場に向かうのだというのが、Gerbaudoの議論である(Gerbaudo 2012)。両者の議論は、オフラインとオンラインの相互作用に重きをおいて説明していると考えられるだろう。
Tufekci(2017=2018)もまた、オフラインとオンラインの相互作用による活動「アラブの春」を検討しているが、過去の社会運動との対比のもとでオンライン社会運動の特性を議論した点で、伊藤やGerbaudoの研究とはやや位相が異なる。Tufekciによれば、オンラインの運動は、準備組織におけるロジスティクスの過程をオフラインの活動ほど必要としない点に特徴を持つ。この点では有効だが、しかし設営の期間がないために持続性が短く、短期的な盛り上がりを特徴としている。またソーシャルメディアを中心とした社会運動には、個人的参加が多く見られるが、他者や他組織とのつながりが弱いため運動全体が継続しにくい点もある(Tufekci 2017)。こうした解決策として、Einwohner and Rochfordは、イベントの後に運動の運営組織や参加者が継続的に発信することを挙げている(Einwohner and Rochford 2019)。この点では、ソーシャルメディアでの活動もまた継続するには組織性がある程度必要だということになるだろう。
このように先行研究の議論を踏まえると、ソーシャルメディアを通じた運動は、持続的に生活を通じて続く「日常」というより、短期性・集中性といった性質を強調される「出来事」として捉えたほうが実態にかなっていると言えるのではないかと考えられる。しかし、その後の先行研究では、ソーシャルメディアの「日常」的側面もまたクローズアップされていく。
ソーシャル・メディア自体が、私的な語りと公的な宣伝や宣言の重なる場所であり、両者の分離は使っている当人にすら意識的に不可能なときがある。実際に、例えば#KuToo や#MeTooといったハッシュタグによって生み出される多数の書き込みは、単純に性被害・セクシャルハラスメントへの賛否や学術的考察を交えた議論だけではなく、当人たちの体験談とともに語られる場合も少なくない。こうした「個人的な話」は、それぞれの話し手の日常から生み出されたものだが、かといってデモの現場やシンポジウムの登壇中といった「出来事」の中で語られるかと言うと難しく、ソーシャルメディアという媒体で、個人で発言しているからこそ可能になる「日常」の運動ということもできるだろう。しかし、そこで語られることは確かに他者とつながっており、一つのハッシュタグをつけ、そのタグのもとで繋がるからこそ、個人的な語であっても他者との間に連帯が生じるのである(Papacharissi 2015)。
かつこうした「ハッシュタグを通じた連帯」と「ソーシャル・メディアを通じた個人語り」の関連は、発言者全員に共有され、内面化されるものである。Wahl-Jorgensen(2019)は、この個人語りの他者への共有とその内面化を「パフォーマンス」という概念から位置づけ直している。自分語りを含む投稿は、「見えない」観客に向けて行われているため、すべての投稿がある種のパフォーマンスになるのである(Wahl-Jorgensen 2019)。つまりソーシャル・メディアで行われる日常の個人的な語りは、「見られる」ことを前提とした出来事の語りなのである。これもまた、ソーシャルメディアにおける「出来事」と「日常」の連関を難しくしているといえる。