勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(前編)
勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」|池田明季哉(前編)
池田明季哉 “kakkoii”の誕生──世紀末ボーイズトイ列伝
勇者シリーズ(6)「勇者特急マイトガイン」
■谷田部勇者から高松勇者へ
前回の連載では、勇者シリーズが『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』『伝説の勇者ダ・ガーン』から構成される「谷田部勇者」を通じて、ロボットを通じた少年の成熟についてひとつの美学を完成させたこと、そしてそれが玩具と子どもの遊びを正確に言い表したことを整理した。
今回は第4作『勇者特急マイトガイン』について考えていく。このタイミングで谷田部勝義から監督を引き継いだのが高松信司である。勇者シリーズは玩具と手を組んだ物語であり、その制約は依然として引き継がれている。監督の交代によって「少年とロボット」という基礎構造や、前提となる玩具の商品配置が大きく変化したわけではない。もともと高松も谷田部勇者の時点でスタッフとしてクレジットされており、基本的な路線も継承されている。玩具シリーズという枠組みで考えれば、アニメーション担当監督の交代は根本的な変化をもたらす要因ではなかった。そのため担当監督を中心とした区分はあくまで便宜的なものであることはすでに述べたとおりである。
しかし同時に、高松信司が監督を担当した時期の勇者シリーズが、その美学にさまざまな新しい解釈をもたらしたことも事実である。改めて言うまでもないことだが、玩具そのものは主に樹脂と金属の塊にすぎないのであって、その造形が持つ意味はアニメーションを含めた文脈によって定義される。映像による物語が玩具の販促に有効なのは、玩具が描き出す成熟のイメージを意味づけする作用があるからだ。
改めてこうした前提を確認するのは、谷田部勇者がいったん完成させた成熟のイメージを、高松勇者が自己言及的に再解釈していったと考えるためである。谷田部勇者が玩具を用いた遊びの構造を物語によって正確に定義したとするならば、高松勇者はその構造を変奏しながら、そこで描きうる男性的なナルシシズムをさまざまなかたちで追求したといえる。もちろんそれは玩具というハードウェアあるいは美術的彫刻のデザインとも密接に関係しているのだが、どちらかといえば勇者シリーズを題材にした自己批評の側面が強く、ソフトウェアあるいは評論的なところに重心がある。そのため本連載もやや玩具本体から離れた議論をしていくことになるが、できるだけ物語論ではなく玩具論として、ユーザーとプロダクトの関係に注目していきたいと思う。
■昭和125年を生きる「12歳の少年」
それでは具体的に見ていこう。勇者シリーズは少年とロボットの絆を中心に据えるところにその特徴があった。『勇者特急マイトガイン』もその基本的な構造は踏襲しているが、その美学はこれまでと一線を画する。
その象徴となるのが主人公・旋風寺舞人の造形と、彼の相棒となる小型勇者ロボ・ガイン、および大型ロボ・マイトガインの関係である。しかし主人公の独自性について語るためには、まずは本作の世界観設定から説明しなくてはならない。
本作の舞台は化石燃料が枯渇したことで飛行機や自動車など既存の乗り物が運用不可能になってから50年が経過した時代、昭和125年と設定されている。そのような状況から電動の列車によって交通を再生したのが旋風寺コンツェルンであり、その本拠が置かれる東京は「ヌーベルトキオシティ」という名の近未来大都市に生まれ変わっている。
主人公・旋風寺舞人は15歳にして、行方不明となった親から旋風寺コンツェルンを引き継いだ若き総帥である。そして同時に、その資本力と技術力を背景にして独自開発したロボットチームを率いて、ヌーベルトキオシティにはびこる犯罪に立ち向かうヴィジランテでもある。アメリカのヒーローを参照するなら、バットマンやアイアンマンのような立場といえばわかりやすいだろう。バットマンがさまざまなガジェットで、アイアンマンがハイテクスーツで戦うとするならば、その代わりにロボットチームを率いるのが旋風寺舞人、というわけだ。
そしてこうしたアナロジーが可能なことからわかるように、旋風寺舞人は彼らに通じるマスキュリニティの担い手として描かれる。旋風寺舞人は勇者シリーズにおけるこれまでの登場人物とはまったく異なる主人公である。勇者ロボたちの部隊を率いて敵と戦う構図そのものは、一見すると前作『伝説の勇者ダ・ガーン』における星史少年と立場を同じくするように見える。しかし星史少年があくまで未成熟でやんちゃな、等身大でどこにでもいそうな、基本的には戦う力を持たない「少年」として描かれていたのに対し、旋風寺舞人ははじめから成熟した、完璧な存在として現れる。
舞人は15歳と設定されているだけでもはや「少年」ではなく、自らが男性的なナルシシズムを強烈に体現している。彼はヌーベルトキオシティの中心にそびえたつ(それが本当に中心かどうかは定かではないが、少なくともそのような印象を与えることを意図したデザインとなっている)自社ビルに住み、秘書と執事を従え優雅な生活を営み、作中に登場するあらゆる女性(敵を含めた)がその魅力に頬を赤らめる。
特に秘書である松原いずみは、舞人のナルシシズムを支える重要な存在だ。常に胸の谷間を強調した服に短いタイトスカートで仕え、15歳の上司から繰り出される恋人の有無や結婚についてのセクハラとしか言いようのない質問にはポーズとして憤慨しながらも最後は照れを見せ、スケジュールの無茶な変更などの事務仕事を的確にこなしていく。舞人の社長としての立場がそうした母性に支えられる一方で、物語のヒロインとなるのは吉永サリーである。彼女は貧しさからさまざまなアルバイトに精を出しており、それゆえにさまざまな事件に巻き込まれる。そこにさっそうと現れた舞人に、身分違いと知りながら惹かれていく――という構図がとられている。女性キャラクターだけではなく、たとえばライバルとなる雷張ジョーをはじめとした男性キャラクターも、不屈の正義を貫く舞人の男気に魅せられていく。「嵐を呼ぶナイスガイ」「不死身のタフガイ」と自ら名乗る舞人の仕草は、何者にも傷つけられない自信にあふれている。
もちろん本連載の目的は、こうした描写を批判することではない。重要なのは、旋風寺舞人がこれまでの勇者シリーズでは(少なくとも表面的には)あまり見られなかった、性的な回路によるナルシシズムを強力に体現する存在として描かれていることだ。一度崩壊した東京を列車という工業技術によって再生し、その身体を未成熟に留めたまま、美少女とロボットによって担保されたヴィジランテとしての全能感を生きる昭和125年の「12歳の少年」――それが旋風寺舞人なのである。
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