京都アニメーションを「境界の両岸」から考える(『石岡良治の現代アニメ史講義』第2回)
今朝のメルマガは、批評家の石岡良治さんの連載『現代アニメ史講義』の第2回です。
取り上げるのはゼロ年代アニメブームの牽引役として『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』などの数々の名作を送り出した京都アニメーション。今回配信する前編では、作品に頻出するモチーフである「川」が、「青春」を描くアニメスタジオである京アニにとってどんな意味を持つのかについて考察します。
◼ 今世紀アニメを象徴するスタジオ、京都アニメーション(アニメーションDoも含む)
みなさん、こんにちは、石岡良治です。先月からはじまった「現代アニメ史講義」の第2回を始めていきたいと思います。今回もホームページ上からハンドアウトをダウンロードし、参照していただきます。
今回は京都アニメーション(京アニ)を「境界の両岸」という観点から語りたいと思います。この10年くらいの深夜アニメ市場において、「京アニ派」が圧倒的多数を占めていたという感触があります。京アニとは言わずもがな、『涼宮ハルヒの憂鬱』『らき☆すた』『けいおん!』などのヒット作をゼロ年代に連発したアニメーション制作会社ですね。
しかし私自身はどちらかというとシャフト派でした。シャフトは前回扱いましたが、京アニと並んでヒットメーカーとして知られる会社ですね。
なぜ私が京アニよりシャフトを推していたかというと、京アニのアニメ演出ではいろいろと犠牲になっているものがあることが気になっていたからです。この講義を始めていく前に、まず私が京アニに対して懐疑的な立場であったことをご了承ください。
ゼロ年代以降、アニメ批評の文脈では、とにかく京アニと、どこか別のスタジオを比較するという論調が目立っていましたよね。時代を代表する話題のアニメスタジオは変わり続けているのですが、この10年間、京アニはアニメスタジオのキングの地位を獲得し続けてきました。
ポイントとしては、木上益治(きがみよしじ)さんが京アニの作画すべてのマトリクスを築いている点です。京アニスタッフは、ほとんど木上派であるといっても過言ではありません。木上さんは元々アクションを得意とするアニメーターでしたが、近年はむしろ丁寧なキャラ作画、とりわけ仕草の作画に独特の個性があります。この仕草における木上イズムが京アニのすべてのアニメーターに行き渡っているといえるでしょう。
また、新海誠さんに由来する「取材に基づく背景」の「コモディティ化」をいち早く確立した点も京アニの「功績」です。京アニでは新海誠さんの『ほしのこえ』以来のデジカメで撮った写真を絵に起こす「取材に基づく背景」という方法をとっています。この方法は現代のアニメ制作環境を考える上で避けられないことで、いったん京アニ作品に集約され、そこに原点があると言っていいでしょう。
この背景の作画方法は、アニメの外側にもイノベーションを起こしました。キャラクターと実在の背景がアニメ上で組み合わせることで、視聴者たちの「この背景のモデルとなっている場所に行きたい」という欲望を生み出し、一連の「アニメ聖地巡礼」ブームが巻き起こりました。その意味でも、京アニがもたらした影響は多大です。
私の意見ですが、京アニはレイアウトシステム(注1)を厳密に取り入れているとは言い切れないと思います。京アニは劇場版アニメを手がけるようになる前までは、画面上の構図をしっかりと撮る意識はそこまで強力ではないように思えます。私には、人物のアクションと背景そのものに関心が向いているように感じられたのです。背景とキャラクターの作画それぞれを職人的に洗練させて、それらのマッチングについて経験的に確立していったのではないかと考えています。ただし、この京アニのレイアウト問題については議論の余地があると思うので、異論がある方は是非とも意見をいただけたら嬉しいです。
注1:「レイアウトシステム」…簡単に描かれた絵コンテから1カットの完成画面を想定し、背景の構図とキャラクター動きや配置を決定してより緻密に描かれた設計図を「レイアウト」と呼ぶ。この設計図を基本としてアニメを制作する方法を「レイアウトシステム」と呼ぶ。
京アニの特徴としては、元請(注2)の初期にKeyのノベルゲーム原作を数多く手がけた点も挙げられます。その代表作として『CLANNAD』を取り上げます。Key作品は『AIR』(2005年)『Kanon』(2006〜2007年)『CLANNAD』(2007〜2009年)の順番にアニメ化されています。しかし、このなかで現代の京アニに通じた部分が多いのは『CLANNAD』だけだと考えています。『CLANNAD』は相当な話数(注3)をアニメ化していて、ここで得たメソッドが未だに貯金になっています。
注2:「元請」…アニメ制作のメインとなる、仕事を最初に請け負ういわば受注元の会社。
注3:『CLANNAD』(本編22話+番外編1話+DVD特典1話)と『CLANNAD ~AFTER STORY~』(本編22話+番外編1話+DVD特典1話)で合わせて48話がアニメ化されています。(『CLANNAD~AFTER STORY~』の総集編1話は除く)
京アニの元請初期ではスポークスマンとして山本寛(やまもとゆたか)さんが目立っていました。しかし、山本さんの京アニ退社以後、自分から発言して主張する監督はあまりいなくなります。今では、京アニは作品・作家性を主張しないスタジオというイメージが定着しているのではないでしょうか。
しかし、京アニには同時に一作品に集中するため「累積性」が強いというアドバンテージがあります。アニメーションスタジオでアニメーターは色々な絵柄を書き分けられるほうが優れていると言われています。一方、京アニでは「前の作品」の絵柄が、次の作品へ影響しています。『涼宮ハルヒの憂鬱』は『Kanon』に影響を与え、『Kanon』は『らき☆すた』に影響を与え、『らき☆すた』は『CLANNAD』に影響を与えるという具合に連綿と続いています。もっとも、近年ではチームが分化しているので、近年の作品である『中二病でも恋がしたい!』『Free !』『甘城ブリリアントパーク』『響け!ユーフォニアム(ユーフォニアム)』などは描き分けられていますが。
ともかく京アニは、現代のアニメスタジオでは珍しく、まるで一人の作家が描き続けているかのような「累積性」を持ったスタジオであると言えます。『けいおん!』から『ユーフォニアム』まで同一作家であるとすら言っていい統一性を持っています。私は、集団制作作画における同一作家性こそ京アニの際立った個性であると考えています。
また、京アニの堀口悠紀子さんが別名義である「白身魚」でキャラクターデザインしている『ココロコネクト』はSILVER LINK.によってアニメ化されていますが、京アニ作品とは違う別物になっています。
◼「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズム:日常性と「超越」の位置
「エブリデイ・マジック」は京アニの特徴です。「エブリデイ・マジック」とはファンタジー小説でよく言われている「日常に魔法が入ってくる」という作風のことを指します。また京都の地形的特徴である「川」へのこだわりも、もうひとつの大事な特徴といえるでしょう。「エブリデイ・マジック」と川のシンボリズムの組み合わせによって、日常性と「超越」の位置に独特の考えを生んでいるわけです。
「超越」は難しいテーマですが、京アニについては語らなければいけないと考えています。京アニの花を植えるCMを見てもらえばわかると思いますが、京アニのCMには微妙な怖さを感じますよね。
▲京都アニメーション CM「花編」
http://www.kyotoanimation.co.jp/company/cm/flower/
真顔で健康的な雰囲気が強調されすぎているといいましょうか。木上益治監督作『MUNTO』における、不良の和也が病弱の涼芽を背負って河川敷を歩いて渡りきるシーンにも同様の怖さがあります。『MUNTO』は問題作であり、京アニで一番ウケなかった作品です。川渡りシーンはOVAとテレビ版(『空を見上げる少女の瞳に映る世界』(『MUNTO』のテレビ版タイトル)第3話「立ち向かうこと」)の両方で登場します。このシーンにこそ京アニの本質があると私は考えています。このシーンでは、二人が川を渡りきった瞬間、周りのみんなが拍手し祝福します。このあたりは『新世紀エヴァンゲリオン』最終話の「おめでとう」シーンに似た「承認の場面」かもしれません。
▲MUNTO
このシーンは、やや不気味なところもありますが、京アニの持っている「超越」への意志のエッセンスがあると考えています。このシーンを単に気持ち悪いとだけ思わせないのが、京アニの力技で、今でもこのモチーフは色々な作品の中に生きています。
たとえば最新作『響け!ユーフォニアム(ユーフォニアム)』の宇治川でのシーン(http://cycle-junrei.hatenablog.jp/entry/2015/04/11/215708)は、このエッセンスが活かされているシーンと言えるでしょう。京アニは「エブリデイ・マジック」と「超越」をテーマとして作品に織り込もうとしています。
▲響け!ユーフォニアム(1)
花を植えるCMが微妙に見えるのは、自然の描写にあります。自然の描写になぜか「健全な青春」が入ってくる点です。『氷菓』の文字演出がもっさりとした印象を受ける(文字演出参考画像: http://nextsociety.blog102.fc2.com/blog-entry-1865.html )のは、「青春」というテーマに全ての力を注いでいるからです。そして私はこの「青春」というテーマこそが、京アニがスタジオとして表現したいものであると考えています。
花を植える自社CM、『MUNTO』の川渡りシーンに見られる底の抜けたような本質を、ただのカルト的演出であるとみてはいけないと私は思います。このような意味合いの底が抜けたシーンには、ある種のナンセンス性を感じます。しかし、きちんとやりきらないとサムいシーンになってしまいます。京アニはそこをきちんとやりきっているからこそ、独自の表現にまで達していると考えています。
◎構成協力:籔 和馬
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