井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』番外編 幸福な善人の異世界物語
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。今回は番外編として、ウェブ小説の新ジャンル「幸福善人系」について考察します。物語制作上不可欠とされるはずの、主人公の欠落や進行上の障害を全て排除し、ひたすらストレスフリーを徹底した作品群。その指向性の先にあるものは……?
究極のストレスフリーとしての幸福な善人の話
さまざまな異世界もの物語の中でも、ここ数年になって「幸福善人系」とでも呼ぶべき一群の作品が増加している。アニメ化までいった作品としては、吉岡剛『賢者の孫』(2015-)がこうしたタイプの代表格だが、もとから恵まれている幸福で善良な人間が、スーパーマンとして大活躍する話である。私見では、この「幸福善人系」の作品群の台頭は、一時期の「空気系」の作品が登場してきたときのそれに近いインパクトを持っているように思う。そのインパクトというのは、何なのかということを説明したいと思う。
さて、こういったものが増加してきた経緯のそもそもは、ウェブ小説界隈で近年よく意識されるようになってきた「ストレス展開」の排除だとか、「ストレスフリー」などという言葉が関係している。つまり、主人公が喪失や挫折を経験したり、差別に苦しめられたり、誰かとの深刻な対立を経験したりすることのない小説である。7,8年前であれば、この傾向はそこまでは顕著ではなかったが「ストレスフリー」は、ウェブ小説の中での流行りを意識する書き手にとっては、近年かなり意識されている。「異世界転生」「チート」「ハーレム」といった要素に次ぐ、もう一つのウェブ小説の鉄板要素なのではないかといった感すらある。「ストレスフリー」自体ネタとしたメタ小説(注1)まで書かれている状況だし、もちろん、コミカライズされている作品も数多い。
もっとも、これといって強いストレスのない物語それ自体はそこまで珍しいわけではない。初期『ドラゴンボール』だってそうだ。ただ、そういった最強主人公モノは何かしら変わった人格──いわゆる「キャラが立っている」人物──であったり、設定の面白さをもっていたりする。
つまり「ストレスフリー」展開の話を順当に面白くしようと考えた書き手たちの考えることの一つは、ヒキの強い設定やキャラ立ちをさせようという発想に落ち着くことになる。
ホモ・サピエンスという種族がエルフやドワーフといった種族を遥かに超える伝説的な種族だったという設定の柑橘ゆすら『最強の種族が人間だった件』(2016-2018)だとか、あまうい白一『俺の家が魔力スポットだった件~住んでいるだけで世界最強~』(2015-)などは、タイトルだけでもすでに極端なストレスフリーっぷりがうかがえる、ヒキの強い設定をもっているストレスフリー作品であり、こうした作品は数多くなされている。
たが、こういった設定や、キャラクターのヒキの強さで話を面白くしようとする努力とは、逆方向にストレスフリーの作品のあり方を突き詰めてできあがったきたのが、「幸福な善人」たちの話である。
これらは、キャラクターや設定のヒキの強さで話を面白く盛りあげない。キャラクターや設定も含めて、刺激の低い作品であり、ある意味で究極のストレスフリーを目指した帰結とも言える。
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