井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第21回:ゲームから物語へ(2)【毎月第2木曜配信】
ゲーム研究者の井上明人さんが、〈遊び〉の原理の追求から〈ゲーム〉という概念の本質を問う「中心をもたない、現象としてのゲームについて」。前回に引き続き、テーマは「ゲーム/物語」の区分です。今回はブルーナーの裁判についての議論と比較しながら、「物語の階層性」という概念を通じて、ゲームと物語の関係を解き明かします。
■第21回:ゲームから物語へ(2)
3.5.7. 解釈システムの階層性
物語化の階層性
心理学者のブルーナーは、物語を生成させるプロセスの一つとして裁判における物語生成に着目している[1]。
裁判においては、被告と原告のあいだに異なる物語があり、双方の物語をたたかわせる。複数の物語間の衝突があり、その衝突は裁判官が正統な物語を決定することによって収束するという手順をもっている。
そして、複数の物語が、調整されるプロセスにおいて、法廷では「過去」の先例への一致が基準とされる。法大全や六法全書に掲載されている判例集との整合性をチェックし、先例との対応を考えていくことでいかにも順当な物語が選び取られる[2]。
以上のブルーナーの指摘は、ゲームと物語の関係を考えるうえでも示唆に富んでいる。「裁判」の仕組みは社会的なプロセスだが、裁判のような複数の物語がたたかわされ、調整されるプロセスというものを、一個人の認知のはたらきの過程として相似形で考えてみることにしよう。
我々は、日々数多くの「物語になりうるもの」と出会いながら生きている。
我々の日々の経験のうちのいくつかは印象深いものとして記憶され自伝的な記憶となり、いくつかの要素はそのようなものとしては記憶されない。はじめて恋人ができた日の記憶や、親族の死の記憶などは多くの人にとって記憶に残る類のものだろうが、今日の昼食が今後の人生の記憶に残るかどうかといえばよほど美味しいものにでも出会ったりしない限りはなかなか記憶に残りつづけることはないだろう。
ゲームを遊ぶなかで出会うほとんどのことは、繰り返しつづける要素の一部だ。今日の昼食とか、昨日のトイレの記憶に近い。何度も繰り返しているゲームのなかで、敵がどのような戦略を採ったか、自分がそのとき何をしたかということはそこまで詳細な記憶はないだろう。たとえ、FPSのような銃撃戦のオンライン対戦ゲームのなかで敵キャラクターを殺害していようが、味方キャラクターが殺されていようが、こまかな記憶を保持しておくのは難しい。
『ジョジョの奇妙な冒険』に主人公が宿敵ディオに対して、いままで何人を殺してきたのか?という問いを発し、それに対しディオが「おまえは今まで食ったパンの枚数をおぼえているのか?」と答えるという有名なシーンがあるが、ゲームの行為というのは、まさにこのような側面がある。
しかし、プロのゲームプレイヤーたちの日常というのはそうではない。
ある朝起きたら、昨日の自分のゲームプレイの結果がニュースとして報道されるということがありうる。裁判においては、裁判官によって複数の物語のうちの一つが正統な物語として選び出されることになるが、プロのゲームプレイヤーたちの日々はジャーナリストや観客たちによって任意のシーンが重要な物語として語られることになる。たとえば、高名なチェスプレイヤーのカスパロフであれば一九九七年五月に行われたIBMのAI(ディープブルー)との対戦が「歴史的事件」として報道された[3]。
彼らの日常、彼らの試合のすべてが特別な物語、意味のある物語とみなされるわけではない。
無数のゲームを戦うなかで、任意の瞬間が、特別な「物語」として選び取られることになる。
▲物語化のプロセスの階層性
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