〈ゲーム〉をめぐるいくつかの不連続な問(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第1回) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.11.04
  • IT&ビジネス,ゲーム,井上明人

〈ゲーム〉をめぐるいくつかの不連続な問(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第1回)

今朝のメルマガは井上明人さんの新連載『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第1回です。〈ゲーム〉という新しいメディアが私たちの認識に与える影響と、その可能性について、いくつもの実例や先行研究を踏まえながら、人間と遊戯の本質的関係に迫ります。


 

第一章 <ゲーム>をめぐるいくつかの不連続な問

「ゲーム」というキーワードを通じて論じることの可能な不連続な問題提起からはじめていきたい。
これらは、一見不連続な現象であるが、いずれも「ゲーム」というキーワードを通じて連続したものだ。本論の目的は、こうした一見すると不連続なものがなぜ「ゲーム」という現象によって連続的に捉えうるのか。そのいささかよくわからない関係性を紐解くことにある。
いくつかの問題は、ゲームや遊びを論じるうえで、伝統的に論じられてきた問題であり、いくつかの問題は筆者が独自に考えようとしているものである。伝統的な問題については、おそらくはこの分野について考えてきた人であれば、それぞれの現象について、自分なりのなんらかの答えをもっているようなものだろう。

これから挙げる問題に対して、たとえば、遊び論の古典としてしばしば引き合いに出されるカイヨワの『遊びと人間』を読んだだけでは、ヒントを得ることはできるだろうが、じゅうぶんに答えることはできない。
『遊びと人間』は、カイヨワ自身が、あそびやゲームといった現象の複雑性や両義性に向き合いつつ、そのなかを手探りでたどる本だ。カイヨワの議論は、明快な答えは書いておらず、この問題の森に分け入る旅をするための本であると思う。
本論も、ゲームやあそびといった概念の森を、完全に上から俯瞰することができるわけではない。この概念の複雑さは、どうしても京都や札幌のような碁盤目状の整理された街の構造に仕立て直すことはできない。ただ、少なくとも、カイヨワが『遊びと人間』を書いた頃よりは、ゲームや遊びといった現象の森のなかに、わかりやすい目印を記し、森のなかに歩きやすい道を描くことは可能になってきていると思う。
本稿は、ゲームや遊びといった現象によって生成される問題の森の中を、歩くための私家製のガイドブックのようなものを目指したいと考えている。

1−1.判断をつくるもの−−感覚を効率的に形成する装置としてのゲーム−−

2010年4月5日、Wikileaksでひとつの動画が公開された。
それは、2007 年 7 月 12 日にバグダッドで起きた、米軍による民間人へのヘリ攻撃の動画だった。
動画では、ロイターのカメラマンが手にした巨大なカメラをロケット弾と誤認した兵士が、カメラマンに向かって発砲。そのカメラマンだけでなく周囲の民間人もゲリラと判断され、同時にヘリからの攻撃対象になった。
公開された映像は「まるでコンピュータ・ゲームのように人を撃ち殺す、とても残酷な映像だ」「米軍の横暴が証明された!」という非難を受けた。戦地での映像に対して、こうした非難がなされることは、もちろん今回がはじめてではない。
たとえば、2003年のイラク戦争開始四週間前に、イラクの市井の人々をカメラに収めたドキュメンタリー映画『イラク−−ヤシの影で』などはそうした批判を、丁寧に映像として見せたものだ。イラクに暮らす穏やかな知識人たちの日常を追いかけ、何人もの子供を育てているスポーツ選手の男性の暮らしを追いかけ、イラクの人々の暮らしを淡々と撮り続ける。イラクの人々が、いかに尊敬すべき、愛すべき人々かを魅せつける映像が丁寧に集められている。
そして、この映画の最初と最後には、機関銃の粗い照準映像によってだれともわからない中東の人物が銃撃される映像が挿入される。それぞれのゆたかな日常をもったイラクの人々の身体は、銃によってただ敵対する対象として捉えられ、銃撃される。
イラクの人々の静かな日常的リアリティと、人間を実に雑に扱ってしまう戦争のリアリティを対比的にみせることで、イラクで行われたことがいかに悲しいことであるかをまっ直線から提示しようとしてみせるドキュメンタリー映画だ。
アメリカ軍による誤射が、愛すべきイラクの人々の日常を壊す行為であることはこうしたドキュメンタリー映画にかぎらず、何度も根気強く、繰り返されてきた批判である。

一方、2010年にWikileaksで映像が公開された時、「人を撃ち殺すコンピュータ・ゲーム」をやってきたプレイヤーたちからの反応は必ずしもアメリカ軍の兵士を一方的に非難するものではなく、たとえば次のような論争だった。

「あの状況で、RPG(ロケット弾)らしきものを視認したのならば、自衛のために交戦するのは状況的に仕方ないのではないか?兵士の責任は問えないのでは?」
「いや、攻撃ヘリの中にいればさすがに安全なのではないだろうか。それに、兵士たちの態度はひどいのではなかろうか。陸地の部隊は冷静だし、ヘリの兵士が興奮状態で判断をあやまったという感じがする」
「イラクの当時の状況下だと、おそらくRPGをゲリラが保有している状況はじゅうぶんに想定された状況だったはず。交戦許可はそこまでありえないものではないとも思う」
「積極的に悪意のある判断だとは思わないが、やっぱり興奮状態で判断を誤ってるだろ」

中東の戦場へと何度も出向くようなゲームをやってきたゲームプレイヤーたちにとって、兵士が緊急時にどのような判断をするか、ということはゲームのなかで何度も見てきた風景だ。
銃撃戦のゲーム[1]では、敵対する意思のある相手を視認したら、瞬時に、先手をとって攻撃をしかけられるかどうかが生死を分ける。その状況下では、相手の見分けはしばしば困難になる。民間人を誤射してしまうことはゲームの中でも頻発するし、友軍を撃ってしまうことも頻発する。たとえば友軍の兵士が、向かい側から間違って発砲してきたら、敵に攻撃されたものと誤認して友軍を撃ち殺してしまうことがよく起こる。ゲーム内で、何度も友軍を誤射してしまってゲームオーバーになることは、銃撃戦のゲームをプレイした人であれば経験したことがある人は多いだろう 。[2]
ゲーム内での敵と味方の判別のしにくさが、実際の戦場とまるきり同じであるかどうかということは、もちろん議論のあるところだし、誤射行為自体は、あってはならない悲劇であるということにはもちろん変わりはない。
これが誰も望まない悲劇であることは変わりのない事実である。
ただここで確認しておきたいことは、同じ攻撃ヘリからの映像が、それが残酷で杜撰な意思によって行われたものである批判と、戦場の感覚としてそこまでありえない判断ではないかもしれないという反応と、その二つの異なる反応を産んだことである。


 

▼執筆者プロフィール
井上明人(いのうえ・あきと)

1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。

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