【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第5回
平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第5回です。
篠原はおれの話を聞いていない。
だから、おれは言葉を切って水を飲んだ。
篠原はとうにビールとカツオを食べ終わり、おれは追加の蕎麦を平らげている。
今日何本目かの煙草に火を点けて篠原はそれを灰皿に置く。篠原は滅多に煙草を吸わない。ただ、灰皿に置いておくだけだ。煙草の銘柄もいつも違う。きっとなんでもいいのだろう。
おれは蕎麦湯を頼んでちびちびやる。余った葱と山葵を蕎麦湯に溶かしてちびちびやる。
煙草の煙を目で追う篠原の顔を見つめながら、おれが馬鹿だった、と思う。
こいつにはおれの過去などどうでもいいのだ。
篠原は何に関しても興味を持たない。初めておれの店にやって来ておれに殺してくれと頼んだ時はこんな風ではなかった。まだ、死ぬ事に興味を持っていた。だが、死に損なって再びおれの前に現れた時、まるで違う人間に変わっていた。明るく輝く無関心、とでもいうようなものを身につけていた。僧侶のようだ、とおれは思った。
おれは篠原が嫌いではない。寧ろ好きだ。おれに関心を持たれるより放っておいてくれた方がありがたい。それなのになぜおれは身の上話など始めたのだろう。どうかしている。
先程のあなたの質問にお答えしましょう、篠原はおれの話の続きを待つ事なくそう言った。
なぜ、私はあなたに殺してくれと頼んだのか。
おれは手を伸ばし篠原の煙草を揉み消した。後で禁煙するように言ってやろう。
笑わないでくださいね、篠原がそう言うので、おれは「笑わない」と言ってやった。少し考えてから怒らないでくださいね、と付け加えるので、「怒らない」と言ってやる。
ほら、あなたの店に恐竜の化石があるでしょう?
「ああ」
あの日、店番をするあなたの頭の上に化石の首の骨がアーチのようにかかっていましてね、それが後光のように見えたんです。
「ごこう?」意味が分からず聞き返した。
聖なる光ですよ。そのせいであなたが聖者のように見えたんです。しかもあなたの人並み外れた体がまた凄かった。圧倒的な肉体を持つ聖者がいるなら、きっと私を殺してくれると思ったんです。あの時の私は大分追い詰められていましたからね、まあ藁にも縋る思いでした。
篠原はおれがなにも話さないのを確かめてから言葉を続けた。
でも、私は死ねなかった。別にあなたのせいじゃありませんよ。きっとそれが因果律ってやつだったんでしょう。私は病院のベッドで考えました。私はまだ死ぬべき時ではないのだ、と。もしそうなら私にもまだこの世でするべき事が残っているに違いない、と。そこで私は決めたんです。人の死のために尽くそうとね。私が死ねないのなら人を殺してやるために生きてやろうって。
ふと、篠原はおれを恨んでいるのでないかと思った。
篠原をうまく殺してやれなかったおれを憎んでいて、復讐のためにおれに人殺しをさせているのではないだろうか。だが、おれはすぐにそんな思いを否定した。恥を感じた。篠原は一度もおれに嘘をついた事はない。第一人殺しをさせるのが復讐になっていない事は明らかだ。なぜなら、このおれが相手だからだ。篠原は本当にこの世界では生きられない哀しい奴らの事を考えているのだ。そしておれを理解している。
篠原は蕎麦湯を飲み干すおれを見つめていた。おれの言葉を待っていた。
「おれは死なない」そう言った。「永遠に」
篠原はおれの言葉ににやりと笑った。篠原の笑いを見るのは久しぶりだった。もしかしたら初めてかもしれない。
「おれは永遠に死なない」もう一度繰り返した。「おれの仕事をするために。死にたい奴らを殺すために」
そうだ、おれは死なない。完璧な肉体のまま生き続ける。月を見上げて生き続ける。きっとおれは月には行けない。が、それでいい。その代わりにおれはおれが殺す奴らの魂が月に行けるように祈るのだ。新しい季節の中で生きていけるように祈るのだ。
6
老婆に捕まったその日の早朝、おれは裁判にかけられた。
この老婆はみんなからきい様と呼ばれていた。いつもきいきいうるさいからだ。
島一番の高齢で、ただひとりの医者であり、また、みんなから一目置かれる知恵者で誰もが恐れる変人だった。
ひとつ、分からない事がある。なぜ、きい様はおれの母親が誰かを知らなかったのか。
母親の体に様々な器具を突っ込み、おれを堕そうとしたのは島唯一の医者であるきい様だったに違いない。だが、おれの激しい抵抗に遭いきい様は堕胎に失敗した。だからおれを見つけた時に母親の見当ぐらいはついたはずなのだが、それが分からなかったとはどういうわけか。考えられる事はいくつかある。
まず、きい様はおれの母親の中からおれ以外のなにか別のものを引っ張りだし、堕胎に成功したと思い込んだという事だ。まあ、なにを引っ張りだしたのかは分からないが。
或いは堕胎を諦めて母親に任せたとも考えられる。つまり、便所に産み落として溺死させるように命じたのだ。島の女たちはネズミのようにしょっちゅう妊娠していて便所での処理は珍しくなかった。
また、これが一番可能性が高いと思うのだが、ただ、単にきい様が歳だったという話なのかもしれない。きっときい様はなにもかもを忘れていたのだ。
きい様主催の裁判には娼婦たち全員が参加した。
きい様はまだ元締めとその子分の若い衆たちが目覚める前に女ひとりひとりの部屋を訪れ、雑木林の会議場に来るようにと声をかけた。寝ぼけ眼の女たちは身繕いもせず、泊まりの客を取っていた者は客に悟られないように寝床を抜け出し木々の間の開けた場所にやって来た。
きい様は落とし物の持ち主を探すように両手でおれを持ち上げてこの子を産んだのは誰だと娼婦たちに訊ねた。答える者は誰もおらず、きい様はきいきい喚き始めた。
島の掟を忘れたのか、元締めにばれたらどうするのか、このままでは連帯責任になる、全員ひどい目に遭わされる、お前たちは動物と同じだ、犬が糞をひねり出すように子供を産む、昔の事を忘れたのか、子供を産んだ女はみんな殺された、もちろん子供も殺された、女の体は呪われている、女は腹に溜めた男の精液に血と糞を混ぜ合わせて子供を作る、今母親が名乗り出ればこの子と一緒に逃がしてやる、そうでなければ殺して埋めるだけだ。
だが、名乗り出る者はいなかった。おれの母親はまたおれを殺そうとしたのだ。
おれを救うきっかけを作ったのは押入れのおれを訪ねるうちに情を移した数人の娼婦たちだった。
娼婦たちはおれの助命を嘆願し、それに効果がないときい様を脅迫した。たとえ今子供を殺しても、子供を見つけた時点で元締めに報告しなかったのは罪になるのではないか、私たちは黙っていない、必ず元締めに言いつける。
そう言われてきい様は考えを変えた。急に穏やかな口調になると、おれの生死を賭けての多数決を提案した。
結果は圧倒的で、おれは命を救われたが、それで問題が解決したわけではなかった。この狭い島でずっとおれの存在を元締めや若い衆たちに隠しておくわけにはいかない。
そこできい様が知恵を絞った。元締めとの約束は子を産まないという事だ。
おれを産んだのはこの島の女ではない、おれは誰かが捨てた子供で海を渡って流れついたのを拾い上げた、それがきい様の考えた言い訳だった。
それからの数日間、女たちは夜になると代わる代わる森を訪れて大工仕事に精を出した。海から島へ、おれを運んで来た偽りの船を作るためだ。
なるべく古い木材を選んで完成させた揺り籠のようなその小舟はなかなかの出来ばえだったが元締めは疑わしそうな視線を船に向け、おれに向けた。
初めて見る元締めは、人間とは別の、なにか奇妙な生き物のように思われた。それは元締めの外見のせいというよりは、おれが誕生して以来、奴が最初に出会った男だったせいだろう。小太りで禿げ頭の、弛み始めた初老の皮膚に刺青を入れたその姿は今思えばそれほど異常というわけではなかったのだが。
うちに子供はいらない。
五十人だか百人だかの娼婦を前にして元締めはぼそぼそと呟いた。お経を読むような口調だった。
この島にやって来る客は普段の生活を忘れたいのだ、子供を見て女房の顔や家庭を思い出す客も多いだろう、そうなると客はしらけてしまって財布の紐を締めてしまう、この島は天国でなければならない、天国に子供はいらない、必要なのは天女だけだ。