【特別掲載】art bit展が投げかけるもの──世紀をこえた「20年代」のリフレインに向き合うために|中川大地
【特別掲載】art bit展が投げかけるもの──世紀をこえた「20年代」のリフレインに向き合うために|中川大地
【告知】
■art bit – Contemporary Art & Indie Game Culture – #3
会期:2023年7月5日(水)〜9月2日(土)
会場:ホテル アンテルーム 京都 GALLERY9.5
入場料:無料
https://www.uds-hotels.com/anteroom/kyoto/news/17075/
2011年の開業以来、「常に変化する京都のアート&カルチャーの今」を発信してきたホテル アンテルーム 京都と、2013年より続く日本最大級のインディーゲームの祭典「BitSummit」との出会いから生まれた本展では、現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性という、合わせ鏡のような魅力とクリエイティビティのルーツに注目。互いのカルチャーの垣根や、アーティストやクリエイター、研究者といった立場を超えた人と人との交わりから、アートとゲームの新たな可能性を追求しています。
3年目となる本年は「ホモ・ルーデンスの夏休み、夏の夜の夢」をテーマに、わたしたち人間の持つクリエイティブな野生や遊び心を解き放つ多彩な作品を展示します。
■ギャラリートーク&レセプション
「アート&ゲームの最前線 〜BitSummitとart bit から考える2025への道筋〜」
日時:2023年8月27日(日)19:00〜20:30
会場:ホテル アンテルーム 京都1F
出演(予定):村上雅彦、石川武志、尾鼻崇、中川大地、豊川泰行
11年目に踏み出したBitSummit Let’ GO、およびart bit #3の運営の舞台裏とゲームカルチャーをめぐる最新動向を振り返りつつ 、大阪万博2025を控えた関西の地でアートとゲームに何ができるのかを展望します。
art bit展が投げかけるもの──世紀をこえた「20年代」のリフレインに向き合うために
「あれ、今って21世紀だよね……?」 2022年に入ってからの衝撃的な出来事の連続に、そのような思いにとらわれている人も少なくないのではないだろうか。およそ100余年前のスペイン風邪が2度の世界大戦をまたぐ20世紀の世界史ドミノの倒列の端緒近くにあったことと同様、COVID-19のパンデミックで幕を開けた2020年代の世界は、各国での対策をめぐる社会の分断、ロシアによるウクライナ侵攻、金融危機化を懸念されながら進む世界同時株安、そして日本社会を震撼させた先の安倍元首相の惨劇と、これでもかというほどに前世紀への先祖返りを志向しているかのようだ。
昨年、現代アートのゲーム性とインディーゲームの芸術性を合わせ鏡にするという趣旨で初めて開催されたart bit展では、マルセル・デュシャンが同時にチェス・プレイヤーでもあったという脈絡のリマインドから、そのコンセプトの図解きが始まっていた。そしてデュシャンがレディメイドの小便器を使った《泉》を1917年のニューヨーク・アンデパンダン展に出展しようとした騒動が現代アートのスタート地点となったこともまた、目下の情勢の変化から振り返ると、1世紀前の時代状況との奇妙な符合の一つだったようにも思えてくる。
とはいえ、一見「かつて来た陰惨な道」をリフレインしているかのようにもみえる現在の世界の展開も、螺旋を描くようにして未知のベクトルを進んでいる。未曾有の世界大戦に翻弄された人類の危機へのニヒリスティックな抵抗が、あらゆる権威や既成概念を疑うダダイスムにつながり、そして現代アートという価値転倒のゲームを産み出したように、いま世界を覆いつつある巨大な不安と無力感を受け止めながら、そこに少しでもハッキング余地を見つけていくという芸術表現の役割が、これよりは改めて切実化してゆくことになるだろう。そうした現在進行中の時代変化のベクトルの正体と、そこに付けいる隙を見つけていくための営みとして、2年目を踏み出すことにしたart bitに何が問われているのかを見定めていきたい。
「現代アートのゲーム性」と「ビデオゲームの芸術性」
デュシャンをメルクマールとする現代アートが何を成し遂げたかを改めて言い直せば、写真や映像技術、あるいは工業製品の氾濫といった産業革命以降の表現にまつわるテクノロジーの発展が、絵画や彫刻といった従来の伝統的な芸術表現の存在意義を脅かしていく中で、それでも人間が創造する「美」とは何かという規範を様々なイズムの更新闘争として展開してきた近代美術のモーメントを徹底させ、高純度の「文脈のゲーム」(落合陽一)を抽出したことだ。
そこでは、従来の「美」における自明の前提だった人の目に心地よく感じられる「網膜的」な快楽の要件は相対化され、むしろ不快や困惑すらもたらす認知負荷の高い「頭脳的」な鑑賞体験を通じて、従来の美をめぐる既成概念をいかに揺るがしたかという問題提起性こそが、作品価値の根幹となるシーンが現出していくことになる。
言い換えればこれは、それまでの美術史の脈絡や流通マーケットでの慣習というゆるやかな「ルール」の存在を前提に、個々の「プレイヤー」としての作家や鑑賞者がそれぞれに能動的な参加意識をもって制作や読み解きに「挑戦」し、コレクターやギャラリスト、批評家たちが形成するアートワールドの文脈での評価や影響力を勝ち取ることを「競う」という近代芸術の「ゲーム」としての側面が、デュシャン以降は特に先鋭化したことを意味する。とりわけ第二次世界大戦後のアメリカが発展の中心地となったことで、アートの流通価値の形成がグローバルな金融資本主義という定量的な評価システムと結びつき、現代に至るまで巨大化していったことが、「文脈のゲーム」としての現代アートの本質に他ならない。
他方、今日のビデオゲームのあり方が、現代アートの合わせ鏡のように位置づけられるとすれば、どのような意味においてか。そのルーツをやはり1世紀前に溯るのであれば、コンピューターゲームの最初の先駆例とされる、人間を相手にチェスのエンドゲーム(終盤局面)を指せる自動機械「エル・アヘドレシスタ」が1912年に発明されたことを思い起こさないわけにはいかない。これは奇しくもデュシャンが裸婦の連続写真から受けたインパクトのもとに人体運動のイマジナリーをキャンバスに定着させた絵画《階段を降りる裸体 No.2》を制作したのとも同年にあたり、彼が生涯をかけてチェスがもたらす「プレイ中に思考されている、不可視の方向へと広がる、実際には指されなかった局面の総体」(中尾拓哉)にインスパイアされた芸術制作を追求していったこととの見事な照応があるからである。
そして、このような「実際には指されなかった局面の総体」を数学的にシミュレートしていく知の追求こそが、第二次世界大戦期のコンピューター技術やゲーム理論の発展を促進。そうした論理機械の性能を検証するためのテストベッド・アプリケーションとして、ニムや三目並べといった相互手番制の論理ゲームがコンピューターに導入されていくことから、ディスプレイ装置を盤面表示に使うインタラクティブなビデオゲームの原型が生まれていくことになる。
このことは、デュシャンの芸術に始まる現代アートがテクノロジーとの対峙によって「網膜的」なものから「頭脳的」なものへと向かったのとは逆に、テクノロジーの側は、純然たる「頭脳的」な産物としての論理処理のエレメントを複合させていくことで、人間の認知と情緒に作用する「網膜的」な芸術としての原初性を獲得していったのだとも言えるだろう。
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