【無料公開】落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき | PLANETS/第二次惑星開発委員会

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  • 2018.06.15
  • 落合陽一

【無料公開】落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』まえがき

本日発売となる、研究者・メディアアーティストの落合陽一さんの最新刊『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』(PLANETS)より、まえがきを無料公開します! テクノロジーによっていかに〈近代〉の枠組みが再構築されうるのか。落合さんの提唱する〈デジタルネイチャー〉を繙(ひもと)いていきます。

書籍情報


▲落合陽一『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化された計算機による侘と寂』6月15日発売!Amazon


▲【対談】落合陽一×宇野常寛 〈計算機自然〉はプラットフォームへの隷属を乗り越えうるかーー『デジタルネイチャー』刊行に寄せて 動画はこちらから。製作経緯や本書に込めた思いを落合さんが語ります。

まえがき

 2017年の秋口の深夜、スマートフォンが産声をあげて10年後の世界だ。
ハイビームを焚いて走行する車内から、窓の外を流れる景色を眺めている。夜霧の闇は深いが、水蒸気に照らされて散乱する光は、真昼のような明るさだ。エジソンが電灯を発明してから150年後の地表は、エネルギー変換効率の高い新光源【注1】の普及によって、昼夜を問わず可視光線に満ちた世界になった。
 フロントガラス越しの風景がどこか二次元的に感じられるのは、映像誕生以後の人類である僕が、窓越しの風景を画面越しのように認識しているためだ。光の届く距離が限られる霧の中、僕という個人の存在は可視光的に覆い隠されている。
 深い暗闇の中、曲がりくねった山道で、運転手は注意深くステアリングを切る。可視光が闇の中に切り拓いた領域が、上書きされては消えていく。カーブを曲がると、遠方の対向車のライトが届くのがわかる。あいかわらず視界は閉ざされているが、おそらく長い直線の中にいるのだろう。差し込んだ光の周囲に広がるのは、エッジの柔らかい散乱光だ。
静止しているようにも感じられるが、速度計によれば、確かに時速40㎞。淡い乳液のようなミー散乱【注2】の中を、僕は走っている。空間の至るところで発生する光の散乱は、ハイビームとその影による直線を空気中の水粒子に描き出し、色を持たないフォトン【注3】の影を黒色のビームのように錯覚させる。山中の冷ややかな空気の中、僕は可視光の海の中にいる。均一に濁った、それでいて波を感じないほどに穏やかな、さらさらとした海だ。
 運転手の身体は、ステアリングホイールを通じて機械に接続されている。ホイールを手足のように操り、ブレーキを踏み込んで減速、曲線的なコースへと車体を滑り込ませる。濃霧のもたらす散乱は視認距離をどこまでも短くするため、この曲がりくねった道路の先に何があるのか視覚からは確認できない。目的地までの道のりは、カーナビゲーションシステムとガイド音声だけが頼りだ。僕は今、GPS衛星から発信されたシグナルと、カーナビのデータベースを通して、乳白色の海の中にいる自分を見ている。可視光の散乱する海の中でも電波は常に届いている。
 霧に覆われた世界の中で考える。僕は今、感覚器の環境要因による機能不全を、電信系・外部記憶装置・モニターといったテクノロジーで補い、それを身体の一部のように感じながら進んでいる。その世界に手触りはなく、音と光の仮想的な情報から実在を感じ取っているに過ぎないが、カーナビに表示された電子の地図は、僕にとっての第二の山道であり、信じるに足る〈計数的な自然【注4】〉なのだ。その反面、本当の自然であるはずのフロントガラス越しの風景は、どこかリアリティに欠けている。それは僕が信じている〈計数的な自然〉を追認する二次情報、体感としての〈映像的なもの〉に過ぎない。
 今、僕の信頼は、静止軌道上の衛星から送られてくる情報とデータベースに託されている。この〈計数的な自然〉への信頼は無意識的だが、深く、そして疑いようがない。それは、肉眼では歩くことさえおぼつかない乳白色の霧の中、よどみなく車が走行している事実によって裏打ちされている。主観的な映像が意味をなさず、己の存在を客観的にしか把握できない暗黒と白色光の中に、僕の意識は浮遊している。
 山道の先にあるのは小さな宿場町だ。約2年ぶりとなる硬質なテーマの本の執筆が佳境に入ろうとしているが、そんなとき僕は、日常からかけ離れた場所に一定期間、篭もることにしている。3年前は熱海の人里離れた山奥の旅館で『魔法の世紀【参考1】』を脱稿した。日々の喧騒から切断された時間と空間に身を置いたときに感じられる、自分を遠くから眺めるような三人称的な感覚と主観的認識のギャップ。その狭間に思考を漂わせるのが、僕は好きだ。
すなわち〈計数的な自然〉─デジタルネイチャーへと没入した思考を、絶え間なくキーボードに打ち込む。モニターと網膜は結像関係にあり、指は思考を先取りして打鍵し、予測変換は知覚より先に次候補をサジェストする。機械と統合された身体は情報を生成しながら、同時に衛星軌道上から届く情報を頼りに、深い霧の中を突き進む。デジタルの自然がもたらす生態系の中で、僕の意識は一人称と三人称の間を往還し、身体は思考機械と移動機械を架橋している。
 〈自然〉と〈デジタル〉の融合。寂びたデジタルが行き着く〈新たな自然〉。それは東洋文明が育んだ感性を端緒としたイノベーションになるはずだ。唯一神を持たず、近代的な〈主体〉や〈個人〉の概念【注5】に囚われない古典から接続された東洋的エコシステム【注6】は、思考や情報のトランスフォームをさまざまな形で可能にする。その一例が、今まさに僕が置かれている状況だ。可視光が届かない深い霧と暗闇の淵にあっても、現在位置は常にスマートフォンアプリケーションによりクラウドに捕捉され、AirPodsは鼓膜と外界の間で僕の肉声をトレースしながら、「Hey Siri」のコールを待っている。人間の周囲にある「外在的な自然」と、筋肉や感覚器などの「内在的な自然」は、デジタル世界を間に挟むことによって、調和し完結している。
 視界の片隅で明滅しているスマートフォンとスマートウォッチは、いずれスマートグラスに置き換えられるだろう。そこでは視界のすべてを覆い尽くすフォトンの海を通じて、世界を認識することになる。
 遠からぬ未来、人類はフォトンと空気振動が媒介するネットワークへと接続される。それはイルカやクジラといった海洋哺乳類が、超音波による音響通信とエコーロケーション【注7】を、〈海〉の媒介によって可能にしているのと、よく似ている。そのとき人類【注8】は、視聴覚が完全に被覆された〈デジタルの自然〉へと至るのだ。
その先にあるのは、五感の被覆により、モノの実在感すらもデジタルで再現される世界、つまり物質性・空間性のコンピューテーショナルな相転移【注9】だ。データが〈モノの実在性〉の軛を超越し、情報体でも物体でもない〈幽体【注10】〉として、自由に変換される時代が訪れるだろう。

So gibt uns die Natur schon in ihrem materiellen Reich ein Vorspiel des Unbegrenzten und hebt hier schon zum Teil die Fesseln auf, deren sie sich im Reich der Form ganz und gar entledigt.【参考2

 18世紀の思想家であり詩人のフリードリヒ・フォン・シラー【注11】はその詩の中で、植物は余剰エネルギーを大地に還元するが、動物は余剰エネルギーを運動に転換することで、自然界の物質的束縛を断ち切り、より自由になるべく姿を変えていくと詠った。
 彼のいう「植物の余剰」と「動物の余剰」は、現代においては「機械の余剰」、つまり人工ニューラルネットワークによる神経系の構造の外在化【注12】と、そこから生み出されるリソースに置き換えられる。「計算機的余剰」から出現する〈新しい自然〉。シラーが植物と動物の比較によって〈自由〉を言祝いだように、そこでは生物と機械の対比によって見出される、新たな思想のあり方が問われている。フランス革命に端を発し、啓蒙主義者たちによって定義され、前世紀を通じて世界中に拡散された〈自由【注13】〉という概念。しかし、今我々が当たり前のものとして享受している〈自由〉は、本当にそう呼ぶに値するのか。それは、個人あるいは共同体の主観によって定義された不確かな根拠に過ぎないのではないか。古代以来の自由意志と決定論を巡る問題の解決をみないまま、自身の感覚器と記憶による判断と、センサーとデータベースに由来する計算機的判断の境界に立たされている今の人類に、それが〈意識的〉あるいは〈無意識的〉だとしてもそもそも〈自由〉などありえるのかという問いを歴史は繰り返していた。
 現在の社会で自明とされている〈人間【注14】〉〈社会【注15】〉〈幸福【注16】〉〈国家【注17】〉といった概念は、18世紀に西洋で確立された〈個人〉と、そこから敷衍された社会契約論や自然権に由来している。それから約200年、計算機時代の市場経済や、人類種の機能拡張を前提とした新しい思想は、未だに登場していない。

 近代に発明され、今もなお我々を束縛し続けている理念は、それを根底で規定している構造、つまり〈言語〉の制約【注18】を突破しない限り、アップデートは不可能だろう。言葉が本来的に備えている「情報の圧縮」や「フレーム化」といった機能を代替する、新しい理解のモデルが求められているのだ。End to End(エンド・トゥー・エンド【注19】)。末端から末端、現象から現象へ。言語を経由しない直接的変換によって、意味論の外部で現象を定義し、それを外在化する方法に辿り着かなければ、西洋形而上学の枠組みの中で、本質から疎外された言葉遊びを永遠に繰り返すことになるだろう。

 東洋文明では、言語を超越する認識のあり方を、長い歴史の中で発展させてきた。だが、西洋近代知に支配されたこの社会は、その非言語的な本質を言語的に定義しなければ批評性を得られない矛盾を生み出した。この〈言語〉という〈フレーム【注20】〉によるゲームは、不完全な解釈によって常に成立しえない可能性がある。
しかし、近年の計算機技術の発展は、言語を介在せずに現象を直接処理するシステムを実現しつつある。人工ニューラルネットによる事象の非言語的変換【注21】は、現象同士の直接的な関係性に基づいた統計的な情報処理手法による外在化が可能であることの、確かな手がかりの一つだ。
 この「非言語的直接変換システム」のパラダイムでは、東洋文明の古典の知見が、あたかも計算処理の繰り返しの末の自然的未来を予見していたように映る。
 4世紀頃、大乗仏教の一派として西域で成立した華厳経は、世界の認識のあり方(法界)を四段階に分ける。一般的な人間の世界である「事法界」、その背後にある原理(空)を捉えた「理法界」、原理と事象が自在に結びつく「理事無礙法界」、そして最終的な悟りが、事象と事象の直接的な関係からなる「事事無礙法界【注22】」だ。
 「理法界」や、その発展である「理事無礙法界」は、現象の根拠に特定の原理を想定する点において、近代西洋形而上学的な構造を持つ。ソシュール言語学におけるシニフィアン-シニフィエ【注23】の一対の関係に近いとも言えるだろう。それに対して、絶対的な悟りとされる「事事無礙法界」は、一つのシニフィアンに対して、複数のシニフィエが内包された構造を考える。一つの事象には世界の事象のすべてが織り込まれ、我々に見えるのはその顕現の一つに過ぎない【参考3】。
 この認識のあり方は、自然とデジタルの融和を指向する東洋的なコンピュータの発展モデルとして援用できる。つまり、言語(原理)によって世界を分節しうる「理事無礙法界」から、事象と事象のみが直接的に絡み合う(縁起する)「事事無礙法界」への転換である。奇しくも「End to End」を意味する述語だ。
 この次元の認識においては、西洋形而上学の二分法的な概念は超克されるだろう。デジタルとアナログ、人と機械、人為と自然、個人と全体といったフレームによる対立は無効化され、「一にして全、全にして一」の、ミクロとマクロが相互的に包摂される原理が実装を伴い全面化する。そこでは「隷属と自由」「枷からの解放」といった近代的な命題は意味をなさない。

昔者荘周夢為胡蝶。栩栩然胡蝶也。
自喩適志与。不知周也。俄然覚、則蘧蘧然周也。
不知、周之夢為胡蝶与、胡蝶之夢為周与。
周与胡蝶、則必有分矣。此之謂物化。

 紀元前4世紀に、中国の思想家である荘周(荘子【注24】)が著した『斉物論』は、「胡蝶の夢」のエピソードでよく知られている
 ある日、荘周は蝶になる夢を見た。眠りから覚めた荘周は、今の自分は蝶が見ている夢に過ぎないのではないかと考える。そして、蝶と自分の間には、姿は違えども本質的な区別はないとし、その主体を超越した転換のことを「物化【注25】」と呼んだ。
 百家争鳴と呼ばれる春秋戦国時代の活発な思想活動の中でも、荘周は儒家への苛烈な批判で知られている。儒家の言語による是非論、また、フレームの設定に対して、荘周は言語による世界の分割と相対化に基づいた認識のあり方を否定し、唯一絶対的な認識(天)への到達を説いた。世界の万象は言語によって仮構された見せかけに過ぎず、その深奥にはあらゆる差異を飲み込む普遍的本質がある。荘周はそれを「道」とし、道の顕現を「物化」と呼んだ。人が蝶の夢を見るのも、蝶が人の夢を見るのも、同じ本質(道)にある超越的な物事の現れ(物化【参考4】)に過ぎない。
 約2400年前に荘周が到達した言語を超越した世界認識は、今日、計算機の処理速度向上と統計的データ処理がもたらす自然化によって実装されつつある。そのカオティックな自然は、言語による定義を経ずに現象から本質を取り出すことに長けている。自然と不可分な人工的環境による、事象の「物化」への到達。それは、厳しい修行や極限的思考の末に到達する精神的な「悟り」ではなく、神経系を模した人工ニューラルネットによって、機械の内部に統計的に生成されつつある。そのガウシアンプロセス【注26】等による最適化は近年の統計的データ解析の為せる叡智の結晶だ。解析的アプローチによって記述されていたコンピュータサイエンスが、統計的アプローチとして動的な時空間フィルタ【注27】を形成するメタ手法を、深い階層性とデータ量によって獲得した。それは、複数の手法的亜種を生み出し、我々の世界理解をより深め、より分断し、より漂白し、より接続したと言えるのではないだろうか。
 我々の言語は、いうなれば言語を用いる人間という〈オートエンコーダー【注28】〉が集団的に生成する、現象の次元圧縮装置と解釈できる。それが世界を記述するシステムとして不完全であることが、人類が突き当たっている〈近代〉の限界の根本にあるが、東洋文明には、その不完全性を超越しうる直観が常に底流している。

古池や蛙飛びこむ水の音

 この芭蕉の有名な句を理解しようとするとき、我々は、わずか三つのエンドポイント─古池、蛙、水の音から、江戸の山水の世界観を想起している。寂れた山里の、色彩の消えた池に、突如として発生する水音。蛙の躍動感と色づく景観、その後にやってくる静けさ。主語を持たない非人称的な情景描写が、水音をきっかけに主体的な身体感覚へと引き戻される。全体性を内包した叙景から根源的知覚への飛躍。主観と客観の越境、一と全、全と一の相転移【注29】がもたらす視座の変換は、まさに枯野を駆け巡る夢のごとき流動的認識からなる芸術の方法論を示唆している。日本の俳諧が到達した、現象の言語的圧縮から全感覚的な体験を呼び起こそうとする技法は、近代西洋で発達した〈個人〉を前提とした写実主義や印象派とは明らかに異質だ。そこには、End to Endの間に張り巡らされた、自他の境界を超越した脱中心的な生物ニューラルネットの構造の共有自体を美徳として愛でる感性がある。
 ディープラーニング【注30】以降の機械学習【注31】の思想的イノベーションの本質は、意味論や認識論といった形而上的な領域には触れず、形而下の物理領域に限定した最適化やマッチング処理によって、問題の解決が図られるところにある。その根底にあるのは、生物の神経系の発達と相似のフレームワークであり、東洋的なエコシステムによって育まれた知性のあり方と高い親和性を持っている。我々が眼球を用いてアナログの光学処理(アナログ処理【注32】)を行い、網膜を用いて量子化(デジタル処理【注33】)を行った後、神経系の深い階層性によってそれをフィルタリングしていくことは、アナログな物質空間のホログラム記述の稠密性と、その前提となる量子化されたデジタル空間の解像度的な限界との間にある差異と同質だ。ここでいう量子化とは情報理論における量子化を意味する。それは情報理論や信号処理において、標本化で得られた離散時間信号【注34】をデジタルデータとして、アナログデータ(連続量)を離散的な値で近似的に表すことである。この両者は、解像度と演算方法の違い【注35】こそあれ、多くの共通項を持つ。これは、同様の視覚情報処理が行われ、それが演算コストに応じてアナログとデジタルの組み合わせによって解決されてきたことにも現れている。量子化以後は、計算機資源が潤沢ならば空間的な距離も時間的な距離も解像度の制約を受けないが、稠密なアナログ空間ではそれら二つは解像度制約によってシステムのサイズが決定されてしまう。その点で、東洋の自然に人為を内包するエコシステムはアナログとデジタルの調和、時間と空間の量子化と物質化の再帰的プロセスを標榜するのに適した言葉だと思う。
 生物はこの地球上に現れた最初の情報処理を行う量子化機械【注36】である。神経系を用いた演算のために、ある解像度で標本化や量子化を行うセンサーを持ち、生物ニューラルネットワークによるプログラムを内蔵した機械だ。DNAはデジタルデータを用いて記録され、量子化されたデータと「誤り証正機能【注37】」によってエラーを減らして次世代に情報が伝達される。その工程で編み出された複数の神経処理プロセスは、人類が生み出したケイ素型コンピュータ【注38】によって車輪の再発明的に繰り返されている。例えば統計的な深層学習は人とそのデータの量産が生んだ一つの典型である。
 深層学習の多くのアプリケーションは現段階では、視覚や聴覚、言語情報などの探索、つまり限定されたパラメータの自動最適化を試行しているに過ぎない。その一方で、デジタルが媒介する人間と世界との相互作用は既にあらゆる領域に及ぼうとしており、そこでは人工機械の不完全性を人間というコンピュータが補っている。
 霧の山道を突き進む僕たちは、データベースに蓄積された環境情報と、静止衛星によって補われた三人称視点の融合したマルチモーダルな相互作用のもと、世界を多層的に認識している。いずれ世界を構成するあらゆる物理現象が機械学習に取り込まれ、その莫大な計算量は、現在よりもはるかに自然化されたコンピュータ─フォトンの干渉や、ひいては量子ゲートを用いたハードウェアによって賄われるはずだ。その知性のリソースをフレーム内に閉塞させないために、我々はオープンソースという思想を生み出し、未来に資する情報をインターネット上に解放しようとしている。その恩恵は、いずれは人類全体が享受することになるだろう。

 思考を現実へと戻そう。
 僕は今、夜と霧の山道で、柔らかな光の中にいる。運転手は、フロントガラス越しの視界を頼りに、右へ左へとハンドルを動かしている。人間の網膜に映る光景は、カメラ的なパースペクティブの「映像」に過ぎず、遠方から差し込むライトも、それ自体はただの光としか知覚されない。しかし、僕も運転手も、上空から俯瞰した進路と、目の前に現れるであろう対向車を脳裏に思い描いている。この想像力は何に支えられているのだろうか。
我々は、目に見える情報だけでは、意思決定の半分も行えない。霧によって遮られた視界の不確かな部分、ヘッドライトの照射から外れた領域。それらを補うために、我々は身体の内部と外部のデータベースを参照し、全身の感覚器を相互的に作用させることで、そこから推定される世界を信じようとしている。ヘッドライトの光、GPSが示す地図データ、目的地の予備知識、耳に入る周囲の音、タイヤを通して伝わる振動、気圧の移り変わり、温度と湿度の変化。周囲のあらゆる情報を手がかりに、不確かな世界においてもその実在を確信すべく、無意識の領域であらん限りの想像力を働かせているのだ。
 遠からず実現するであろう、〈自然〉を〈デジタル〉によって調停し、然びた【参考5】デジタル計算機とそれに適応した人類によって人為と自然の融和を促すテクノロジー。その力を借りることによって僕たちは、より鮮明な世界への確信へと至るだろう。
 温泉宿まであと少し。夜と霧が明ける頃には、この原稿を書き終えられるだろうか。この本では、僕が見てきたさまざまな領域に及ぶ活動─計算機科学、応用物理、エンジニアリング、アート、デザイン、ビジネスを通じて実現させようとしている〈計数的な自然〉、デジタルネイチャーの世界観を描きながら、脱近代的視点がもたらす社会変化や、それを踏まえた提言、分析、思考を行っている。
 今、我々の感覚や思考のベースになっている言語や思考のフレームワークについて、新しい視座からの俯瞰を試みているこの本が、さらなる新たな視座を作ろうとする読者のお役に立てれば幸いである。そして、思考の立脚点を固め、その行動のための一助になることを願っている。

書籍に続く

注1 発光ダイオード(LED)や有機発光ダイオード(有機EL)などの照明技術のこと。1990年代の青色LEDの発明以降、照明機器として急速に広まった。主に半導体製造プロセスに則り製造される。
注2 微細な粒子によって発生する光の散乱現象のこと。雲や霧などの波長によらず白色散乱を起こす性質のこと。
注3 光子。光を構成する素粒子。粒子と波動の特徴を併せ持つ性質がある。近年コンピュータの業界でも光コンピュータの研究事例が増えている。
注4 高度に発達したコンピュータは、社会に偏在する段階(ユビキタス)を経て、自然と融合した新しい生態系として地球上を覆い尽くすことになるだろう。本書ではこのヴィジョンを〈計数的な自然〉または〈計算機的な自然〉あるいは〈デジタルネイチャー〉と呼ぶ。
注5 今日使われている「主体」や「個人」といった概念の成立は18世紀に遡る。1789年のフランス革命を端緒とする近代の黎明期、ルソーら啓蒙主義者たちが創出し定義したこれらの概念は、今日に至るまで自由主義や民主主義の根幹として機能している。
注6 西欧で発生した資本主義は産業革命を契機とする大量生産とそれに付随する消費社会を生み出したが、東洋文明では資源が循環するエコロジカルな経済圏を形成した。日本の江戸時代の社会構造や勤勉革命はその典型例。
注7 インターネットとワイヤレスネットワークによるヒト同士の通信は、海中でハクジラが行う音響信号を使ったコミュニケーションと極めてよく似たネットワークを構成しうる。
注8 本書では人類・人間・ヒト・人という言葉が頻出するが、「人類」は進化論的存在、「人間」は社会的存在、「ヒト」は生物学的存在、「人」は文化的存在、という意味で使い分けている。
注9 現在のコンピュータは、人間の視覚や聴覚といった部分的な感覚を低解像度で仮構する機能に留まっているが、将来的には触覚を含めた全感覚を代替し、物質それ自体の直接出力を行うことができるようになる。そのとき、人間は物質性や空間性の軛から解き放たれることになるだろう。
注10 肉体や記憶や人格の完全な仮想化によって、人間存在は時間や空間の障壁を超えて、あらゆる時空間に存在するようになる。この物質性の軛を超えた情報存在としての知能の形を、本書では〈幽体〉と呼ぶ。
注11 18世紀末に活躍した詩人、劇作家、思想家。ゲーテと並ぶドイツ古典主義を代表する作家であり、後の自由主義やロマン派の成立に大きな影響を与えた。ベートーヴェン交響曲第9番「歓喜の歌」の作詞者としても知られる。
注12 人工ニューラルネットワークとして知られる生物の神経細胞の構造を模倣した数理的モデル。1943年にウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツが発表した形式ニューロンから研究が始まり、2000年代に入ると多層ニューラルネットワークによる深層学習の登場で、時空間フィルタのような統計処理は人工ニューラルネットワーク上に外在化された。
注13 近代的〈自由〉の概念はフランス革命の「自由、平等、友愛」のスローガンを端緒とする。啓蒙主義時代にJ・S・ミルやジョン・ロックによって確立された自由主義は、今日では政治的・経済的に完全な自由を標榜するリバタニアリズムにまで拡張されているが、その定義や適用範囲については現在も議論が絶えない。
注14 〈人間〉はキリスト教世界においては長く「神の似姿」とされてきたが、17世紀以降、動物との対比から人間存在を科学的に定義する動きが広まり、19世紀のダーウィニズムへとつながる。一方、啓蒙主義時代には社会的人間は教育が生み出すという思想(ルソー『エミール』など)が確立され、近代以降の人間観に強い影響を及ぼしている。
注15 〈社会〉の成立条件は17世紀以降の近代思想の最も重要な思想的課題の一つであった。ロックやホッブズ、ルソーは文明以前の架空の自然状態を想定し社会が誕生する必然を説いたが、その影響は(例えば人権思想の根底に社会契約の概念があるように)今日の諸制度および人間の定義に深い影響を及ぼしている。
注16 近代の〈幸福〉観の画期は、19世紀の功利主義者ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」だろう。社会全体の〈幸福〉を、定量的に観測し増大させる思想は、その後、〈幸福〉の定義の困難に突き当たり、ロールズの「無知のヴェール」的な、不幸を最小化する社会思想へと転換し、近年でも議論が盛んに行われている。
注17 近代的な〈国家〉の起源は1648年のヴェストファーレン条約まで遡る。カトリックとプロテスタントの三十年戦争を調停したこの条約は、ローマ教皇が司る宗教的支配の終焉を告げ、〈国家〉の枠組みによる新たな国際秩序を西欧に成立させた。
注18 〈言語〉が人間と社会を根底で規定するという思想は、20世紀初頭にヴィトゲンシュタインによって見出され(「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」)、ハイデガーの「現存在」(『存在と時間』)による二項対立の突破へとつながる。以降、〈言語〉による認識論的な構造の読解とその境界を定義する試みは、現在の言語哲学や分析哲学にまで受け継がれている。
注19 機械学習では、入力―処理―出力のプロセスにおいて中間の処理の過程がブラックボックス化するため、人間が理解しうるのは入力と出力の両端のみとなる。この始端と末端が中間領域を飛躍して接続される関係性を本書ではEnd to Endと呼ぶ。
注20 〈フレーム〉とは、母集団からデータを切り出す行為そのものを指す。例えば、風景の中から画像を取り出すことや、レンジファインダーカメラで写真を撮ること。
注21 従来のコンピュータあるいは人間が、言語や数字、記号を通した事象の抽象化を通じて処理を行うのに対し、人工ニューラルネットの機械学習では、画像や音声といった、意味を持たない非言語的なインプットから、再び音声や画像などへの直接的な変換を行うところに大きな特徴がある。
注22 華厳経における世界認識の一つで悟りの境地。モノ同士が直接的な関係のもと自在に存在するあり方。ただし、ここに至るまでには、「実体は存在せず一切は空である」という認識の段階を経るとされ、般若心経の「色即是空」のさらに先にある認識論とも解釈できる
注23 シニフィアンは「意味するもの」、シニフィエは「意味されるもの」を指す。ソシュールは言語体系内部での両者の関係は恣意的であり、ある語(シニフィエ)とその意味内容(シニフィアン)の結びつきに必然性はないとした。
注24 古代中国の春秋時代に活躍した諸子百家のひとりで、無為自然によって万物の根源である「道」へと至る形而上学的な思想を説いた。その思想は後の道教や中国禅の成立に大きな影響を与えている。
注25 中国哲学の研究者・橋本敬司氏によると、道は「相対する存在物を必要とせずそれ自体で存在し全ての中心に位置する」とし、物化は「生死といった物の形態的変化のことではなく、道がそれぞれ物として現象化・顕在化すること」としている。道とは、確率過程や神経系によって決定される汎化の過程、バーチャルとフィジカルが行き来する様を意味する。
注26 ガウス過程。連続時間の中で正規分布(ガウス分布)が生成される確率過程のこと。機械学習ではモデルの平均値関数と共分散関数を元に、ガウス過程によって未知の観測値の予測を行うことができる
注27 動的な時間あるいは空間方向に関わるデータ列に関する演算方法のこと。
注28 言語のように次元を圧縮して、関係性をネットワーク化する変換プロセスという意味で本書では用いている。「現存在」(ハイデガー『存在と時間』)を定義せずとも、神経系を外在化することによって二項対立は突破できる。
注29 仏教用語で時間と空間を指し、部分に全体が含まれ、全体に部分が含まれること(西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』を参照)。日本の伝統的な詩歌文学の無常観の根源には、ミクロの現象を注視する個人的視座と、世界全体を認識する超越的視座が相転移する、独特の認識形態がある。
注30 深層学習とも呼ばれる。多層のニューラルネットワークによる機械学習の手法で、画像や音声の特徴量をネットワークの加重で学習することによって、高精度な認識を可能にする。この技術のブレイクスルーにより2010年代に第三次AIブームが勃興した。
注31 統計的プロセスによって対象の問題を解く手法および、対象のデータの生成をする手法のこと。
注32 人間の眼球の水晶体は、厚みを変化させることで光を屈折させ網膜へと像を結像している。これはカメラレンズのアナログ的な光学処理と全く同じだ。
注33 人間の網膜は、120万から150万個の視覚神経細胞によって、アナログの光学的な像を、オン/オフからなるデジタル的な情報に変換(量子化)し、視神経に伝達している。
注34 時間軸上で一定の間隔に分散された値を持つ信号のこと。例えば、動画はフレームの離散化と空間の離散化が同時に行われている。また、音声などの連続時間信号を、標本化(サンプリング)によって離散時間信号に置き換えることで、アナログからデジタルへの変換処理は行われている。
注35 4Kディスプレイの解像度は800万画素、8Kディスプレイは3000万画素だが、これ以上の空間解像度を人間の網膜は知覚できない。また、神経系の演算機能は多層ニューラルネットワークによって擬似的に再現されているが、大脳のような機能の完全な解明は未だなされていない。
注36 生物の神経細胞は、シナプスで化学物質が伝達されることで機能するが、そこでのシナプスの反応はオン/オフの二択に収斂される。これは0と1のデジタル化(量子化)によって論理機構を成立させるコンピュータや人工ニューラルネットワークの信号伝達とも相似の構造である。
注37 この文脈ではDNA修復系を指す。通常、誤り訂正機能は、TCP/IPなどのネットワーク通信で使われる言葉だが、生命の情報ストレージであるDNAにおいても同様の処理が行われている。DNAは複写ミスや紫外線などの外部要因により、1日1細胞あたり最大50万回程度の損傷が発生するが、DNA修復酵素などの働きによって自動修復されている。これはネットワークにおける通信エラー処理とよく似ている。
注38 ケイ素(シリコン)で構成されたコンピュータのこと。現在使われているコンピュータは、シリコンの半導体によって集積回路が作られていることから、このように呼ばれる。
注39 現時点で実現が見込まれている量子コンピュータの方式のうち、量子ゲート(量子回路)型とはアダマールゲート、回転ゲート、制御NOTゲートなどを用いて汎用的な計算を行う旧来式のモデルを指す。
注40 ソースコードを公開し、利用、改変、再配布を誰にでも自由に認めることでソフトウェアの発展を促す開発手法。90年代後半のフリーソフトウェア運動を端緒とし、2000年代以降はLinuxがサーバーOSとして成功。Firefox、Chrome、Androidなどが普及し、Arduinoをはじめとするオープンソースハードウェアが登場するなど、インターネット以降の開発パラダイムにおいて重要な意味を持つこととなった。

参考1 落合陽一『魔法の世紀』(PLANETS、2015年)
参考2 http://gutenberg.spiegel.de/buch/ueber-die-asthetische-erziehung-des-menschen-in-einer-reihe-von-briefen-3355/5閲覧日2018年5月6日)
参考3 井筒俊彦『コスモスとアンチコスモス東洋哲学のために』(岩波書店、1989年)
参考4 橋本敬司「荘子の胡蝶の夢|物化の構造と意味|」(1991年)http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/00026814(閲覧日2018年5月25日)
参考5 進士五十八「日本庭園におけるAgingの美と意味について」(1984年)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/48/5/48_5_73/_pdf

▼プロフィール
落合陽一(おちあい・よういち)

photo by TAKAY

1987生。2015年東京大学学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の短縮終了)、博士(学際情報学)。2015年より筑波大学図書館情報メディア系助教デジタルネイチャー研究室主宰。2015年Pixie Dust Technologies.incを起業しCEOとして勤務。2017年より筑波大学学長補佐、大阪芸術大学客員教授、デジタルハリウッド大学客員教授を兼務。2017年12月「デジタルネイチャー推進戦略研究基盤」を筑波大学内に設立し、筑波大学助教を退職、及び本基盤の代表/准教授として筑波大学に再就任し、現職。JST CREST xDiversity代表。専門はCG、HCI、VR、視・聴・触覚提示法、デジタルファブリケーション、自動運転や身体制御・多様化身体。研究論文は分野の最難関国際会議であるACM SIGGRAPHやACM UIST、CHIなどに採択されている。

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