宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.12.02
  • ドラえもん,稲田豊史

『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)第5回 ふたりのファム・ファタール 前編

本日お届けするのは『ドラがたり――10年代ドラえもん論』(稲田豊史)の第5回。今回からは「しずか」と「ジャイ子」という、ドラえもん作品内でも特異な立ち位置にいる2人の女性キャラクターに焦点を当てます。しずかに託されたセクシャリティ、そしてジャイ子だけが持つ「非『ドラえもん的』」な要素とは?


 

前回までは、3回分を費やしてのび太というキャラクター、および「のび太系男子」と呼ばれる3〜40代男性の精神構造上の難儀(生きづらさ)について述べた。今回は、『ドラえもん』に登場する代表的な2人の女子、しずかとジャイ子について考察してみたい。
なお、ファム・ファタール(仏:Femme fatale)の直訳は「運命の女」。宿命的な恋愛対象の女、もしくは男を破滅・堕落させる魔性の女のことを指す。新約聖書に登場するサロメ、キューブリック映画でおなじみのロリータ、谷崎潤一郎『痴人の愛』のナオミ、連合赤軍幹部の永田洋子、『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』のクェス・パラヤなどが代表的なタマである。

●しずかに託されたセクシャリティ

まずは、言わずと知れたのび太の将来の結婚相手にして『ドラえもん』世界のヒロイン、しずちゃんこと源静香(しずか)について考えよう。しずかはピアノ、バイオリン、テニスなどをたしなみ、ぬいぐるみが大好き。学校の成績は上々で、優等生の部類に入る。典型的な昭和マンガのアイコン的美少女であり、教室のマドンナ(死語)。のび太が惚れるのは無理もない。
しずかのパーソナリティとして一般的に最も知られているのは、無類の風呂好きであるということ。彼女は平日の日中から、浴槽にお湯を張ってきっちりバスタイムを確保する。推察するに、一日複数回の入浴は当たり前。のび太がどこでもドアで入浴中のしずかちゃんの前に現れてお湯をかけられるくだりは、吉本新喜劇並みのお約束だ。
風呂シーンの多さも手伝って、しずかは頻繁にヌード姿を描かれた。連載初期ではつるぺただった胸も、後期ではしっかり膨らんでいるばかりか、コマによってはハッキリと乳首も描画されている。児童向けマンガとしては不自然とも思える執拗な裸体描写は、『ドラえもん』という作品の特徴のひとつと言ってよい。

藤子・F・不二雄が著作中でセクシャルなモチーフやエロスを描写するのは、さして珍しいことではない。『ドラえもん』連載期間中(1969〜96年)に連載されていた『エスパー魔美』(1977〜83年)では、中学生の佐倉魔美が、画家である父親のモデルとしてたびたびフルヌードになっている。青年誌に数多く描かれたSF短編のなかでも、エロスやセックスをモチーフにした作品は枚挙に暇がない。
しかし、主に小学生を読者層とする『ドラえもん』で、小学生であるしずかがここまで裸体をダイレクトに描画されるのには、多少の違和感がある。『ドラえもん』世界のなかでは、しずか以外にセクシャルな要素を託されたキャラクターが存在しないので、なおさらだ。
ついでに言うなら、しずかのパンチラ描写もやたら多い。短編作ではもちろんのこと、大長編第5作『のび太の魔界大冒険』(1983〜84年連載、84年劇場公開)で、のび太がはじめて成功した魔法は「しずかのスカートめくり」だった。ここでは魔法が成功した感動を彼女の神々しいパンティによって表現するという、なかなか思い切った演出がなされている。しかも同作の最終ページ最終コマでも、しずかのスカートがめくれている。大長編のなかでも一、二を争う完成度を誇る『魔界大冒険』は、しずかのパンチラで物語が動き出し、しずかのパンチラで物語が結ばれるのだ。

「簡素な線で描かれたヌードやパンチラ程度で、何をそんなに大騒ぎを」と一笑に付すのはまだ早い。しずかの裸には時折、藤子・F・不二雄の「魔」が潜んでいるからだ。
てんコミ28巻「なぜか劇がメチャクチャに」は倒錯度の高い問題作だ。クラス会のグループ別演劇コンクールで、ジャイアン、スネ夫、しずかとともに劇をやることになったのび太は、ドラえもんに頼んで「オート・アクション・プロンプター」「きゃくほんカセット」「万能ぶたい装置」を出してもらう。要は、セリフや挙動を覚えなくても、体が勝手に動いて劇を演じさせてくれる道具だ。
ところが、オート・アクション・プロンプターが提案するどの演目も、「しずかの役が半裸もしくはヌードになる」という展開のものばかり。『人魚姫』では上半身が半裸、『ちびくろさんぼ』では服を一枚ずつ引き剥がされ、『はだかの王様』では仕立屋に騙されて裸で街を歩く、といった具合に。
最終的に、これなら大丈夫だろうということでグリム童話『星の金貨』に落ち着くのび太たち。「強制ボタン」を押し、途中でやめられない設定で劇がはじまるが、『星の金貨』も「貧しい少女が困った人にパンや衣服を分け与え、最終的には全裸になる」という展開だと判明してしまう。しかし時すでに遅し。強制ボタンのために劇をストップできないのだ。
劇が進み、残酷にも一枚ずつ服を脱がされていくしずか。泣きながら「やめてやめて」と懇願するも、機械には逆らえない。ついに最後の一枚の肌着を、貧者役ののび太に差し出す。全裸になったしずかは片手で胸を隠し、両膝をつき、涙を流しながらすすり声で「か、か、神さまのおめぐみが……」というセリフを言わされる。
目を疑うエロスの極み。「鬼畜」「陵辱」という言葉がふさわしい。藤子・F・不二雄のなかの悪魔が牙を剥いた瞬間である。

大長編『のび太のドラビアンナイト』(1990〜91年連載、91年劇場公開)では、しずかが『アラビアンナイト』の世界、すなわち8世紀末の中東で少女奴隷として奴隷商人に囚われる。手を鎖でつながれ、服(20世紀の服のまま)はボロボロ。靴はなく靴下で熱砂を歩かされるのだ。
そもそも「少女奴隷」の時点でかなりギリな展開だが、砂漠で奴隷商人から逃げ出したしずかが力尽きて倒れ、奴隷商人にいたぶられるシーンは完全に性的倒錯の産物である。以下は奴隷商人のセリフだ。

「ばかめ! わしから逃げられると思うのか!!」
「このムチはいたいぞ!! 皮がやぶれて血がふきだすんだぞ!」
「さ、いいなさい。『ご主人さま、二度と逃げたりしません』と……」
「強情者!! これでもか!!」

コマによっては威嚇のムチが唸りをあげている。いわば言葉責めの様相を呈しているわけだが、ここでは一連のしずかの表情に注目したい。お行儀のいい美少女が責め苦を味わい、気丈に諦めまいとするも、自身の無力に絶望し、うなだれる。SM官能小説のごとく、人間の嗜虐心をくすぐるエロスがここにある。もはや女子小学生の芝居ではない。

このような描写に倒錯的エロスを読み取るのは、意地の悪い深読みのしすぎではないかというお叱りも重々承知。しかし油断すればすぐに顔を出す藤子・F・不二雄の「魔」は、どうにも無視できない。
てんコミ26巻「魔女っ子しずちゃん」では、『魔法使いサリー』や『魔女っ子メグちゃん』に憧れるしずかが、空飛ぶほうきにまたがって人助けをする話だ。中盤、ほうきに乗ったしずかが突然空中から地上に降り、こんなことを言う。

「長い間のってるとどうも……。サリーちゃんもメグちゃんも、いたかったのかしら」

そのコマで、しずかは股間に手を当てている。大事なことなのでもう一度言おう。“しずかちゃんが、股間に手を当てている”。
正味10ページの短編で、このくだりに3コマ。果たして必要だっただろうか? いや、必要だったのだ。藤子・F・不二雄、否、藤本弘はどうしてもしずかに言わせたかった。股間に手を当てて、いたかったのかしら、と。

このように、しずかちゃんはオーソドックスな昭和マンガ的マドンナの地位を与えられていながら、作中において(性的に)けっこう弄ばれている。まるで、富山県高岡市での少年時代に内気ないじめられっ子だった藤本少年が、妄想の中でクラス一の美少女を弄ぶかのように。しかも、藤本が自己を投影したダメ男・のび太は、その美少女と将来結婚するのだから、たちが悪い。
筆者は本連載の第3回で、「のび太の欠陥人格や志の低さを『それもまた善し』とする作風は、藤子・F・不二雄自身による、つとめて独善的な自己肯定にほかならない」と述べた。それはのび太の思想の根幹をなす、自己変革努力なしの「果報は寝て待て」アティテュードとも直結する。ここで言う果報とはつまり「妄想で弄り倒した憧れの美少女と結ばれる未来」のことだ。字面にすると若干香ばしくはあるが。
無論、好きな女の子の裸を想像し、エロいシチュエーションを妄想するのは、思春期の男子なら誰でもやることだ。ただ藤子・F・不二雄は、それを30代半ばで連載をスタートした児童向けマンガの作中で実行した。それまでマンガ家として培った名声、作家として蓄積したあらゆるテクニックを総動員して、「かつて藤本少年が抱いた夢」をここに結実させた。それがしずかの乳首であり、官能小説的エロスであり、股間の痛みだ。
藤子・F・不二雄のマンガ家としての天才性は疑うべくもない。ただ、作風としてよく形容される「ピュアで夢いっぱいの少年性」は、このようなダークサイドも有している。『ドラえもん』、ひいてはF作品全般を考察するうえで、絶対に忘れてはならない側面だ。

●オンナノコとしてのしずかとFの女性観

さて、しずかが美少女ヒロインである一方、意外と性格が悪いのでは、という意見が(特に大人読者から)出ることも少なくない。主な根拠としては、以下のようなものが挙げられる。

①のび太を仲間外れにするジャイアンやスネ夫の側につく、もしくはジャイアンやスネ夫によるのび太いじめを黙認することがある
②のび太をバカにする言動がある
③同性の友人がいる気配がない。のび太ら男の子とばかり遊んでいる

①に関してはよく知られている。よくあるシチュエーションが、スネ夫が自分の玩具や別荘などを自慢し、「のび太には遊ばせない(連れて行かない)」と意地悪する場面で、しずかが何も言わずしれっとスネ夫の側につくというものだ。ただしこれには例外もあり、のび太を哀れに思って自ら参加を辞退することもある。
②については意外かもしれないが、いくつか描写がある。てんコミ2巻「テストにアンキパン」では、のび太を「クラスでいちばんわすれんぼのあんたが? ホホホ」と高らかに嘲笑。同35巻「しずちゃんとスイートホーム」では「勉強相手としては、のび太さんは適当じゃないのよね」とバッサリ。同41巻「時限バカ弾」では「出木杉さんがいいお話してるのに、ばかなこといって、じゃましないで」と容赦ない。
てんコミ39巻「ロビンソンクルーソーセット」でのしずかは、かなり嫌な女だ。公園の池でのび太とふたりきりでボートに乗って漂流(無論、ドラえもんの道具の作用)すると、漕ぎ手がのび太では頼りないとオールを奪って漕ぎだす。そして、自分で漕いだにもかかわらず、「どうしてこんなところへつれてきたの!!」と逆ギレするのだ。
道具の力によって出現した無人島に到着すると、のび太が「安心しなさい、ぼくがついてる」と言っているのに「だから心配なのよ」と突っ伏して絶望し、嗚咽。さらに、のび太がせっかく作った家を「風がふいたらつぶれそう」と入ろうとしない。「レジャーデートでいちいちわがままを言う面倒な女」の典型だ。
③は、小学校高学年の女子としてはたしかに異常だ。しずかはジャイアン、スネ夫、のび太、ドラえもんとばかりつるみ、同性の友達と遊ぶ描写が極端に少ない。2006年に刊行された藤子プロ公認の書籍『ドラえもん深読みガイド』(小学館)も、わざわざ2ページを割いて「しずちゃんは女ともだちがいない!?」という項目を立てている。
ただ、このことを「同性の友達が少ない可愛い子」と一般化し、「男ウケだけを狙うキラキラ女子」「男から姫扱いされたいサークルクラッシャー女子」といった現代若者パーソナリティに結びつけようと向きは――面白い思考実験ではあるが――さすがに牽強付会の感が否めない。
そもそも①〜③は、藤子・F・不二雄が“ある悪意をもって”しずかに設定したパーソナリティとは考えにくいだろう。
①は物語上、のび太を孤立させるためにしずかちゃんを無個性なモブ(群衆)のひとりとしただけだし、②ものび太の「勉強ができない」短所を第三者として強調する役回りをたまたま担わせただけだ。③も当然の話で、『ドラえもん』はのび太という小学生男子を中心としたコミュニティの物語であるからして、そこに女の子を登場させれば、必然的に男の子たちとつるむ頻度は高くなる。普通の女の子として同性と遊んでいる描写を、作中にわざわざバランスよく挟む必要もなかろう。

むしろ、藤子・F・不二雄がしずかのパーソナリティに込めたダークサイドは、別のところにあると考えたい。
格好のサンプルが、てんコミ28巻「しずちゃんの心の秘密」だ。ここでは、彼女が自分のパブリックイメージを戦略的にコントロールしているという衝撃の事実が判明した。
プロットはこうだ。しずかの誕生日プレゼントを思案するのび太が、「アンケーター」という道具にしずかの髪の毛を入れ、彼女の本心を探ろうとする。回答するのはモニタに映ったしずか。ただし、これは髪の毛の遺伝情報から生成された“バーチャルな擬似人格”である。

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