〈語りづらさ〉を現実とつなげるために 『LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版』監督・井上剛インタビュー(毎週金曜配信「週刊宇野常寛」) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2016.01.15
  • LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版,井上剛,宇野常寛

〈語りづらさ〉を現実とつなげるために 『LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版』監督・井上剛インタビュー(毎週金曜配信「週刊宇野常寛」)

毎週金曜は「週刊 宇野常寛」と題して、本誌編集長・宇野常寛本人による対談、インタビュー、講義録をお届けしていきます。
本日は1月公開の映画『LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版』の監督・井上剛さんへのインタビューです。『その街のこども』『あまちゃん』を経て、井上監督が突き当たった〈語りづらさ〉、そして〈見えないもの〉を通じて現実性の回復に至るフィクションの可能性を語り合いました。


▼作品紹介
LIVE!LOVE!SING! 生きて愛して歌うこと 劇場版
Pozc43HvWuq6rrwpY8XM-qpQmfUj-yM7Q1MZdYCV
(C)2015 NHK
配給:トランスフォーマー

神戸で女子高に通う朝海のもとに、故郷福島に留まる同級生・本気(マジ)から、立入制限区域内の母校の校庭に埋めた、タイムカプセルを掘りにいこうという誘いがくる。同じようにして集まった同級生たちと、ひょんなことから同行することになった教師・岡里は、一路福島を目指す。長い旅路の果てにたどり着いた地で、彼らは何を見て、何を感じるのか…。昨年3月に全国放送されたドラマに未公開シーン26分を追加し、兵庫と福島で限定的に放映された再編集バージョンが劇場公開される。
1月16日よりフォーラム福島、シネマート心斎橋、元町映画館にて先行公開、
同23日より東京シアター・イメージフォーラムほかにて順次全国ロードショー。

▼プロフィール
9p_rBcU8au6DUtmecKYCHMMAat3F7bZsKE7I08so
井上剛(いのうえ・つよし)
1993年にNHK入局。代表作に、劇場版も制作された『その街のこども』(10)、企画の立ち上げから関わり、チーフ演出を務めた連続テレビ小説『あまちゃん』(13)がある。その他にも、『クライマーズ・ハイ』(05)、『ハゲタカ』(07)、『てっぱん』(10)、『64(ロクヨン)』(15)など多くのテレビドラマで演出を担当する。

◎構成:橋本倫史、菊池俊輔

■ 『LIVE!LOVE!SING!~』を手掛けたきっかけ

宇野:井上監督の作品歴には『その街のこども』があって、『あまちゃん』があってそして本作『LIVE!LOVE!SING!~』があるという、奇しくも一つの流れができてしまっていると思うのですが。

井上:皆さんからそう言われるんですけど、最初から「震災を扱った作品をやろう」と取り組んでいるわけではなくて、どれも行きがかり上なんです。
本作の場合は、脚本を書いた一色伸幸さんからプロデューサーを経由して「やりませんか?」と話があった。僕が『あまちゃん』をやっていた頃、一色さんは宮城県女川町の臨時災害放送局を描いたドラマ『ラジオ』で、同じ東北を扱ったドラマを作ってたんです。それで、僕にとって盟友のような存在である大友良英さんは福島出身で、2011年には大友さんの活動が気になって取材してたんですよ。そういう流れで「福島に行ってみましょうか」ということになった。そのときに「20年前の神戸にあった歌と今の福島をつなげた物語ができないか」と一色さんが話していて、それが企画の発端になりました。
『その街のこども』は、京田光広さんというプロデューサーの影響です。その頃大阪にいて、震災を経験した局員が身の回りにたくさんいたことも大きかった。『あまちゃん』は宮藤官九郎さんがいたから撮れた作品ですし、『LIVE!LOVE!SING!~』も大友さんに背中を押されたところがある。
自分の中から出てきたテーマではないので、この3作品には特につながりはないのですが、いつも周りに後押ししてくれる人がなんとなくいるんです。それは自分でも不思議な感じですね。

宇野:反対に、震災を題材にした3作品を撮ったことで結果的に見えてきたものはありますか?

井上:見えてきたものはないんですが、「見ようとしなければならない」と思うようにはなりました。
それまでは身の回りのすごく狭い世界で生きていて、外の広い世界のことは、テレビやネットを通じて知ればそれで済んでいたんですが、「すぐ隣の人は、実は心に深い傷を負っているかもしれない」とか、「その人から見れば同じ世界でも実は全く違う風に見えているのではないか」といった、当たり前のことに気付くようになった。
福島は東京から200キロしか離れてないのに、まったく違う風景が広がっていて。同じ日本にいて同じように生きているはずなのに、見ないようにするというか、「ない」ものとして扱われている。
これは『その街のこども』を撮っているときにも感じていて、主演の森山未來君と「神戸で震災を経験した人は見ている世界が違うのではないか?」ってことをよく話したてたんです。
あのとき、周囲が真っ暗で映らないかもしれないと思いながら撮っていたシーンがあるんですが、そこで未來君がカッコいいことを言うんですよ。「大丈夫だよ、俺たちには”何か”が見えてるから」って(笑)。
そのときは必死だったので、「画面に映らなきゃ意味ないだろ」と思いながら撮ってましたが。ああいう言葉を聞くと、今見えてるものとは違う世界がパラレルにあるのかもしれないと思うようになりますね。もちろん、単に思っているだけだと概念でしかない。そうじゃなくて、見ようとしなければならないと思うようになりました。

■ 現実と乖離した〈語りづらさ〉をフックにする

宇野:観ようとしなければならない、と思ったときにロードムービーという手法を取られたわけですよね。同じように震災を経験した神戸の風景から始まって、東海道線を経由して関東の景色へと移り変わり、さらに北上して東北・福島へと至る。車窓からの風景を連続してみせることで、ふたつの被災地をつなぐという……。

井上:僕が訴えたかったのはその程度のことなんです。地続きであることの意味を、みんな想像していない。立ち入り制限区域になった時点で情報が途絶えて想像力も遮断されちゃうけど、地続きなんだから、行こうと思えば行ける場所に僕らはいるんです。東北地方で津波の被害に遭った街だって、誰でも行けるんですよ。
そこに下手に触らないようにしたい感覚も分かります。でも、こんな狭い国で触るも触らないもないよな、という感じが僕にはすごくある。

宇野:震災の直後は、その「触れない」「つながらない」感じにみんな焦っていたように思うんですね。
東京のメディアの人たちはものすごく焦っていたし、ジャーナリズムの人たちも一生懸命に語ろうとしていた。しかし、語れば語るほどデマや陰謀論も拡大するし、被災地を政治的、商業的に利用するための言論も増えて行く。そうやってどんどん断絶が深まっていくような無力感があったんです。
被災地を取材した報道や生々しい映像もたくさん流されましたが、それらを見れば見るほど自分たちとは断絶した異世界の出来事のように感じられてしまうジレンマがあって。これはフィクション・ノンフィクションに関わらず、メディアに携わる人たちは多かれ少なかれ感じていた感覚だと思います。
『LIVE!LOVE!SING!~』は、そうした現実との対決だったような気もするんです。生の現実と想像力の間の断絶を、いかにしてフィクションの力で回復するのかという。

井上:その問題は一色さんが特に強く感じていたような気がします。語れば語るほど、映せば映すほど広がっていく溝のようなものを意識していた。
バスが福島に入った瞬間、水島朝海役の石井杏奈ちゃんが「テレビと一緒だ」って言うシーンがあるんですが、ああいう言い方になる気持ちはよく分かるんですよ。自分の住んでいた街を、そう表現せざるをえないところに溝がある。メディアを通して見てきたものと、いま自分の目の前にあるものの間にある断絶を意識せざるをえない。

宇野:その語りづらさが、井上さんの作品ではフックになっている。本作はとくにそう。本来はつながっているはずなのに語りづらさを実感するもどかしさが、全篇を通じてすごく伝わってくる。逆に言えば、語りづらさ、つながらなさそのものをフックにするしかない。

井上:それはあるかもしれないですね。『その街のこども』や『LIVE!LOVE!SING!~』は最初はテレビドラマだったんですが、ドラマは何かっていうと冠をつけたがるんですよね。中で働く人たちに通りのいい冠が必要だから「震災ドラマ」って言っちゃうんだけど、それがすごく嫌で。そういうところからも語りづらさのジレンマは感じてました。
『その街のこども』のときに、脚本家の渡辺あやさんと僕が苦労したのは、神戸で「震災をテーマにしたドラマをやります」と言うと「やめてくれ」と言われるんです。それでも作らなきゃいけないってときに、NHKは「震災ドラマ」って名前を被せてくるんだけど、それでは何も解決しない。本当は自分たちで何か別の言葉や表現を作らなきゃいけないんですよね。
『その街のこども』では、本当は「語りづらさ」を描きたかったのに、「震災ドラマ」という冠が付くことで、通りのいい観念を植え付けることになってしまった。これについては「そんなつもりじゃなかった」という思いがあって、ずっともがいていたんです。だから劇場版になったことで、「震災ドラマ」という冠が外れてほっとした。「これならフラットに見てくれるかもしれない」と。

宇野:「震災ドラマ」と冠がついた瞬間、半分ファンタジーとしか受け取られなくなってしまうわけですね。

井上:関西地方では、1月17日になると、「阪神淡路大震災を忘れないで」というドキュメンタリーや報道が放送されて、関西の人々はそれを一日中観させられるんです。「もうあのタッチは嫌だ」と言う人もいる。もちろん、そうしたドキュメンタリーや報道を否定するつもりはないけれど、渡辺あやさんもプロデューサーの京田さんも、何とか別の表現方法を見い出そうともがいてました。
今思うと、そのときに戦っていたのは、「震災ドラマ」という言葉や、そういう風にしか届けられないテレビの「重さ」だったんですよね。「震災ドラマ」というだけで、「震災に関係があった人しか観ちゃいけません」、あるいは、「興味のある人しか観ちゃいけません」と言われているような気になってしまう。テレビはあらゆるものがフラットに流れるから面白かったのに、今はこちらが勝手に枠を付けてしまっている気がします。

■ ドキュメンタリー性とドラマ性の中間で

宇野:『その街のこども』は、フェイク・ドキュメンタリー的な手法を用いてアクロバティックな作り方をされていたと思います。それに対して『あまちゃん』は、朝ドラという枠組みの中で、現地ロケとスタジオドラマの言ってみればテレビドラマ然とした手法を最大限に活用して作られたファンタジーだった。『LIVE!LOVE!SING!~』は、そのハイブリットであるようにも感じます。『その街のこども』ほどドキュメンタリー風の作り方ではないけど、『あまちゃん』ほどドラマっぽくもない。

井上:『その街のこども』でアクロバティックなことができたのは、森山未來君や佐藤江梨子ちゃんがいたからですよね。実際に震災に遭っているので当時のことを知っている。だからこそ演じることもできるし、逆に素の感じでも行ける。そこで「これはどう観たらいいんだ?」って作り方をすることに興味があったんです。現実と虚構の間の溝がないかのように撮りたい。僕自身にもそういう溝があって、それを乗り越えるために、ドラマでもドキュメントでもない手法を選んだところはあります。
『あまちゃん』は朝ドラなので、まずは楽しくないといけない。それが現実とシンクロしていく部分で、作り込んだ方が良さが出るし、面白いと思ったんですよね。

本作の場合、出演する子供たちは全員東京より北に行ったことがないんです。前田航基君にしても他の子にしても、本当は東北がどうなっているのか知りたいけど、「聞いていいんですか?」っていう感覚がある。大人が作ったメディアの何とも言えない雰囲気の影響を一番受けている子供たちが、今何を感じているのか、どう見えているのかが一番知りたかった。
それで、撮影に入る前にリハーサル室で、わざと「東北をイメージして」って伝えて演じさせてみたんです。彼らは東北に行ったことがないから、イメージできるわけないんだけど。そうすると「演技」しちゃうんですよ。児童学団みたいなヘタな芝居で。その何とも言えない嘘くささが面白くて。彼らを鍛え上げてから東北で撮影することもできるけど、その嘘くささを払拭せずに撮る方法はないかと考えたんです。だから一番格闘したのは彼らです。東北のことを何も知らないがゆえに、目の前に見えているものを手掛かりに台本を乗り越えないといけない。
たとえば、台本に「ここに立つとなんかきれいだね」という台詞があれば、周囲にあるきれいなものを探すんです。何を見たら「きれい」と言えるか、反対に何を見つけたら「怖い」と言えるか。それは自分たちで探さないといけない。「僕たちは助けられないよ」って言いながら撮影しました。そこは作っている部分でもあるし、素になっている部分でもある。ドラマは再現がきかないんです。子供たちの感情はそのときの1回しかない。だから、撮り方は『その街のこども』に似てるけど、やっている人間が違う以上、アプローチも違っています。今回はカメラの横から相当いろいろ言ってますね。

宇野:森山さんはそれこそ10年前の風景が見えていたんだけど、『LIVE!LOVE!SING!~』の子達は初めて見る風景だから。

井上:『その街』とは全くの真逆で、『LIVE!LOVE!SING!~』は昼間で『その街』は真夜中なんですよね。

■ 神戸の歌に辿り着くための「ギグつもり」

宇野:今回の一色さんの脚本は、前作の『ラジオ』に比べてもずいぶんとアイロニカルですよね。冒頭に神戸の震災のときに作られた「しあわせ運べるように」という、まあ言ってみればありがちな「震災ソング」が出てきて、それをどこか偽善的で薄ら寒いと思ってしまう視聴者の気持ちをヒロインが代弁する。そしてあの歌の意味というか偽善性を反転させるために、福島まで行く必要があった、という物語になっているわけですよね。そこでターニングポイントになるのが、夢の中のお祭りで歌う「ギグつもり」というアイロニーに満ちた歌だという。

井上:あの祭りのシーンは最初はなかったんです。最初シノプシスに「朝海は『しあわせ運べるように』を歌いたくないと思っている」と書かれていて、僕自身も、あの歌を先生が作って子供に歌わせるということに、ちょっと引いた部分があったんです。優等生っぽい歌に聞こえてしまって。
それは歌の出自や背景を知らなかったからなんですけど、それが分かっていくうちに、これが神戸の人たちにとってすごく大切な歌だとすれば、それを神戸と全然関係ない子が「これからここに住みます」と正直に歌えるようになるには、何かを反転させるシーンが必要だと感じていました。
これもきっかけになったのは一色さんで、一緒に福島に滞在して、立ち入り制限区域に何度も出たり入ったりしていると、だんだん線引きがあいまいになってくるんですよね。「ここまでは店が営業していて、ここからは人が住んじゃいけないというのは、どこで線引されているんだ?」って。そのうちに15時になると、映画の中のシーンにもありますが、「スクリーニングを受けて、制限区域から出て行ってください」と言われる。
それを毎日繰り返しているうちに、僕らの感覚もおかしくなってきて、一色さんが「夜になるとまた人が戻ってきて、どんちゃん騒ぎしてたら面白いね」と皮肉交じりの冗談で言ってたんですが、そのうち一色さんも辛くなってきたのか、「なんだかよくわからない世界だなぁ!」って叫ばれて。「その辛くなってくる訳わかんない感じでワンシーン作ってください」とお願いしたら、歌が出てきて、それで「ギグつもり」のシーンが出来たんです。
「つもり」って、現実なのか嘘なのか、悪なのか善なのかもよくわからない、日本っぽい非常にあいまいな言葉ですよね。実際に立ち入り制限区域の線引きってすごく曖昧なんですよ。半径何キロって言いますけど、放射能が円状に広がっているわけがなくて。風向きによって歪な形になっているはずですよね。そういう何だかよく分からないモヤモヤした嫌な感じと、その一方で、日本的なあいまいさで居心地のいい感じの両方がある。それを「つもり」という言葉に象徴させています。
祭りの中に彼女たちを飛び込ませると何が見えるのか。そこを潜りぬけた先で「しあわせ運べるように」を歌うとどうなるのか、それが見たかった。アイロニカルというよりも、僕らが少しおかしくなっていたことが反映されたんじゃないかと思います。

宇野:あそこは『LIVE!LOVE!SING!~』のフィクションとしての力をいちばん感じたところですね。やはりファンタジーの領域というか、目に映らない世界を見るという体験がないと最後の最後でこの圧倒的な距離は埋まらないわけですよね。

井上:目に映らない景色が必要でしたね。でも、ああいうシーンは、脚本に書くのも大変なら、実際にやるのもまた勇気がいるんですよ。「これしくじったらどうするんだ?」みたいな。皆川猿時さんじゃないと成立しなかったと思いますし、制作部や美術のスタッフもすごく頑張ってくれました。
あのときは、人が入っちゃいけない地域に400人のエキストラを送迎バスで連れてきて撮ったんですが、実際に地元に住んでいる人たちに出演してもらったんです。スタッフが何ヶ月も滞在して飲み歩いて、地域の人に信用してもらって。
だから、震災後初めて隣近所だった人と再会したという人もいて、「戻って来られた」とも違うんだけど、妙にハイテンションな中での撮影になりました。祭り自体は擬似的なものだけど、あの町で行われていた「馬追い」だとか、そういうお祭りの習慣を自然発生的にやり始めるんですよね。それに触発された高校生たちもワーッと飛び跳ねて……。もちろん制限区域なので限られた時間しか滞在できないんですけど、その範囲内で目一杯やりましたね。

宇野:あのシーンは『あまちゃん』に対する自己批評を感じました。これはドラマの宿命ですけど、放送期間中がある意味「お祭り」じゃないですか。当然その限界もあるんだけど、逆にああいったものを通じてしかつながれない部分もある。

井上:人のエネルギーですよね。『あまちゃん』で岩手県の久慈に行ったとき、撮影が進むにつれて少しずつ現地の人と仲良くなって、エキストラも最初は誰も集まってくれなかったのが、だんだんと増えてきた。現地の人たちが自分たちで盛り上げていく感じがあったんです。やっぱり人からエネルギーをもらうと、そのことでシーンが変化したり、全く違う意味を帯びたりするんです。あれを一回身体で経験してるから、祭りとか入れたくなるんですよね。
大友さんがよく言っていたのは、「震災後、音楽に何ができるのか?」ということで。大友さんは今までやったこともない「音頭」をやったりして、「人が集まったら何か生まれるから、人が集まったところから考えよう」って活動をされているんです。そういうことをやれるようになったし、やる必要が出てきたのかもしれない。

宇野:『あまちゃん』も舞台となった地域のすごく広い空間をバーチャルに再構成していましたよね。たとえば駅前と灯台は離れた場所なのに、ご近所のように演出されていた。あのほんとうはバラバラのものがさもひとつであるかのようなファンタジーはすごく有効に機能したと思います。でも、『LIVE!LOVE!SING!~』は、それとは違って、遠く離れているけれど実はつながっている、その遠さというか距離感そのものを見せようとしていた気がすしますね。

井上:そうですね、移動している感覚と時間を体感してもらいたいというのが、一番作りながら思っていたことですね。誰がどういう場所で観るかによって変わってくるとは思うんですけど、観終わったあとに外に出て、今自分がいる風景の中で何かを感じてくれるといいなと思っています。

宇野:本当に今日はお忙しい中ありがとうございました。

(了)

関連記事・動画