『魔法の世紀』まえがき / 全文無料公開 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.11.27
  • 落合陽一,魔法の世紀

『魔法の世紀』まえがき / 全文無料公開

本メルマガで配信されていた落合陽一さんの連載に、大幅な加筆と編集を加えた単行本『魔法の世紀』が、本日11/27に発売されます。画面によって人々が繋がる「映像の世紀」は終わりを告げ、偏在するコンピュータが人と自然を取り持つ「魔法の世紀」が訪れる。テクノロジーとアートを駆使する〈現代の魔法使い〉が予見する、21世紀におけるメディア史の決定的な転換とは? 今日のメルマガは『魔法の世紀』の刊行を記念して、単行本の「まえがき」を無料配信します。


まえがき

「映像の世紀」から「魔法の世紀」へ
 人類が「映像」を本格的に手にしたのは、エジソンがキネトスコープを発明した19世紀末のことでした。馬などの絵を高速で回転させて動いたように見せる、古くからあるカラクリ器具「ゾートロープ」に写真を組み合わせた技術は、その4年後にリュミエール兄弟によってシネマトグラフへと発展しました。
 キネトスコープとシネマトグラフの最大の違いは、キネトスコープが「一人の人間が穴を覗き込んで映像を見る」装置だったのに対して、シネマトグラフが「複数の人間が壁に映された映像を共有して見る」装置だったことです。今から見れば貧弱な映像ですが、その光景を見たロシアの文豪マクシム・ゴーリキーは、1896年の記録の中で、この発明のためのコンテンツが作られ市場で使われるであろうこと、映像という体験が極めて複雑で精神的な影響があるものだということを述べています。そして、まさにゴーリキーの記録は、すぐ目の前に迫っていた世紀を予見するものでした。
 そう、 20世紀は「映像の世紀」でした。
 映像はフィルム技術、映写技術、通信技術という分野横断的なテクノロジーの数多の進歩によって発展してきた歴史を持っています。
それは同時に、20世紀が「映像」を通して時間と空間、人間同士のコミュニケーション、イメージの伝達方法、コンピュータのインターフェース、虚構と現実の関係などを考えていた時代であったことも意味しています。「映像」がなければ、人類社会はまるで別の形をしていたはずです。
 20世紀の人間は、「映像」によって物事を大量の人間の間で共有することの威力に、すぐに気づきます。と、同時に、これを社会的に利用しようと考える人も現れます。
 例えば、ナチス総統アドルフ・ヒットラーがわかりやすい例です。彼は群衆の統治の手段として「文字」を信じていないことを、『わが闘争』で述べています。代わりに彼は「映像」や「音声」によって、国民に自らの思想や権威を共有させました。それがとてつもない効果を発揮したのは、皆さんも知っての通りです。人間は映像の力を借りると、離れた場所にいる他人と恣意的な認識をいとも簡単に共有できることが、わかってしまったのです。
 例えば、ナチス政権下のドイツが開催したベルリン・オリンピックでは、世界で初めてオリンピックの光景が映画に記録されました。ドイツの威信をかけた開会式の荘厳な演出の映像は、世界中の映画館で上映されました。もちろん、ナチスのその後は皆さんの知っての通りですが、彼らの勢力拡大に映像の威力が寄与していたのは疑いありません。映像は国民国家の統治手段として有効であることが示されたのです。
 NHKの有名なドキュメンタリーに『映像の世紀』というものがありますが、まさに20世紀はあらゆる意味において「映像の世紀」だったのです。
 ハリウッド映画は20世紀を通して、キリスト教やイスラーム教などの世界宗教以来の、グローバルに共有されるコンテクストになりました。また、ロサンゼルス・オリンピック以降、オリンピックの興行は映像と強く結びついて発展してきました。そして20世紀後半には、各家庭に映像を配信するテレビの世界的普及を経て、映像は人々の意識を共有する手段としてますます強い力を持つことになりました。

魔法の世紀の根本理念はコンピュータである

 僕がこの本で書こうとしているのは、そんな「映像の世紀」としての20世紀の次に訪れる、21世紀の社会についてです。目を凝らせば、これから起きる転換がどんなものかが見え始めています。僕はそれを「魔法の世紀」と呼んでいます。
 転換が始まったのは、まさに「映像の世紀」のまっただ中でした。発端は、ヒットラーが引き起こした第二次世界大戦の最中に発明され、やがてハリウッド映画のCG制作に欠かせない存在にもなった「魔法の箱」――コンピュータの登場によるものです。
 当初、コンピュータは暗号解読や弾道計算の装置として利用されていましたが、やがてテレビのようなディスプレイがついた一種のメディア装置として商品化され、一気に普及していきます。それはまさに「映像の世紀」にふさわしい、ディスプレイで扱える「平面上の表現」を作り出す優れた道具だったのです。
 ところが、インターネットの登場以降、コンピュータは「映像の世紀」にはそぐわない方向に社会を動かし始めています。
 例えば、私たちがスマートフォンでTwitterを見るとき、一つのタイムラインを共有していません。同じイメージを映し出して全員で共有する映画やテレビとは違って、各々がバラバラのディスプレイを眺めているのです。また、映画館で映像と向き合っているとき、私たちは孤独に沈黙して、イメージと一対一で向き合っています。しかし、Twitterでは双方向的に、好きなだけ相手に話しかけられます。このN対Nとでも言うべき、インタラクティブなネットワーク構造によるソーシャルな繋がりは、映像の共有によって維持される社会とは異なるロジックで人と人を結びつけています。僕の考える21世紀は、人間や物事が20世紀的映像文化に象徴される ような中間物を媒介せずに、コンピュータによって直接繋がる時代なのです。
 では、この新しい時代を支える新しい技術のことを、僕はなぜ「魔法」と呼ぶのでしょうか。
 社会学者のマックス・ヴェーバーは、かつて「脱魔術化」という言葉で、社会に科学が浸透していく過程を表現したことがあります。例えば、細菌の存在を発見したパスツール以前の時代から、人々は缶詰や瓶詰を作る際に食材を火で炙ったり茹でたりしていました。しかし、その理由は「炎が穢れを浄化するから」という、現代の自然科学の考え方からすると魔術的、迷信的なものでした。近代科学がこういった古い世界認識を変えていった過程は、改めて説明するまでもないでしょう。
 ところが、現代社会の仕組みはあまりに複雑で難しくなっています。原子力発電はなぜ可能なのか、インターネットの仕組みはどうなっているのか、マクドナルドのあの安価な商品はなぜ提供可能なのか――こういった社会を成立させる基本的な仕組みがよくわからないまま、人々は社会活動を行っています。
 こうした社会の変化は、アメリカの社会批評家モリス・バーマンの著作『The Reenchantment of the Worl(世界の再魔術化)』の中で、「脱魔術化」に対応する「再魔術化」という言葉で定義されています。「脱魔術化」に関してはパオロ・ロッシの『魔術から科学』が詳しいですが、本書ではバーマンの「再魔術化」がユビキタスコンピュータの社会普及に伴い、より本格的に進行していることを指摘し、今後の世界についてできるだけ具体例を挙げながら記述することを目標にしています。今、テクノロジーは私たちの行動の幅を広げる方向に発達しているにもかかわらず、その仕組みはまるで魔法のように、ますますわかりにくくなっているのです。
 何よりも重要なのは、内部のテクノロジーの仕組みを理解しなくても、コンピュータは簡単に使えてしまうということです。むしろ、そうでなければ実社会で広く普及することはないでしょう。内部のテクノロジーが意識されないまま、それどころか究極的には、装置の存在そのものが意識されなくなったときに初めて、テクノロジーは社会や我々人間それ自体を変えるようになるはずです。
「映像の世紀」のまっただ中の1973年に、SF作家アーサー・C・クラークは、「充分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない」という有名な言葉を残しました。魔法とテクノロジーについて考えたときに皆さんが最初に思い浮かべるのは、この言葉ではないでしょうか。
 研究者やエンジニアたちは、世の中に文字通りの「魔法」なんて存在しない、最初からあり得ないものと思い込んでいます。だからこそ、彼らはこの表現に巧妙さを見いだすのでしょう。しかし、僕はこの言葉を、単なるレトリック以上の可能性として捉えています。つまり、つまり、人々が存在を意識しないほど高度な技術は、文字通りの「魔法」になりうるのではないか、ということを示唆している、と。
 僕は「再魔術化」の果てにあるのは、まさにクラークが遺したこの言葉が実現した世界だろうと考えています。
 実は、クラークが描いた「魔法と区別がつかないような技術」の実現は、既に始まっています。彼は、20世紀の映画を代表するS・キューブリックの名作『2001年宇宙の旅』の原作者として有名ですが、あの映像に我々がかいま見た表現は、おそらく21世紀にはこの現実世界でも実現するでしょう。
 例えば、『2001年宇宙の旅』では、無重力の宇宙船の中で物体が宙に浮く映像が特殊撮影で表現されていますが、それを重力下で実現するための研究は実際に進んでいます。他ならぬ僕自身が、その研究者の一人です。
 写真1は、僕が2014年に発表した『Pixie Dust』という装置です。これは一言で言うと、音波で物体を浮遊させて操る装置です。

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▲写真1―Pixie Dust

 超音波によって定常波を作り、そこに物質を閉じ込めることで、物体を浮遊させています。超音波焦点の位置を変えることで、3次元上での操作も可能になっており、移動させたり形を変えたりすることもできます。これをYouTubeにアップロードしたところ、国内外のメディアから取材が殺到しました。近年の研究レベルでのテクノロジーは、こんなことを可能にし始めているのです。
 また、写真2は2015年に発表した『Fairy Lights in Femtoseconds』です。これは空中に輝点を生み出して、実際に触れるようにした装置です。

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▲写真2―Fairy Lights in Femtoseconds

 空気分子をプラズマ化していて、空中に光で3次元の像を描くことができます。面白いのは、発振時間のごく短いフェムト秒レーザーを用いているので、超高温のプラズマを指で触っても皮膚にほぼダメージがないことです。「プラズマの触り心地」という奇妙な体験を味わうことができます。
 これらはいずれも3次元空間における「紙」や「スクリーン」に当たります。まるで絵画や映画を作るようにして、リアル世界の物体を自在に表現できるようにするための装置です。
 しかし、なぜこんな「魔法」が実現しているのでしょうか。それは一つの道具の存在によるものです。前世紀に戦争の道具として発明され、人類の知的生産からコミュニケーションに至るまで、広範囲に革命を引き起こし、映像の中に魔法のような表現としてのグラフィクスを差し挟むことを可能にした「魔法の箱」――そう、コンピュータです。
 そしてコンピュータ技術の発展を牽引したシリコンバレーのギークたちは、まさにクラークが代表する20世紀のSF黄金期とその後のニューウェィブの強い影響下にある子供たちでした。そんな彼らがコンピュータを手にしたときに、かつてのSFで描かれていた「魔法」をこの世界に実現し始めたのです。そう、「魔法の世紀」において、その魔法の素(マナ)となるのは、まさしくコンピュータなのです。
 現在のコンピュータ開発の流れは、立体物をコピーする3Dプリンタ技術など、もはやディスプレイの内側だけではなく、その外側へと「染み出し」つつあります。物質が瞬く間にコピーされ、生成される。まるでこの世界自体がファンタジーになりうるような時代です。「魔法の世紀」とは、「映像の世紀」においてイメージの中で起こっていた出来事が、物質の世界へ踏み出して行く時代なのです。
 前世紀の1985年、ジャロン・ラニアーがVPLリサーチ社を起し、先進的な研究でバーチャルリアリティという言葉を一気に広めていきました。Virtual(実質上の)という言葉は我々の現実の定義を再考するきっかけを与え、「現実とは何か」という問題をテクノロジーによって現前させました。1990年になるとボーイングの技術者だったトム・コーデルによって「拡張現実(AR)」という新しい言葉がさらに定義され、コンピュータ技術を用いて、我々の対峙する現実にどうやって情報技術の恩恵を付与していくのかというパラダイムも生まれました。広義には、スマホ、コンピュータ、ウェアラブル、すべてのIT機器によって我々は拡張現実の世界を生きているようなものです。
 この本は、VRやARの成立以前まで振り返り、コンピュータの世紀である「魔法の世紀」とは何かを、様々な観点から書いた本です。我々を「逃れられない一様の現実」という視点から自由にするには、コンピュータの黎明期に何があったのか、我々はメディアをどう誕生させてきて、これからどうなっていくのかを、VRやARが浸透する以前まで遡って考えていく必要があると考えました。
 現状把握と未来へ。未来という意味では、この本は僕のもう一つの顔である、メディアアーティストそして研究者としてのマニフェストでもあります。
 両親は、僕が生まれたときに、電気の「+」と「-」から「陽一」という名前をつけたそうです。その影響からか、子供の頃から理科が好きで、一人で行う簡単な実験に没頭したり、大学の研究室に遊びに行ったりしながら育ってきたのですが、その一方でアートにも強く惹かれ、学生の頃からメディアアートの分野で作品を発表してきました。現在の僕は筑波大学に所属する研究者であると同時に、メディアアーティストとしても活動しています。
 しかし、僕はこの二足のわらじを履く中で、一つの悩みを抱えてきました。それは、自分という人間を語る「軸」はどこにあるのかという悩みです。僕の中で、研究と表現は不可分のものです。しかし、そのことを他人に説明する言葉を、なかなか見つけることができませんでした。単に自分の各々の研究を説明するだけならば、あるいは自分の作品のコンセプトを解説するだけならば簡単です。ところが、その二つがどう結びついているのかを説明することは、困難なのです。
 あるときから、僕はこの問題を解決するためには、技術と芸術の両方――つまり、ラテン語の〝Ars”の現代的なあり方を表現するメタな視点が必要ではないかと考えるようになりました。しかもそれは、アートと技術を包括するものでありながら、どちらとも異質である必要があります。それこそが、この「魔法」という概念であり、そして「魔法の世紀」というパラダイムなのです。
 これは僕自身のあり方を説明する言葉であるのと同時に、僕たちの生きる21世紀の世界を象徴するキーワードでもあります。僕が、「研究者」と「アーティスト」という二つの立場を往復しながら身につけた科学、哲学、美学についての理解は、作品や研究を作る上で欠かせないものとなっています。そして、それを共有することはマーケティングやデザインまで様々な人々にとっても有益であるはずです。
 僕自身はコンピュータの研究者としても表現者としても、まだ駆け出しですが、それでも、今ここから見える未来には必ず価値があると信じています。今の日本や世界には「あれがない、これがない」もしくは「もう満ち足りた」という言葉が溢れていますが、そんな「前世紀のパラダイムを超えられない成熟社会」になってしまった日本や世界に向けて、大いなる希望を持って書き記していくつもりです。
 20世紀が「映像の世紀」なら、21世紀は「魔法の世紀」。
 あらゆる虚構、リアル/バーチャルの対比を飛び越えて、僕ら自身が魔法使いや超人になる世界。虚構は一つの現実に吸収され、この世界自体が物語になっていく。
 知的好奇心がサステーナブルな希望を実現し、コンピュータが自然と人工物とをとりなして新たな自然観を開いていく。その中で人間はより人間らしく、幸福に生きていく。
 そんな世紀に向けて静かに動きだしているこの世界を、僕の視点から語っていきたいと思います。

(この続きは、本日発売の『魔法の世紀』で!)