宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.07.13
  • 宇野常寛,張イクマン,福嶋亮大,辺境の思想

【対談】福嶋亮大×張イクマン 〈都市〉はナショナリズムを超克しうるかーー「辺境の思想」から考える(前編)

6月1日に『辺境の思想 日本と香港から考える』を共著で上梓した、福嶋亮大さんと張イクマンさんの対談をお届けします。日本と香港は歴史上、西欧や中国の「辺境」にあり、それは文化的・経済的な強みでもありました。東日本大震災(2011年)と雨傘運動(2014年)以降の、「二つの辺境」の思想状況を考えます。(構成:佐藤賢二)

書誌情報
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『辺境の思想 日本と香港から考える』Amazon
頼れる確かなものが失われた中心なき世界。自由と民主が揺らぐカオスな時代。未来への道は辺境にある―。日本と香港。2つの辺境で交わされた往復書簡の記録。

政治なき時代のカギは「国ではなく都市単位」の視点

宇野 今回は『辺境の思想 日本と香港から考える』が無事に刊行されたことを記念して、著者のお二人にお話を聞きたいと思います。これは東京に住んでいる福嶋さんと、香港に住んでいる張さんの往復書簡という形で、2016年の後半から2018年の1月ごろまでの連載をまとめたものです。
この1年余りでは日本は、安倍政権で森友・加計問題や公文書のずさんな管理が注目を集め、安定政権であることが唯一のアドバンテージだったとすらいえる安倍政権がスキャンダルに振り回されながらも、選挙ではそれを上回る野党の自爆によって安倍政権が盤石になっていきました。一方、香港では、2014年に起きた「雨傘運動」以降の若者を中心とした民主化運動が、北京の中央政府による締めつけで衰退に追い込まれてゆく1年余りであり、そういう状況の中で、お二人は往復書簡を交わしていたわけですね。

福嶋 日本に関して言えば、森友・加計問題を典型として、昭和的なオポチュニズム(無原則の日和見主義)が再び前景化している。要は、山本七平や丸山眞男の批判した「空気の支配」と「無責任の体系」の問題ですが、それが高じて公文書の改竄なんていうとんでもない次元にまで行ってしまう。しかも、それを批判しようとしても、責任の所在があいまいなので暖簾に腕押しにしかならない。平成はもう終わりつつあるというのに、政治の週刊誌化も含めて、今はむしろ昭和の悪いところばかりを拡大したような政治状況が日本を覆っているわけですね。平成は日本の政治風土を何も更新できなかった。
ただ、だからといって日本国内だけで政治的な問題を考えていても、もう未来はないし、論壇的な世間話にしかならないと思うんです。それで日本と香港、つまり国民国家と都市を比較するという新しい枠組みを立てて、世界との別の繋がり方を模索しようと考えたわけです。それが僕の出発点でした。張さんはどういう感じで臨まれたでしょうか。

 私としては、やはり香港の方が、日本よりも強く政治が終わっている感じがしますね。日本は思想的に平成がまだ終わってないし、戦後昭和的な雰囲気がまだ強く残っている。これに対し、香港は何より、まだ団塊世代の政治感覚が残っているんだけど、それと30代以下の若者の思想が決定的に違っていて、世代の断裂がはっきりしている形です。私なりには、そう見えているんですね。

福嶋 世代的分断は今の香港を考える鍵ですね。日本人は1970年代以降に金儲けにしか興味のない経済動物、つまり「エコノミックアニマル」と揶揄されたわけですが、かつての香港人もそれに近いところがあった。イギリスの植民地支配のもとで政治参加が閉ざされていたためです。しかし、張さん以下の世代は急速に政治化したように見える。香港はもはや一枚岩ではない。

宇野 そのように、異なる地域を対比して見えてくる視点が本書の特徴ですね。『辺境の思想』というタイトルが秀逸で「辺境とは何か?」ということが、この本で言いたいことの6割くらいを占めていると思います。日本人は夜郎自大なので、自分たちを辺境とは思ってないんですよ。ただ、歴史的に考えると、アジアの中でも、西洋から見ても端っこの辺境以外の何者でもない、近代日本は、いかにして自分たちが辺境であることを忘却するかというゲームをやってきた。
ところが、逆に辺境であることを思い出すことでしか、今の日本の社会的文化的な行き詰まりに対する抜け道を探すことはできないんじゃないか? というのが、この本における福嶋さんと張さんの基本的なスタンスだと思うわけです。
日本が辺境であるとはどういう意味か、究極的にひとことで言えば「国民国家未満」ということです。中国本土のような古代神話の時代から国そのものの枠組みが続いてるわけでもなければ、近代ヨーロッパの国民国家ともまったく違う、日本はどちらでもない存在なんですね。結果的に言ってしまえば、その枠組みを外したときに初めて、日本でものを考えることが可能になっている。

福嶋 歴史的に言えば、日本は常に「子供」の立場にあった。前近代であれば中国、近代以降であれば欧米というように、外部の大きな「父」を参照しながら我流に加工するのが基本的なプログラムだった。建築家の磯崎新氏の言い方を借りれば「和様化」(ジャパナイゼーション)ですね。しかし、今はそういう外部の超越的なモデルが弱体化してしまった時代だと思います。その結果、日本はこれまでの和様化のプログラムがうまくいかなくなり、外部への通路が閉ざされ、ガラパゴス的な状況に陥っている。千年単位で見れば、この「父の不在」が日本史の新しい局面を示すものであることが分かります。日本人は前例の少ない状況に置かれているのです。この困難から脱するために、隣の都市を参照しようというのが僕の基本的なスタンスです。

宇野 たぶん、いま国家の単位でものを考えているとトランプ的に、あるいはブレグジット的にグローバル化に対するアレルギーの受け皿になるしかない。そもそもばらばらのものを物語的に一つに統合している国民国家は定義的に閉じていてグローバル化と相性が良くないわけです。「グローバル化で国境がなくなる」と言ってるけど、そんなのは嘘で、グローバル化の実態とは情報化された大都市の経済的なネットワークですよ。
国境を単位とする領域的な国民国家というのは古い形の線引きで、それに対して、たとえば上海とドバイとパリの住人が直に結びつくような都市のネットワークが対抗しているのが、グローバル化の実態だと思います。だから、国家という枠組みにとらわれている限り、思想的にグローバル化を正面から受けとめることはできない、その可能性はむしろ日本や香港のような国家未満の辺境にあるというのがこの本の基本的なスタンスで、その視点から日本と香港の政治状況や文化状況を参照していると感じました。

中二病的なナショナリズム・政治化を超えて

福嶋 おっしゃるように、日本の知識人は基本的に国民国家の単位で考えている。たいていの日本論も国民性の比較によって作られているわけで、現に日中比較論や日韓比較論はたくさんある。しかし、そこには都市の比較という観点がほとんど存在していないのです。
たとえば、日本は「雑種文化」だという加藤周一の有名な定義がある。加藤氏はフランスとの比較でそう言っています。しかし、それを言うのなら、香港は日本以上に雑種的な都市です。なおかつ、日本はサブカルチャーが栄えていて「クールジャパン」などとナショナリスティックなお国自慢をしているけれども、それだって別に日本の固有性ではない。香港もそれは同じだからです。香港は武侠小説や推理小説が強いし、張愛玲や李碧華のような女性作家も目立つ。しかも、香港文学は映画とのメディアミックスも盛んにやっている。これらは日本の大衆消費文化とよく似ています。「怪力乱神を語らず」という中国の儒教的な建前からすればサブカルチャーでしかないものを、香港はたくさん生み出してきた。こういう辺境の都市と比較すれば、従来の日本特殊論を解除することができる。
加藤的なモデルは、最近の内田樹氏の議論にも受け継がれています。つまり、中心的な文明と辺境の日本を比較するという、いつもの分かりやすいモデルです。しかし、そのような認識の座標ではグローバル化には対応できないし、香港のようなすぐ隣にある「似て非なる存在」も見逃してしまう。香港を介して日本論の座標を組み替える――こういうアングルの提示はこれまでほぼ誰もやっていないと思います。

 福嶋さんが言った通り、この本の狙いは認識のフレームです。日本の近代認識のフレームは、明治から平成までずっと国民国家、どうしてもナショナリズムのフレームで物事を考えている。この本で書いたように、私なりのナショナリズムの定義は、自分たちこそが世界の中心であるとか、自分の尊厳をかけて他人からの承認を得られるよう努力するとか、辺境発の中二病的なものです。そういう中二病的なナショナリズムを発病して成功した文明を持つ国家は、最初はイギリス、そしてフランス、ドイツ、アメリカ、ロシア、西洋以外では近代の日本ですね。「自分たちこそが偉くて、尊敬に値する」ことを証明するために、物語を語る。ですから、ネイションは民族や文化伝統の発明に熱心で、国民文学と歴史のような近代の物語を重視するわけです。
逆に、香港の近代認識のフレームは都市です。思えば、香港は日本と同じく、19世紀中旬から西洋文化をいち早く取り入れて、約150年の近代社会史を織り成しましたが、香港の認識のフレームは日本・ネイションとは違ったかたちで、基本、都市ベースです。宇野さんが言ったように、都市は基本的にネットワークです。物語よりもお金と情報に依存します。文化の伝統より、その多様性を優先します。日本も香港も同じく辺境同士なのに、異なった道で、西洋近代化の歴史を歩んできました。
香港という成功例においては、そういう「自分が世界の中心」という発想はなかったんですね。自分が常にアジアにおいても西洋からも辺境にいることを自覚して、異なる発見の狭間で物事を考えて、いつもコンテクストに依存して、文化を自由に選べて、自由に動いていくのが得意なんです。日本が平成時代に入って、この10〜20年間、世界中がいわゆるグローバリゼーションに進んでいる状況で、私は香港の方が日本より活躍していると感じるようになったんですね。
東アジアにある辺境同士の日本と香港は、もともと比較できる文化心性はいくらでもありそうです。しかし、香港は日本への文化関心が高いが、日本から香港への視線はほとんど感じられません。たぶん、ネイションと都市という二つの近代心性の異なる影響のせいです。
やはり、この本に書いた中でも一番面白いのは、日本が都市化しているのに対して、香港はなぜナショナリズム化しているのかですね。実際に今の状況はこの本で書いた通りに進んでいます。

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