機械じかけのナイトラウンジ Vol.2
「さくらインターネットが創造する新世界〜クラウドとIoTの真の融合とは」田中邦裕×岩佐琢磨×小笠原治×宇野常寛
今朝のメルマガは「機械じかけのナイトラウンジ Vol.2」です。さくらインターネット創業者の田中邦裕氏をゲストに迎えてお話を伺います。ネット黎明期の田中さんと小笠原さんの出会いのエピソードから、家電がクラウドと繋がる新しいプラットフォームの可能性まで、技術者魂全開のトークをお楽しみください。
▼本記事の放送時の動画はこちらから!
http://www.nicovideo.jp/watch/1439883604
■ 創業秘話――さくらインターネットはいかにして始まったか
岩佐 今夜はさくらインターネット代表の田中邦裕さんにお話を聞いてみたいと思います。
田中 よろしくお願いします。
岩佐 田中さんは、高専在学中の1996年にさくらインターネットを創業し、今も代表を務めていらっしゃいます。実はここDMM.make AKIBAのプロデューサーでもある小笠原治さんも、さくらインターネットの創設者のひとりなのですが、今年8月にさくらインターネットにフェローという立場で復帰することを宣言しました。今日はそんな小笠原さんとの出会いを含めて、さくらインターネットの歴史を振り返りつつ、これからのIoTの話などができたらと思います。
そもそも、さくらインターネットはどのような経緯でスタートしたのですか?
田中 さくらインターネットの創立は1996年ですが、そのはしりとなるサービスは1995年からやっていました。僕は当時、高専に通っていて、ホームページ作りに熱中していたんです。1995年といえば、ブラウザのMosaicが普及しだした頃で、誰もがタグを直打ちしながらホームページ製作にチャレンジしていた時代でした。
小笠原 Mosaicって、今の若い人はわかるんでしょうか?
宇野 さっそく解説が必要かもしれませんね(笑)。
田中 当時からHTMLは既にあったんですが、画像などのビジュアル要素を実装できるようになった最初のブラウザがMosaicだったんです。当時の僕はそれにどハマりして。最初は学内の閉じたネットワークで公開していたんですが、学外にも公開したくて自分でサーバーを立ち上げた。そしたら友達から「サーバーを貸してくれ」って頼まれて。
宇野 彼らもホームページを作っていたんですか?
田中 そうです。ホームページを作ってチャットや掲示板、BBSを設置してました。チャットといっても当時は学内でしか使えなかったんですが。
岩佐 ホームページ、チャット、掲示板、BBS……懐かしい響きですね。「ようこそ!私のホームページへ!」の時代ですよね。
田中 1996年になると、それまで学内で閉じていたネットワークがインターネットに接続されたんです。すると、高専内の友達から、友達の友達、さらにその友達へ……と、どんどん学外に人の繋がりが波及していって、ある日、トラフィックの使いすぎで学校からめちゃくちゃに怒られたんです。さすがにサーバーを止めようかと思ったんですが、「お金を払ってもいいからサーバーを使わせてほしい」という利用者の声が予想以上に多くて。それでさくらインターネットを創業することにしました。僕自身、自分の作ったプラットホームで多くの人に情報発信やコミュニケーションしてもらうのが嬉しくて、有償でもいいから続けたいという気持ちはありました。
宇野 ちなみに、当時の利用者はどういうホームページを作っていたんですか?
田中 一番多かったのは同人系ですね。僕自身、最初に作ったのはエヴァンゲリオンのファンサイトでした。「死海文書とは何か?」みたいな謎解きの考察を延々と書き連ねているような……(笑)
宇野 やっぱりそうなんですね。僕が大学生の頃、サーファーズパラダイスを経由して、好きなアニメのファンサイトや同人サイトを見ていると、やたらとURLに「sakura」の文字が入っていて。それがさくらインターネットとの最初の出会いだったんですが、同い年の人が運営していたとは衝撃的ですね。
田中 創業から2年目くらいに、コミケで広告を出したこともありましたね。まだ紙のカタログの時代です。スポンサーはオープン前に会場に入れてもらえるので、当時の社員は喜んでビラ配りをやってくれましたよ。
小笠原 「パケットちゃん」というキャラクターをビラに載せてたね。「ネットのサーバーを貸します」というチラシを配るなんて、今では考えられない状況ですよね。
▲ パケットちゃん
■ 田中さんと小笠原さんの出会い
岩佐 田中さんと小笠原さんはいつごろ出会われたんですか?
田中 さくらインターネットを創業してまもない1997年だったと思います。当時「ドメインに関してのメーリングリスト」というものがあって、そこで僕も小笠原さんも発言をしていたんです。
小笠原 当時のドメインはまだ「.jp」すらなかったからね。どうやってドメインを取得するのか、どうやってサーバーに割り当てるのか。今みたいにネット上にドキュメントがあるわけじゃないから、わからないことはメーリングリストで詳しい人に聞くしかなかった。そこで優しく教えてくれたのが田中さんだったんです。僕は当時26歳で、田中さんのことを40歳過ぎのおじさんだと勝手に思い込んでいた。会う約束をとりつけて、当時僕が所属していた建築事務所に遊びに来てもらったら、20歳の田中さんが現れたわけです。思わず「あれ、お父さんはまだですか?」って言いそうになりました(笑)。
田中 そのとき、僕がドメインについて教える代わりに、小笠原さんからはVC(ベンチャーキャピタル)について教えてもらって、それで1999年にさくらインターネットを法人化したんです。小笠原さんには役員に就いてもらって、最初に出資もしてもらいましたね。
そのあとは多方面に手を伸ばして、 一時期はデータセンター事業やオンラインゲーム事業もやったんですが、今は一周回って本業であるインターネットのインフラに集中してます。
■ 安くしてシェアすれば何かが生まれる
宇野 先日刊行された書籍『ものづくり2.0:メイカーズムーブメントの日本的展開』の小笠原さんへのインタビューで、「昔のさくらインターネットは同人のイメージがある」という話題になったとき、「それは確かにひとつの側面だけど、実はITスタートアップ系を支えたのもさくらインターネットだったんだよ」ってお話をされてましたよね。
小笠原 そうそう。mixiやGREEやはてな、あとは2ちゃんねるなんかもさくらインターネットを使っていたんですよ。
田中 ニコニコ生放送も、最初はさくらインターネットでホスティングしていたんですよね。ドワンゴさんから「生放送やるからすぐに回線が10Gbps必要だ」と言われて。今でこそ10Gbpsくらいすぐに調達できますが、当時はなかなか難しかった。でも「ちょっと頑張ってみます」って言って、結局1ヶ月もかからずに実現できましたね。
小笠原 2007年頃に「AWS(Amazon Web Services)使うのはスタートアップくらいしかないよね」みたいなことが言われていましたが、今は誰もそんなことは言わない。それと同じような空気感が、2000年前後のさくらインターネットにはありました。
田中 さくらインターネットはお客様と一緒に成長していったのですが、一時期、お客様の方が成長が早くて、ウチが支えきれずに卒業していくこともありました。「さくらを卒業できたら一流」みたいなところがありましたね。最近は規模感も出てきたので、上場後もお付き合を続けていただいていますが。
小笠原 最初の頃から変わっていないのは「とにかくサーバーを安くすれば、表現したい人は何かを作るはず」という考え方ですね。このDMM.make AKIBAも「機材を安くシェアして、開発者同士でものづくりの話ができれば、何かが生まれるはず」という考えから始めたものですし。
■ あえて今「さくら」に戻るその理由とは?
宇野 小笠原さんはその後、インターネットのインフラの世界から離れて、ここ数年はものづくりの現場にコミットされていましたよね。そして今回またインフラ側に戻る宣言をされた。その意図を教えてほしいんです。
小笠原 僕がこの数年感じてきたことなんですが、ハードウェア業界とインターネット業界って、ものすごく断絶してるんですよね。戻った理由について、メディアの取材ではIoTうんぬんと答えてますが、その両者の間を繋ぐ仕事をやりたかったという動機が最初にあります。
田中 二人で具体的な話をしはじめたのは去年のことですよね。