高校野球は「自分で掴み取る」ものではなく「させてあげる」もの? 食トレ・偵察・県外遠征の諸相|中野慧 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

Serial

  • 2021.06.09

高校野球は「自分で掴み取る」ものではなく「させてあげる」もの? 食トレ・偵察・県外遠征の諸相|中野慧

本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第‌8回‌「‌高校野球は『自分で掴み取る』ものではなく『させてあげる』もの? 食トレ・偵察・県外遠征の諸相」です。‌
全国大会規模の施設運営を典型例として、高校野球児の活動には年長者の介入を前提としている部分が存在します。本来「自立」を促すものであったはずのスポーツにおいて、現在の日本高校野球界にはどのような課題が潜んでいるのでしょうか?

中野慧 文化系のための野球入門
第8回 高校野球は「自分で掴み取る」ものではなく「させてあげる」もの? 食トレ・偵察・県外遠征の諸相

高校野球は「させてあげる」もの⁉︎

2020年は新型コロナウイルスの流行により、高校野球の春と夏の甲子園は中止となりました。この高校野球中止にまつわる報道の中で興味深かったのは、「させてあげたかった」「やらせてあげたかった」という表現が頻出したことです。こういった表現が当たり前のものとして看過されていることに、今の高校野球の問題が凝縮されています。
スポーツはもともと、「気晴らし」が語源です。近代になって人々は身分的・経済的制約から解放され、余暇時間を自由に使えるようになってはじめて概念化された文化であり、ある種の「特権」だとすらいえます。そして「気晴らし」「余暇」「特権」なのならば、その時間を楽しむためには、集まる人間たちが主体的に関与する必要があります。
翻って現代の高校野球に関わる人間たちは、子どもから大人まで、そのことをすっかり忘れ、「させてあげる」「やらせてあげる」という奇妙な観念に染まってしまっているのです。
たとえば、高校野球の夏の大会は都道府県大会から、プロ野球チームの本拠地や地方球場など、観客席やスコアボード、記者席・放送席のある立派な球場でプレーすることができます。私は神奈川県の高校でプレーしましたが、普通は秋と春のブロック予選では高校のグラウンドを使用し、ブロック予選を勝ち抜いて県大会に出るとようやく球場で試合できます。しかし、夏の大会はすべてのチームが、立派な球場でプレーすることができるのです。
こういった球場を借りて試合すること自体、実は大変な労力がかかります。しかし夏の大会ではそういったことは都道府県の高野連がやってくれており、審判の手配もしてくれます。球場管理者や審判なども、みなが「高校野球だから」と好意的に協力してくれるわけです。
しかし、たとえば大学野球になると、大学野球は基本的に学生主導で、スケジューリングや球場の予約も行います。大人の「草野球」もそうで、グラウンドの抽選に参加し、対戦相手を募り、大会を自分たちで主催・運営することもあります。本当は、そういった裏方仕事も「スポーツ」を構成する大事な要素です。
なかなかうまく試合が組めないなかで、同じリーグのチームの主務と相談しながら、なんとか開催に漕ぎ着ける、そこで試合をする。試合が終わって、勝った負けたは決まるけれども、そういう過程を経ると、試合をしてくれた相手は「敵」ではなく「仲間」になります。また、球場の管理者、球場の手配をしてくれた人、審判をやってくれた方たちとのコミュニケーションも重要です。そういった「ささえる」側の人たちなくして、スポーツというものは成り立たないからです。
こういうことはある種、当たり前のことではあるのですが、「させてあげる」「やらせてあげる」という言葉がまかりとおり高校野球文化は、残念ながら、そういったスポーツを成立させる大切な要素を、本来主体であるべき「高校球児」たちに見えなくさせてしまっているのです。
今回のコロナ騒動は、社会をさまざまな方向に揺るがしました。高校野球は全国大会開催となると全国的な人の流通が不可避になるため、2020年春夏の甲子園の通常通りの開催は見送られ、夏の大会は各都道府県単位での自主開催となりました。もし「自主」開催なのであれば、これを機に大人たちに頼るのではなく、「高校生たち自身でできる大会の開催」を検討してもよかったはずです。
こういうことを述べると、「高校生自身で運営はまだ早いのでは」という反論もありますが、多くの高校では学校文化祭はできるかぎり生徒たちの自主運営がなされているはずです。また、全国レベルの取り組みでも、文化部の全国大会として「全国高等学校総合文化祭(総文)」というものがありますが、こちらは「生徒実行委員会」というものがあって、生徒たちの手で運営されています。
しかしスポーツは、特に高校野球は、なぜか「大人が大変なこともやってあげるのが当たり前」になってしまっています。よく知られているように、学生たちの野球文化を規定する「学生野球憲章」では「学生野球は、教育の一環であり、平和で民主的な人類社会の形成者として必要な資質を備えた人間の育成を目的とする」と謳われているにもかかわらず、です。
そもそも日本では高校生スポーツの全国大会はごく普通に行われていますが、アメリカでは行われていません。もちろん国土が広いということもありますが、「そもそも“たかが高校生”に全国大会は不要だから」という、教育的な理由からです。私たちは「高校生にとって、果たして全国大会などという贅沢なものはそもそも必要なのか?」という視点も持っておく必要があるでしょう。

この記事の続きは、有料でこちらからお読みいただけます!
ニコニコで読む >> noteで読む >>

関連記事・動画