社会構想のための哲学的思考|苫野一徳(後編) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2022.11.08
  • 苫野一徳

社会構想のための哲学的思考|苫野一徳(後編)

おはようございます。今朝のメルマガは、哲学者・苫野一徳さんの特別寄稿の後編をお届けします。
政治利用されるフェイクニュース、コロナ禍で生じたインフォデミック、情報過多が混乱を招き続ける現代社会で、他者との「対話」はどのようになされるべきか。哲学者の苫野一徳さんに、現象学をキーワードに論じていただきました。
(初出:『モノノメ#2』「社会構想のための哲学的思考」)

本稿の掲載された雑誌『モノノメ #2 』(特集「『身体』の現在)は、PLANETS公式オンラインストアでお求めいただけます。詳しくはこちらから!

7.「自由意志」をめぐる擬似問題

 前編で述べたように、近年、「自由意志など本当にあるのか?」というテーマへの関心が高まっている。これまでの議論の応用問題として、ここで少し回り道をして、このテーマについてもしばし考えてみよう。
結論から言えば、この問いは、現象学的にはそもそも問いの立て方を誤った擬似問題である。
「自由意志」なるものが実体として存在しているのか否か、そんなことは決して分からない。科学がその仮説的な探究を続けることには価値があるが、この問いに絶対的な答えを与えることは決してできない。ましてや、その答え──「事実」(とされるもの)──から何らかの「当為」を導くようなことは許されない。たとえば、「自由意志など存在しない。したがって、自己責任の概念は廃棄されなければならない」といった。
実体としての「自由意志」を否定することで、昨今の過剰な「自己責任論」の向こうを張ろうとする動機自体は健全なものだ。しかしこの論法は、二重の意味で間違っている。改めて言えば、まず「自由意志」があるかないかという、決して答えることのできない問いの設定をしている点において。もう一つは、「自由意志など存在しない」という仮説的「事実」から、自己責任概念を解体すべきであるという「当為」を導出している点において(その論調には、自己責任論をいくらか解体すべきであるというものから、全面的に解体すべきであるというものまで、さまざまなバリエーションがある)。
わたしたちが問うべきは、むしろ次のような問いである。「自由意志」などが実体として存在するのかどうか、そんなことは分からない。しかしそれでもなお、わたしたちには、自分や他者のある行為が「自由意志」によるものだと確信・信憑することがある。わたしはいま、自らの意志でこの原稿を書いていると確信している。もしかしたらだれかに操られているのかもしれないし、あるいは脳神経がわたしの意志とは無関係にわたしを動かしているのかもしれないが、そんなことはどうしたって分からない。わたしには、わたしがいま自分の意志でこの原稿を書いているという確信・信憑がある。
「自由意志」をめぐる現象学的な問いの立て方は、「自由意志」はあるかないか、ではなく、「自由意志」を共通に確信・信憑しうる条件は何か、なのだ。とするなら、わたしたちは、いついかなる時に、どのような責任を個人(の意志)に帰することができるのか、またできない(すべきでない)のか、その〝共通了解〞もまた──むろん絶対的な着地点などあり得ないにしても──見出し合い続けることができるようになるのである。

8.人間はアルゴリズムか?

 「自由意志」をめぐっては、これを否定することで自己責任概念を解体しようとする思想とはまた別に、同じくこれを否定することで、人間の明確な意志による社会構想を否定しようとする思想もある。
ユヴァル・ノア・ハラリの『ホモ・デウス』は、現代の生命科学の「包括的な教義」を次のように述べている。「科学は一つの包括的な教義に収斂しつつある。それは、生き物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理であるという教義だ」と。
わたしたちが何かを見、感じるのは、まるで機械のような生命アルゴリズムに従った行為であって、それゆえその認識のありようは、「遺伝子と環境圧によって形作られ、決定論的に、あるいはランダムに決定を下すが、自由に決定を下すことはない」。
もはや言うまでもなく、このような「教義」は、わたしたちには決して確かめることのできない仮説である。むろん、生命のアルゴリズム発見に向けた研究は、科学的な仮説の領域における重要な仕事ではある。しかし問題は、それが科学的な仮説探究の枠を超え出て、社会構想の土台を築こうとする時に生じる。
ハラリは、人間がアルゴリズムにすぎないのであれば、よりすぐれたアルゴリズム──端的にはAI──が社会を管理支配することには何の問題もないとする「データ至上主義」の思想を『ホモ・デウス』後半部において詳しく紹介しているが、これは典型的な「事実」(とされるもの)から「当為」を導出する思考法である。データ至上主義は、「わたしたちはそのような生、社会を欲するか?」(社会の大部分がAIに管理されることを欲するか?)という問いを顧みることなく、不確かな「事実」(とされるもの)を社会構想の根拠としてしまっているのだ。これもまた、先に見た通りの二重の誤りを犯した論法である。
データ至上主義は、「いやいや、わたしたちがどのような生、社会を欲するかというその欲望自体が、じつはアルゴリズムなのだ」と言うだろう。しかしそのことを、わたしたちが絶対的に証明することは決してできない。社会構想に限らず、哲学はつねに疑いの余地のない〝思考の始発点〞から始めなければならない。このテーゼを、改めて思い起こそう。
生命体アルゴリズム説は、科学の装いをまとった新しくて古い典型的な「本体」論──この世を統べる何らかの絶対的な真理(本体)があるとする説──である。どれだけ最先端科学の知見に彩られていようと、これは、すべてはじつは神によって決定づけられているのではないかという、はるか古代から続く思想の焼き直しにすぎないのだ。
そのような〝フィクション〞を、わたしたちが社会構想の一番の底板とすることなどできるだろうか?

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