【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第1回 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.08.31
  • 井上敏樹,小説,月神

【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第1回

平成仮面ライダーシリーズでおなじみの脚本家・井上敏樹先生。その敏樹先生の新作小説『月神』を、PLANETSチャンネルで本日より週1回、集中配信します! 『仮面ライダーアギト』『555』『キバ』といった平成ライダーシリーズ、さらには昨年発表の書き下ろし小説『海の底のピアノ』を経て敏樹先生が切り拓いた新境地とは――? 今回は連載初回につき、全文無料での公開です。


 

 おれは春が嫌いだ。ぬるい。夏が嫌いだ。うだる。秋が嫌いだ。沈む。冬が嫌いだ。痛い。なぜこの世には四つの季節しかないのだろう。おれには住むべき季節がない。
 今は夏だ。おれはひどい汗かきなので、ぐっしゃりと汗を吸ったTシャツが痛いくらいに体を締めつけている。おれは家に帰ってシャツを脱ぐ時の事を考えてうんざりした。きっと濡れた生地が体に絡みついて苦労するに違いない。最後にはシャツを引き裂いて床に叩き付けることになるだろう。
 せめてもの慰めは空に月が出ている事だ。このマンションの屋上からは満月に近い月がよく見える。おれは月が好きだ。きっと月には春でも夏でも秋でも冬でもない未知の季節が存在する。おれに優しい季節だ。
 目の前の男はずっと身の上話を続けている。屋上のフェンスに寄り掛かり膝を抱えて座ったままなぜ死にたくなったのかを低い声で時々涙を拭いながら訴えている。男はもう若くはない。頭の頂点が白いのは髪を染めた色が抜けかけているからだ。薄汚れた白いワイシャツの腹の所には黄色い吐瀉物が染み込んでいる。おれと会う前にいやというほど酒を飲んだのだろう。考えてみればこの男はおれと同じだ。この男にも住むべき季節がなかったのだ。月に生まれていればもしかしたら別の人生があったかもしれない。
 男は指輪をしていない。だからと言って独身とは限らないが、おれはそうあって欲しいとふと願った。男が死んだ後の家族の悲しみを想像したからだがすぐにそんな気持ちを否定した。おれには関係のないことだ。
 おれは男から目を離してもう一度月を見上げた。日本では月の表面に餅を搗く兎が見えるという。その他にも外国ではバケツを運ぶ少女や本を読む老婆や吠えるライオンを見るらしい。だが、いくら凝視しても想像力の足りないおれにはなんの映像も浮かんで来ない。おれは月に物語を読める奴らが羨ましい。そういう奴らはおれよりも月に近づいているのではないだろうか。
 おれは生まれてから一度も本を読んだ事はないが竹取物語ぐらいは知っている。まだあの島にいた頃、月ばかり見上げている幼いおれに誰かが話してくれたんだろう。話してくれた相手は覚えていないが物語の内容ははっきりと記憶に残っている。まあ言うまでもないだろうが、昔々貧乏な老人がいて竹を切っていると中から小さな女の子が現れて、老夫婦に育てられた女の子は成長してとてもきれいな女になるが数人の鬱陶しい求婚者共を惨殺して大勢の役人たちに追われるものの最後には月からお迎えが来て天空に消える、そういう話だった。
 その話を聞いて以来、頭の悪いおれは夜な夜な鉈を手に島の竹林に行っては竹を切った。もちろん小さな女の子を探すためだ。だが、当然、女の子などいるはずもない。いくら切っても竹の中身は空っぽだった。いや、一度だけ、奇妙な体験をした事がある。いつものように竹を割り続け疲労困憊したおれはこれが最後の一本と決めて振り上げた鉈を叩きつけた。中を覗くとなにやら黒いものが入っている。引っ張り出してみるとそれは一匹の鼠だった。おれにはわけが分からなかった。いまだに全く分からない。密閉状態の竹の中にどうやって鼠が入ったのか。おれは鼠を掌に乗せて顔を寄せた。死んでいるのか眠っているのかそいつはぐったりと動かない。おれは黒い毛並みを指先で撫で、それからギュッと握りしめてから放り出したが、そいつは地面に落ちた瞬間一度大きく飛び跳ねるとそのままどこかに姿を消した。
 足元でライターの擦過音がする。
 身の上話を終えた男が座った姿勢のまま煙草に火を点けようとしているが南からのなまぬるい風のせいが手が震えているためかうまくいかない。
 おれは男の正面にしゃがみ込んだ。おれを見る男の瞳がぎゅっと小さく縮まるのが分かる。怯えているのだ。気持ちは分からないではないがこれはおかしな話だ。おれは相手にどんな感情も抱いていない。殺意もない。死を選んだのは男自身なのだ。だから怯えるならばおれに対してではなく自分自身に怯えるべきではないだろうか。
おれは男の手から百円ライターを奪い取り煙草に火を点けてやる。
 男は二度三度大きく煙草を吸いよろけながら立ち上がると街の明かりを見降ろし月を見上げた。地上からの熱波となまぬるい風のせいで街の明かりがゆらゆらと揺れ、物語の読めない月がクリスタルのように澄み切った光を放射している。きっと明日も晴れだろう。
 「どうする?」男に訊ねた。「死ぬか?」
 男は煙草の空き箱を握り潰した。屋上の外に投げ捨てた。頷いて笑った。
 なまぬるい風が熱風になる。
 おれは男を殺した。投げ捨てた。

 おれはマンションの屋上からエレベーターに乗り一階に降りた。エントランスを抜けて外に出ると女の悲鳴と人々のざわめきが聞こえて来る。きっとおれが投げ捨てた男の死体が発見されたのだろう。男は体のどこかに拇印の押された遺書を身につけているはずだ。それがおれの仕事の条件だからだ。遺書のおかげで男の死は自殺として処理されることになる。まあ、遺書などなくても自殺には違いないのだが。仕事をするにあたっておれは依頼者にふたつの条件を出す。遺書を書くこと、それからもうひとつ、おれに身の上話を聞かせる事だ。
 もう一度女の悲鳴と誰かの叫び声が聞こえて来る。おれはその場から遠ざかるように道路を反対側に歩き始めた。
 おれには死体のひとつやふたつで大騒ぎする奴らが理解できない。知的障害者なのだろうか。この世は死で溢れている。生は死の海に浮かぶ泡のようなものだ。おれはその事をよく知っている。母親の腹の中にいた時から知っている。
 死を想わぬ者、死を知らぬ者はきっと催眠術にかかっているのだ。この街が、いやこの世界全体が巨大な催眠マシーンだ。絶え間ない騒音、街の明かり、コンクリートや鉄骨やガラスのきらめきに騙されて、人々はなまぬるい幻想に生きている。
 おれはゆっくりと夜の街を走り始めた。おれが電車や車を利用する事は滅多にない。人間には足がある。だからどこかに行きたければ歩くか走るかすればいい。簡単な事だ。今度の仕事の場所は家から走って四時間ほどの距離だったからうまくいけば午前二時には帰宅できる。
 おれの前方斜め上には澄み切った月が懸かっている。おれは月に向かって走るのが好きだ。すうっと体が浮かび上がって月に吸い込まれて行くような気がする。車や電車ではこうはいかない。
 都会の催眠術から離れ真実に生きたいなら月の光に頼る事だ。月の光だけが物事の真実を暴き出す。あの島にいた頃、おれは月光に照らされた樹々がまるでレントゲン写真のように透き通っていくのを何度も見た。透明な幹の中を幾状もの樹液の流れが上昇し、枝葉の隅々にまで循環していて、樹全体が内側からぼんやりと青く発光していた。おれは知っている。あれが樹というものの本当の姿なのだ。
 樹、だけではない。月の光は人間の真実をも暴き出す。街灯ひとつないあの島で見る女たちの姿は昼間とはまるで違っていた。愛想のいい顔が月光を浴びて悲しみに爛れ、無表情な顔が怒りの炎に燃え、また、無邪気な顔に底知れぬ絶望の穴が開いていた。
 三十分ほど道路を走り、自宅を目指して南に曲がった。いつまでも月に向かって走るわけにはいかない。さらに十五分ほど走ると繁華街に出る。高層ビルが月を隠した。
 テイクアウト専門のお好み焼き屋の前で三人の若者が肥満体の男をいたぶっていた。
 若者たちの意味不明の怒声が響き渡り、店の窓口から髪を引っ詰めにした若い女店員が事の成り行きを見守っている。その顔は『お好み焼き』と書かれた提灯と同じくらい無表情だ。
 肥満男は路上に倒れ、体を丸めて頭を両腕で庇っていた。タンクトップの若者たちは贅肉の揺れる男の腹を蹴り、踏みにじり、唾を吐いた。男の白いTシャツに点々と血痕が散り、股間は小便で濡れている。
 通行人たちは何事もなかったように通り過ぎる。或いは、安全な距離を保って事態を見守る。
 おれはその場を走り過ぎようとして立ち止まった。暴行を続ける若者たちの足元に包装紙に包まれたお好み焼きが落ちている。
 おれはお好み焼きを拾い肥満男を蹴り続ける若者のひとりに歩み寄った。
 「これはお前のか」若者に言った。「食べ物を粗末にしてはいけない」
 若者が振り向き、おれを見上げる。その顔が一瞬、きょとんとなり、すぐに凶悪なものに歪んでいく。
 なんだテメェ関係ねぇやつは引っ込んでろ。
 おれは相手の顎を掴み強引に開かせた口にお好み焼きをねじり込んだ。
 「食べ物を粗末にしてはいけない」
 喉を詰まらせたそいつは胸を叩きながら胃袋の中身と一緒にお好み焼きを吐き出した。他のふたりがおれの方に近寄って来る。どの目もどこかとろりとしている。こいつらはなにかに酔っているに違いない。酒か、クスリか。普通なら二メートルを越える身長に筋肉の鎧をまとったおれに逆らう奴は滅多にいない。
 消えな、おっさん、怪我するぜ。
 ひとりが言う。
 「おっさん? 幾つに見える?」おれが訊ねる。
 先程まで走り続け大きく上がっていたおれの心拍数が急速に下がっていく。
 「幾つに見える?」おれは質問を繰り返す。
 若者のひとりがローキックを放った。おれは脚を外側に開いてその蹴りを膝で受ける。相手の脛がほぼ直角に折れ曲がり若者は膝を抱えて路上に転がる。
 おれはおれの質問に自分で答える。若者たちにおれの歳を教えてやる。おっさん、などと呼ばれるほど若くない。おれは歳よりずっと若く見えるのだ。
 三人目の若者がお好み屋に走り込み、包丁を手に戻って来た。タンクトップの二の腕に青い龍の刺青が見える。こいつも催眠術にかかっている、とおれは思う。この街の、この世界の催眠術にあきたらず自分で自分に催眠術をかけている。
 おれは人を殺す際、時に相手の肛門に指を入れる。そうして前立腺を刺激して束の間の快感を与え相手が射精した瞬間に首を捻じって骨を折る。だが、おれが目の前の若者を殺す事はない。おれが殺すのは死にたがっている者に限られている。
 若者は包丁を頭上に構えて突っ込んで来た。
 おれは振り降ろされる包丁の軌跡を読みながら手拍子を打つように両手をぱんっと打ち鳴らした。同時に真っ二つに割れた刃が甲高い音を立てて地面に落ちる。
 それで、終わった。戦意をなくした若者たちは逃げる事も出来ず両腕をだらりと体の前に垂らして立ち尽くしている。脛を折られた奴だけが相変わらず路上を転がり呻いていた。肥満体の男の姿はすでにない。お好み焼き屋の女の顔は同じままだ。提灯と同じように無表情だ。おれは呻き続ける若者に近づき脛を元の形に戻してやる。足を引っ張り手を放すと、カチリと音がして骨が繋がる。三カ月もじっとしていれば治るだろう。
 おれは軽くその場でジャンプして再び走り始めた。遠巻きの野次馬たちがおれのために道を開ける。早く家に帰りたかった。家に帰ってゆっくり風呂に浸かりたかった。(続く)

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