文化系vs.体育会系の対立は「華厳の滝」から始まった? 20世紀初頭に現れた若者文化のクロスロード | PLANETS/第二次惑星開発委員会

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  • 2021.12.06

文化系vs.体育会系の対立は「華厳の滝」から始まった? 20世紀初頭に現れた若者文化のクロスロード

ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の‌第‌17回「文化系vs.体育会系の対立は「華厳の滝」から始まった? 20世紀初頭に現れた若者文化のクロスロード」をお届けします。
明治期の日本国民が全体主義へと傾倒するなか、個人主義を志した「文化系」の人たちはいかにして言論活動をおこなっていたのか。一高野球部の栄光と衰退から、近代日本人の精神がどのように形成されていったのかを探ります。

中野慧 文化系のための野球入門
第17回 文化系vs.体育会系の対立は「華厳の滝」から始まった? 20世紀初頭に現れた若者文化のクロスロード

これは前回のおさらいであるが、日本の野球文化の道筋をつけた一高野球部は、その草創期の歴史のなかで下記の3つの事件が重要である。

①インブリー事件(1890年)
②横浜外人倶楽部戦(1896年)
③一高生・藤村操の自殺(1903年)

このうち前回は、①インブリー事件(1890年)、②横浜外人倶楽部戦(1896年)を取り上げた。明治維新以降の「脱亜入欧」のモードが、1894〜1895年にかけて戦われた日清戦争の前後を境に、武道などの日本の伝統的価値を再評価するフェーズに入っていった。19世紀末の日清戦争から20世紀初頭の日露戦争へと向かう時代は、近代国家日本がナショナリズムへと傾いていく転換点だった。
明治維新期に日本に入ってきた外来スポーツである野球は、当時のトップエリート校である一高の学生たちの手で、文化として育てられていった。しかし文化状況としてのナショナリズム高揚のなかで「武道」と対峙せざるを得なかった。一高野球部員たちは、舶来の文化でありながら彼らが熱中した野球が、「女々しい」という理由で廃部にさせられる危機を常に感じていた。そこで、苦行のようにノックを受け、剣道のように激しい声出しをする「猛練習」というシアトリカルなパフォーマンスを遂行することを通じて、このスポーツを延命させようとしたわけである。
以上が前回までのあらすじであるが、今回は「③一高生・藤村操の自殺(1903年)」について論じていく。

「野球」という訳語の誕生、テニスとの関係

本題に入っていく前に「野球」という訳語の登場について触れておきたい。「野球」という言葉が生まれたのは19世紀末である。
「Baseballを『野球』と訳したのは俳人・正岡子規である」と言われることがあるが、これはよくある間違いで、たしかに正岡子規は1880年代後半に、できたばかりの一高に在学して野球に熱中し、そのときに「春風やまりを投げたき草の原」という一句を詠んでいる。だが当時の一高生のあいだではまだ野球は「ベースボール」と呼ばれており、一高野球部も「べーすぼーる会」と呼ばれていた。
「野球」という訳語を案出したのは、子規の2歳下の後輩にあたる一高野球部員の中馬庚(ちゅうま・かのえ)であった。前回も紹介したように、中馬は一高在学時に『校友会雑誌』上で、撃剣部の主将との論争を演じた人物である。
中馬は野球と同時にテニスプレイヤーでもあった。彼はテニスの訳語「庭球」にヒントを得、さらには「Ball in the field」という英語でのイメージを元に「野球」という言葉を考えだしたところ、一高の仲間たちも「それはいいね!」ということでこの訳語が定着した。
1896年の横浜外人倶楽部戦以後、一高野球部は一高内で名声を高めてスクールカーストのトップに登り詰めたが、それだけでなく新聞報道を通じて「お国のヒーロー」ともなった。一高野球部のもとには、全国の中学校の生徒たちから「野球とはどういうものですか」という質問が続々と届くようになり、その求めに応じて中馬庚が執筆した書籍が『野球』である。この『野球』が広く読まれることによって、この訳語が日本国内に定着していったようである[1]。ベースボールに「野球」といううまい訳を宛てたのは、中馬のコピーライティングの妙でもあるだろう。ベースボールが日本に伝来してから20年余り後のことであった。
テニスの話題が出たのでついでに述べておくと、実は日本において野球とテニスの関係は深いものがあった。第11回で述べたように、野球はそもそもイギリスの牛飼いの女性たちのあいだで生まれた遊びをアメリカナイズしたものであったが、一方でテニスは近世のフランスやイギリス、つまり西欧の貴族のあいだで流行した遊びであった。そして現代においては、「野球=男のスポーツ」というイメージが根強くある一方で、テニスは幅広い年齢・性別、さらには車椅子テニスなども含め、非常に開かれたスポーツとなっている。だが、明治期、野球やテニスなどの外来スポーツが日本に入ってきて、エリートであるがゆえに余暇時間もあった一高生たちのあいだで流行した際、野球とテニスは似た位置にあったスポーツだったのだ。
中馬をはじめ、最初期の一高野球部の面々はテニス部とも兼部していた。現代日本ではスポーツ系部活というと「兼部はダメ」というのが暗黙の了解のようになっているが、当時の一高生たちにはそもそもそのような感覚がなかった。これはよく考えると当たり前のことで、複数のスポーツに興味があればいくつでもやっていいはずである。現代のように「一意専心」であるべき必然性など、実はないのかもしれない。
それゆえ19世紀末の一高生の野球部員たちは他の部でも活動していたが、とりわけテニス部とかけもちをすることが比較的多かったようである。たしかに、テニスの「ラケットでボールを打つ」という動作は野球とも似ているので、応用もしやすかっただろう[2]。
1890年に一高で校友会が発足し、運動部が正式に校内活動として認められた際に、野球部もテニス部も同時に活動を開始したが、テニス部のほうは日清戦争後には廃部にさせられている。その理由も「女々しい」という、今思うとなかなかに酷い理由であった(その後、一高でテニス部が「庭球部」の名前で復活するのは、なんと30年後の1924年であった[3])。
これはifの話だが、もしインブリー事件のようなことが野球部ではなくテニスの対校試合で起きていたら、現代の日本人はテニスをする際に「ヤーーーッ!」「メェエーーーン!」と剣道のような激しい声を出してサーブやリターンをすることが慣習になっていた可能性がある(もっとも、現代のテニスではシャラポワやアザレンカ、ジョコビッチやナダルなど世界の一流プレイヤーが野性的な雄たけびを上げながらサーブやリターンを放っているが……)。
逆に、野球がテニスと違って廃部にされず、結果として100年以上も文化として続いたのは、「激しい感じを出す」というシアトリカルなパフォーマンスを集団的に編み出し、かつ遂行することができたからである。

最初のオピニオン・リーダー、中馬庚の野球論

日清戦争の前後の時期の中馬は、一高の校内誌である『校友会雑誌』や、そして自著である『野球』を通じて野球論を展開しており、日本野球の最初のオピニオン・リーダーであった。
中馬は『野球』において、野球が頭を使うとともに敏捷性が求められるので日本人に合ったスポーツである、ということを主張するとともに、野球の意義を「撃剣・柔道・器械体操などにはない快楽がある」ということ、用具の購入・場所の確保も(創立期の一高で一番人気だった)ボートなどに比べ比較的容易であることを述べている。
ここでは「心身の鍛錬」といった意義よりも、野球それ自体の「楽しさ」や「気晴らし」「健康増進」といった価値、つまり集団主義だけでなく個人主義的な価値も照準されているわけである。中馬のスポーツ観は、現代にも通じる先駆性があったと言ってよいだろう。
現代の野球文化は、最初期に野球を日本社会に根付かせた一高野球部の文化のあり方のベクトルに、本人たちにはそれと意識されずとも、強く引きずられている。かつてのPL学園に代表されるような野球エリート校が、「籠城主義」的な行動様式を維持しているのは、その最たる例だ。
だが、現代の野球エリート校と草創期の一高野球部で大きく違う点が、大きく2つ指摘できる。ひとつは、一高の場合は野球部生徒・学生が校内雑誌に自らの論考・批評を寄稿し、部外の生徒・学生とも議論する、という文化を持っていたことだろう。もうひとつは、野球だけに一意専心するのではなく、他の部活動にも出入りし、野球以外の事物への見識を高めていたことである。つまり明治期の一高の部活動では、現代ではすっかり失われてしまった「開放性」が、ある程度は担保されていたのだ。
日本野球最初の首謀者である中馬は、超エリートたる一高生だけあって、文章家でもあった。彼は運動の力を説くと同時に、『校友会雑誌』を舞台に文章を書くことを通じて野球部の学生が野球部外の学生と交流することに、高い価値を認めていた。
中馬曰く、運動はひとつの価値であって、その影響力は「文章の広遠なる力には及ばない」。だが、運動には人と人の心をつなぎ、その成果を外に向かって表現する役割がある、とする[4]。これはスポーツが「具体的」に「誰にも見えるかたちで空間的に」表現される、その「可視化される」ということの意義を説いているのである。
現代の高校野球では、野球部が都道府県大会で上位に進出したり甲子園に出場したりすると「全校応援」というかたちで野球部以外の生徒も駆り出される、ということがあるだろう。学校側は全校応援を教育活動の一環と捉えている。これは明治時代の一高と同じように、スポーツという「具体」が「可視化」されることを通じて、校内の結束力強化に役立つと考えているからにほかならない。「校内の結束力が強化される」ということには、学校側が生徒をコントロールしやすくなるというメリットもあるが、学校側が考えているのは必ずしもそれだけではない。教師たちは「生徒のため」という視点も当然、持っている。彼らは、生徒たちにスポーツの応援を通じて交流を深めてもらうことによって、学校そのものの教育の場としての価値を高められると考えているわけである。これは一言で言えば「集団主義」という価値である。集団主義は、言うまでもなく「個人主義」に対置されるものだ。
教師たちがそう考えている一方で、生徒たちの側は、現代の高校野球の全校応援に関しては「なぜ自分の貴重な時間を他人の応援に使わなければいけないのか」「なぜ野球部だけ学校を挙げて応援されるのか。他の部はこんなに応援されない、不平等ではないか」と考えている者も少なくない。教師たちの「生徒たちを野球で感動させて、校内統治に役立てよう」という意図を見抜いているわけである(それが物事の一面でしかなかったとしても)。こういった集団主義への懐疑が、「個人主義」の出発点である。
今となっては野球といえば、全校応援の例に象徴されるように、時代錯誤な集団主義を発生させる装置のように捉えられてしまっている。だが19世紀末の段階では、今とは大きく感覚が違ったのだ。明治末期、欧米による植民地化の恐怖が今から想像できないほどに人々にリアルに感じられており、日清戦争から日露戦争へと向かっていくナショナリズムの時代に「集団主義への恭順」という感覚は、エリートから民衆レベルに至るまで「空気」のように共有されていた前提だったと言ってよいだろう。そのような中で、野球文化のイノベーターである中馬は、集団主義への目配りをしつつも、個人主義的な価値にも目配りした論説を、注意深く展開していたわけである。
だが、中馬のフォロワーである一高野球部員たちはやがて、校友会雑誌などで「心身の鍛錬」「日本的武士精神の鼓吹」といった集団主義的な価値ばかりを説いていくようになった[5]。集団主義と個人主義のバランスよりも、集団主義一辺倒になってしまっていったわけである。一人ひとりが本音では「自由に生きたい」「好きなことぐらい自由にやらせてくれ」と思っていたとしても、なかなかそのことをハッキリとは主張できない時代に、中馬のようなイノベーターであれば注意深く自身の論を組み立てることができたが、フォロワーになってくると中馬のような屈託が消失していった。「ネタ」が「ベタ」になっていったわけである。

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