宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い> | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2022.11.25
  • 宇野常寛

宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>

本日のメルマガは、PLANETS編集長・宇野常寛の特別インタビューをお届けします。
「水曜日は働かない」ことで実現する社会との関わりや「議論」のあり方、ライフスタイルの変化にとどまらないその真髄が語られます。
(初出:週刊読書人2022年7月8日号

宇野常寛インタビュー<僕たちの自由のための戦い>

引き算から始める、自分デザインの暮らし方

──この本は宇野さんの日常から語り起こされ、多様な要素が入り交じりながら、読み進むと一続きのメッセージが立ち上がってくるようです。改めて批評とは何かということを感じさせられる本でもありました。

宇野 数年前からエッセイ的な語り口が、今の自分に必要なのではないかという思いがありました。SNSが浸透して誰もが手軽に発信できるようになり、多くの人が自分の半径五メートル以内のことを饒舌に語るようになっています。たとえばコンビニで出会ったマナーの悪い客に対して腹を立てたとか、韓国料理屋でおいしいキムチクッパを食べたとか。また天下国家についても饒舌に語りますよね。イーロン・マスクのツイッター買収について、ウクライナ情勢について、あるいは岸田政権の支持率について。SNSで天下国家についてひたすら怒っている人たちもいますが、どうも自分でものを考えているようには思えない。半径五メートルと天下国家の話が、乖離しているように見えます。インスタントな承認を獲得するためにSNSのタイムラインの潮目を読んで、既に話題になっているものに言及し、その中で支配的な論調にイエスと言うかノーと言うかを選択しているだけなのではないか。

 そうだとしたら忌々しき事態で、そこからどのように言論を回復していくのかを考えると、自分が手で触れて実感できる半径五メートルの世界が、天下国家の大きな話に繫がる回路が必要なのだと思うんです。

 だから、僕はこんな距離感と進入角度で、普段の暮らしから世の中をこのように見ているのだと、国や社会を考える筋道を、面白く肯定的に示したいと考えています。この本はその試みの一つなんです。

──本のタイトルにもなっている「水曜日は働かない」は、画期的な宣言であり提案ですね。水曜を休みにすることで、全ての曜日が休日に接続するという。コロナ禍の生活環境の変化にも即しているように思います。以前、英文学者の外山滋比古さんが、週休二日制になって人々は日曜に憂鬱になるようになった、と言っておられたのを思い出しました。日曜だけ休みだった時代、土曜の半ドンが程よく楽しかったそうです。「水曜日は働かない」という言葉は、時代を映す社会批評にもなっていると思います。

宇野 僕が「水曜日は働かない」と言い始めたのは二〇一九年後半ですが、その後コロナ禍となり「暮らしかた改革」などと言われるようになりました。ただいわゆる「週休三日制」は、金曜か月曜を休みにして三連休を作ろうという話です。二日休むのと三日休むのとでは回復力が違いますし、それも一案だと思うのですが、その上で僕が「水曜日を休みに」と言うのは、ハレの日とケの日を分けないという考えからなんです。つまりキラキラした休日を過ごすために、労働者として暗黒の平日を生きるというのではなく、ウィークデーにも自分なりの楽しみをもって、自分で自分の暮らし方や働き方をデザインしていきましょうよと。それで週の真ん中の水曜日を休みにするという、休日と平日の境目がなくなるような提案をしているんです。

──一方では、「水曜日しか働かない」とか、「水曜日すら働かない」と言っておられます。仕事とは、宇野さんにとってどのようなものですか。

宇野 そうですよね(笑)。そういう意味では、僕は世界とのチューニングがうまくいっている方なのかもしれません。休日に、旅行に行くとか、映画館に行くとか、そういう時間の使い方も時にはしたいけど、もっと何でもないことをして過ごしたい。まず午前中に街を走って、お昼は少しも妥協せず好きなものを食べて、お風呂に入って一休みした後に、好きなカフェで書き物をしたいんです。そして夜は好きな本を読んだり、映画を見たり、模型を作ったりして就寝するというのが、僕の理想の休日です。僕にとって仕事の一部である執筆が、休日にしたいことの一つでもあるんですよ。

 もともとサブカルチャー批評から出発しているので、社会に物申したいとか、著述業で有名になりたいというのではなく、この作品の素晴らしさを世界に訴えられなければ討死!! みたいな、若者特有の思い込みに駆動されていた時期がありました。自分の外側にある大事なものへの愛を追求した結果として、社会と接続することになったんですよね。若い頃はそれが生きづらさでもあったけど、四十歳を過ぎてこういう社会との繫がり方もありなんだと思えるようになった気がします。

──「水曜日は働かない」もそうですが、目次に「ない」「ない」「ない」と、否定が並ぶのが面白いですね。「マラソン大会は必要ない」けど他に大事なものがあるとか、「僕たちに酒は必要ない」けど代わりに必要なものがあるとか。引き算のうまさを感じました。

宇野 世の中には、誰かや何かを排除することでメンバーシップを確認したり、自分がマジョリティの側にいることを確認して安心するという、分断を生む否定が多すぎる気がしています。僕は引き算は、気軽に物事を始めるために使うべきだと思うんです。たとえば社会人のキャリア相談や大学生の就職活動セミナーでは、自分のやりたいことをみつけて、夢に向かって目標を立てて邁進しなさい、というようなことを言われます。でもそれでは何かを始める前に、足し算、足し算で息苦しくなると思うんです。そうではなくて、いやいや飲み会に行くのを止めてみませんかとか、親に言われたからって持ち家を買うことを、必ずしも考えなくていいんじゃないですかとかね。そうすべきと思われていることを一回やめてみると、社会との間に距離ができて、自分の中に余裕が生まれます。その余剰で、自分に必要な何かを足すことが、初めてできるのではないかと思うんです。

ここからどこにでも行けると思えるメディアを

──「僕たちに酒は必要ない」の「リア充」の使い方も面白く気になりました。「リア充」とは充実した私生活を送る人への羨望と揶揄が入り混じるような言葉かと思います。宇野さんが敢えて、これからリア充自慢をしますと宣言し、その先で、ソーシャルメディアに動員されない生活の楽しみや新しい文化の発見について語るのを、面白く読みました。

宇野 「飯の友の会」の話ですね。僕が主宰するPLANETS CLUBでは、勉強会の他、メンバーが自主的に企画して、皆で軽井沢へ走りに行ったり、美術展に行ったりすることもあります。そもそも僕はコミュニティが苦手な性質ですが、それでも大人同士が趣味を通じて楽しく過ごす回路を、この社会の中に作ることは意味があるのではないかと思うんです。誰でもちょっとした前向きさがあれば、日常に充実した楽しみを発見できることを示したかったし、「リア充」に対してエクスキューズとわかる書き方をすることで、笑い飛ばしていい言葉なんだと示したかった。あるいはエクスキューズを入れなければ揶揄されるような世の中って嫌だよねとか、そんないくつかの意図を込めています。

──雑誌『モノノメ#2』の話になりますが、「観光しない京都2022」の、久世橋の話が響きました。久世橋という観光的にはなんでもない場所に、宇野さんはいつも来たくなるのだと。「この場所は僕にいつも、自分はここからどこにでも行けるのだと思わせてくれた」。「ここからどんな場所にも、物事にもつながっていく。そう思えるメディアをつくりたいと自分は思っていたのだ」、この言葉にハッとさせられました。

 見田宗介さんは若い頃、「アンチテーゼは一見フレッシュでオリジナルに見えるけれど、それはただの流行商品で、ネガティブな思想は結局弱い」と語っておられます。現状を捉えながら常にその先を示そうとされたようです。見田さんの思想と同じワクワク感を、久世橋についての宇野さんの言葉にも感じました。

宇野 何でこの橋が好きなのか、自分でも長いこと不思議に思っていました。京都に住む直前は、北海道にいたのですが、北海道では隣町に行くのに半日かかるから、覚悟を決めて出かけないとならないんです。京都に越して、隣の町に日帰りで行けるという感覚が、新鮮に蘇りました。そういう感覚と相まって桂川の水脈が──鴨川と木津川、その先で淀川に合流し大阪湾へと注ぐのですが──自分はどこにでも行けるのだと思わせてくれたんですよね。

 久世橋は、本当に何でもない橋です。でも「イナイチ」と通称される、京都から阪神に抜ける国号171号線にかかる橋だから、地元の人はみな知っています。あの橋が何かの理由で不通になると、京都の物流はまずいことになる。久世橋は、ハブなんです。

 ぶらぶら散歩していて楽しいとか、カフェでゆっくり本を読みたいのは、京都中心部の鴨川付近です。でもメディアの仕事は、久世橋的でなくてはならない。これには自戒も込めていて、『モノノメ』は責任編集の個人のカラーの強い媒体なので、どうしても僕の理想の世界を見せるようなものになっていくんです。それがよさでもあると思うのですが、いかにも「宇野らしい」というような予定調和に落とし込むことは避けたい。雑誌であるからには、結論が出ずに判断が保留になっているものとか、当りか外れかまだわからないけど、何か予感を抱かせるものを、積極的に入れていかなければならない。そう思っています。

共進化と無関心的歓待の公共空間

宇野 見田宗介さんの話が出ましたが、『群像』七月号から「庭の話」という連載を始めました。それには、見田さん=真木悠介さんの『自我の起原』から引用しています。この本は進化生物学のリチャード・ドーキンスにインスパイヤを受けた、真木さんのロマンチックな哲学が展開するもので、もっともめざましい高度な共進化の例として、ミツバチとクローバーの関係が挙げられています。何が素晴らしいと言って、花は自分の繁殖のために、虫という異種を誘惑するようにできているんです。そして認知能力が優れている人間は、その高度な共進化の豊かさについて理解し、だからこそ花を美しいと思うのだと言うわけです。そうした想像力がなければ、遺伝子を残すことに直接貢献しない、宗教や文化といった社会的活動を、人間が持つことはありえない。人間には花を美しいと思える回路があるからこそ、宗教や文化が展開するということになります。僕はこの見田さんの考え方が好きなんです。

 現在の情報社会では、同種を誘惑し合うゲームに多くの人が勤しんでいます。そのことが物事に対するアンテナを低くしてしまっている。人間を人間たらしめるのは、同種間の相互評価のゲームを超えたところにある、むしろ自己滅却の欲望とか、究極的には死への想像力みたいなものなのではないか。人間の認知能力は、自己の保存の快楽と同時に、他者による自己の解体の快楽も理解することができる。「花」的コミュニケーションの多様な豊かさは、表現に関わる人間として忘れてはいけないと思っています。

 人間同士の相互評価のネットワークの外にあるのは、モノやコトです。それは時に久世橋であり、ウルトラマンの怪獣フィギュアであり、東京の森のカブトムシ採集であるわけですが、物事にしっかり接続されたメディアを作ることが、僕のポリシーです。

 多くの人が、人の顔色を見て発言しすぎているし、タイムラインの潮目を読んでいるだけで、物事そのものを語っていない。物事そのものに接続しないと、思考は鈍り、世界はどんどん平板で狭くなっていくんです。

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