井上明人 ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか――Wii、DS、PSP以降の構造を考える(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2019.08.02
  • 井上明人

井上明人 ゲーム市場の生態系とネットワーク構造の変化をどう捉えるか――Wii、DS、PSP以降の構造を考える(PLANETSアーカイブス)

今朝のPLANETSアーカイブスは、『「ヒットする」のゲームデザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)に掲載されたゲーム研究者・井上明人さんの論考を配信します。コンピュータゲーム市場を「高速に変則的な動きをする生態系である」と捉えたとき、どのようなメカニズムでゲームの購入が決定されるのかを、様々なモデルを例にとって考えます。
※この記事は2014年9月24日に配信された記事の再配信です。

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▲『「ヒットする」のゲームデザイン――ユーザーモデルによるマーケット主導型デザイン』(オライリー・ジャパン、2009年)

 

 原書の発行された後、2006年にはプレイステーション3やWiiがリリースされるとともに、携帯ゲーム機であるニンテンドーDSやプレイステーションポータブル(Play Station Portable : PSP)が大ヒットとなった。原書発行以後の4年間のこうした動きを考えると、4年前のアメリカ市場を念頭に置いての議論の一部は、そのままでは通用しにくいものとなってきていると言わねばならない。本稿では、こうした動きに対応して原書で提起されている枠組みをどう応用できるかを考えていきたい。

 

 この4年間の中でとりわけ大きかったのは、ニンテンドーDSの大ヒットである。ニンテンドーDSはすでに世界で1億台以上の売り上げを達成した(※1)。2006年以降のコンピュータゲーム最大の市場は、据え置き機型ゲーム機市場から携帯型ゲーム機市場へと交代したと言ってよい。

 

(※1)任天堂株式会社2009年3月11日ニュースリリース「ニンテンドーDSシリーズ1億台販売」(http://www.nintendo.co.jp/corporate/release/2009/090311.html)。

 

 本書の内容と絡めて言えば、この事態から大きく2つのことを汲み取ることができる。

 

 1点目は、本書で比喩として使われたような生態系のモデルを用いて市場を語るという方法(13章)を再考せざるを得なくなった。生態系をモデルにして社会を語る観点にはさまざまなものがあるが、生態系を語る際に、本書のように生態系の「安定」に着目することを重要と考えるのか。それとも生態系の「変化」や「多様性」に着目することが重要だと考えるのか。その観点の差によって、同じ生態系の比喩を使うにしても、得られる結論は大きく変わってくる。生態系の安定は確かに重要な指標だが、変化がきわめて激しい環境の中で、生態系を考えるということはいったいどういうことだろうか?

 

 もう1点は、ハードコア層の影響力を重視した、エバンジェリストという発想の有効性(2章)だ。この数年間にわたって任天堂が掲げてきた基本戦略は「ゲーム人口の拡大」だった。これは必ずしも本書の提唱するようなハードコア層の影響力を考慮したものではない。むしろハードコア層を経由せずにカジュアル層にそのままアプローチしてしまうための戦略だ。そして、この戦略を用いた2000年代後半の任天堂は、誰が見てもゲーム産業で最も強いプレイヤーたりえていた。この事実を、本書の提起した視点からどのように捉えればよいのだろうか?

A.1 ゲームマーケットはどういう生態系なのか?

 まず簡単に市場を生態系のモデルで捉えることの意義について確認しておこう。

 

 人間社会の全体性を、生態系で捉えるという発想自体は非常に古くからある。生態系の比喩で社会を捉える議論にありがちな展開の1つは、現状肯定的なもの言いの根拠付けとして生態系がダシにされる、というものだ。

 

 どういうことか。

 

 社会の中に存在するほとんどのシステムは、ほかのシステムとかかわる形で意味を持たされている。一見何のために必要なのかということがわかりにくかったり、非効率なものに見えたりしても、まったく意味のないものは珍しい。例えば、何のためにやっているか今ひとつ理解が及びにくい、判子を押すような事務仕事も、会計的な透明性を上昇させるために必要だということにされ、ひいては効率的な予算管理を可能にするための部分的な制度である、と言いうる。ほとんどすべての社会システムには、何かしらの意義が与えられ、社会システムの一部となっている。いま存在している社会システムや、社会的な方向性(クレオド)は、何かしらの点で意味があり、生態系の安定に寄与している、と捉えることができる。これは、きわめて古典的な論法であり、保守的選択が肯定される際には、過去に何度もこうした社会観が用いられてきた。

 

 この、当たり前ともいえるような伝統的な社会観には、伝統的な反論もある。1つは、本当に既存のシステムすべてが効率的なのか?という反論。もう1つは、あるサブシステムが関連づけられているメインシステムが変更されたら、サブシステムはただの非合理なシステムでしかなくなるでは?という反論だ。

 

 この2つの反論を象徴的に表すものが、「ピアノのふた」の話だろう(※2)。船の難破に遭った人が、海上を漂っているところでピアノのふたを見つける。そして、その人はピアノのふたにしがみついて一命を取り留める。そのとき、その人にとって、ピアノのふたは「あれがなかったら死んでいた。ピアノのふたは、欠かすことができない」というものになる。だけれども、本当はピアノのふたより浮き輪とか、ゴムボートが漂っていたなら、そっちのほうがずっとよい。だけれども、一度ピアノのふたを選んでしまった人は、ピアノのふたのすばらしさを説く人になってしまって、なかなかゴムボートや浮き輪を発見しようという気分になることがない。

 

(※2)バックミンスター・フラー『宇宙船地球号操縦マニュアル』(バックミンスター・フラー著、芹沢高志訳、筑摩書房、2000年)

 

 これはたとえ話だが、社会にはこういうことがよくある。産業によっては、ある部品を調達するためにとても効率の悪いことをやっていたり、会計処理にすごく変なことをやっていたりすることがあるが、効率の悪いやり方であっても、一度それで物事が回るようになってしまうと、その方式で物事が回ってしまうということがよく起こる。選んでしまった後には、どうしても、一度選んでしまったことのシガラミというものから人は簡単には抜け出せない。ピアノのふたがどんなに非効率なものかが明らかにわかるような場合であっても、ピアノのふたにアイデンティティを重ねてしまうような人も出てくる。過去に行われた選択それ自体が、未来の別の選択に対して自己拘束性を持ってしまうということは頻繁に起こる。

 

 そのほかにも、さまざまな反論や、別の見方を体系的に語る切り口(※3)が登場した結果、ざっくりとまとめれば、近年の社会科学では現状肯定のために生態系を比喩として用いるという論法は、あまり重要なものではなくなっている。現状の生態系の安定のみを考えるのではなく、むしろ生態系における淘汰や変化といった事象が起こる点に着目し、生態系の変化がなぜ起こるかといった要素に説明を加えようとすることが重要性を増している。一見、安定的な生態系であっても、ほかの生態系と接触したときに、そこから持ち込まれた一種類の菌や虫によって生態系の維持が困難になったり、生態系の主役が大きく交代してしまったりということは歴史上きわめて頻繁に起こってきた。例えば、よく訓練された先進国の巨大な集権型軍事組織が、第三世界のネットワーク的な分散権力構造を持ったゲリラ部隊に必ずしも容易に勝利できないというような事例や、「破壊的イノベーション」という言葉で知られる産業における不連続な市場の主役の交代劇など、あげればいとまがない。

 

(※3)社会科学において、こうした展開を持ち込んだのは、ジョン・メイナード=スミスによる進化ゲーム理論(『進化とゲーム理論―闘争の論理』ジョン・メイナード=スミス著、寺本英+梯正之訳、産業図書、1985年)の影響がきわめて大きい。こうした観点から、社会変化について述べたものとして、簡単に読めるものでは『銃・病原菌・鉄』(ジャレド・ダイアモンド著、倉骨彰訳、草思社、2000年)などはおもしろい。

 

 生態系的な社会観をバックグラウンドとする「進化」という概念と、一直線の発展を想定するような「進歩」という概念の違いはよく強調される。「進歩」という観念はドラゴンボールの戦闘力よろしく、強いものは強く、文明化された社会は野蛮な社会よりも進んだ社会だということになる。ベジータは絶対にクリリンよりも強い。しかし社会というものは当たり前だが、そんなに単純なものではない。かつて流行していたものが新しいものによって淘汰されて絶滅するということももちろん起こるが、それだけではない。同一の事象の繰り返し、予想外の不連続な展開……といったことが頻繁に起こる。こうした社会変化の中では、プレイヤー(生物)とプレイヤー(生物)同士のさまざまな組み合わせによっては、一見、「弱い」とされていたものが、「強い」とされていたものを駆逐するようなことが頻繁に起こる。再び、ドラゴンボールの例で言えば、ブルマの戦闘力がそこまで強くないにせよ、ブルマが物語展開の鍵を握り、戦闘力が中途半端なヤムチャなんかよりも、よっぽど重要な役割を果たしてしまうことがあるようなものだろうか。生態系の比喩というのは、複雑な要素が組み合わされ、新たな事象が引き起こされるプロセスを考えることに適している。繰り返しになるが、生態系という概念は、「絶滅と淘汰」という本書でも重視されている事象に対する説明力も持つが、「変化」や「多様性」といった要素に対して説明力を持ちうることにこそ醍醐味がある。

 

 さて、本書では2Dゲームが3Dゲームの登場によって絶滅の危機に追いやられ、恐竜が鳥類になることで生き残ったように、携帯ゲーム機市場へと展開することで絶滅を免れたという説明が登場する。だが、ゲーム市場で起こったことは、単なる2Dゲームの衰退ではなかった、ということがDSの大ヒットによって明らかになったと言えるだろう。据え置き型ゲーム機の開発規模の高騰や、コアゲーマー層の消費市場の先細りといった現象の対抗する解決策に近いものとしてニンテンドーDSのヒットという現象は起こった。そこに2Dゲームも再び市場を席巻するゲームデザインのスタイルとして世界中に復活を遂げることになった。これは、明らかに進歩という概念ではなく、進化的な生態系のモデルを通して観察したほうが適切な事態であったといえる。本書が採用している生態系のモデルによって市場を考えるという観点は生きている。だが、絶滅→淘汰という観点から生態系を考えるだけでは十分ではない、ということもまた明らかだ。2Dゲームは絶滅したのではなく、単に一時的に少し影を潜めただけで、2Dゲームが繁殖するのに適した環境が訪れれば、また再び生態系の中で巨大な力を持つに至った。競争優位となる要素の変化が激しい市場ではあるが、A→B→C→Dというような単純な交代劇で捉えられる生態系ではなく、A→B→C→A ́→Ć→Dというような、高速に変則的な動きをする生態系である、ということだ。

 

 また、もう1点は生態系の変化の問題に加えて、生態系の多様性の問題も重要になってきた。ゲームのジャンルの安定化や、シリーズタイトルの比率増加に対するオリジナルタイトル数の減少といった要素がしばしば取り上げられ、ゲームの多様性が減少した(=安定性が増した?)という側面はある。欧米の据え置き型ゲームの市場や日本の携帯ゲーム機といった個別の市場を観察すれば、確かにそうした側面はある。だが、個別の市場における内部での状況から、少し視野を広げてみると、性質の異なる市場のバリエーションが飛躍的に増加していることがわかる。具体的に言えば、欧米と日本という2つのゲーム市場だけでなく、中国と韓国を含む東アジアの市場が、既存の市場とはかなり異なる性質の市場としてさらに拡大してきた。加えて、据え置き機市場、携帯ゲーム機市場、携帯電話市場、PCゲーム市場などの市場の多面化も激しくなったし、流通形態も小売店やレンタル、中古販売といった流通経路に加えて、オンラインでのダウンロード販売などの新しい流通経路の影響力が一挙に高まりつつある。つまり、1つの閉じた生態系を構築していられる状況とは違い、多様な環境を持った生態系が、相互につながりあうような世界になってきている。これらのプレイヤーがすべてアメリカを中心に、あるいは日本を中心にして、生態系の一部となっているのならば生態系は安定するかもしれないが、そのような産業構造が自生的に組み上げられるかどうか、ということは現状では不透明な状況下にある。国際分業や、さまざまなレベルでのプラットフォーム競争、標準化争いなどが繰り広げられることで、こうした多様な生態系が全体としてどのようなバランスをとるかという方向性が決まってくるものと考えられるが、一国内の閉じた生態系の安定性を考える、という形でのアプローチでは難しい状況が当面は続くだろう。

 

以上、簡単に要約すると次のようになる。
●主要なプレイヤーの交代と、プレイヤーの数の増加という現象がこの数年で顕著に起こってきた。
●すなわち、ゲームマーケットという生態系は、かなり高速に変則的な動きをするような性質を強めてきており、1つの大きな生態系が強い連結を保って存在しているというよりは、さまざまな特徴を持つ生態系がある程度のつながりを保ちつつ独立して散らばるようになってきた。
●このような状況下では、生態系の「安定性」に着目することの価値以上に、生態系の「変化」や「多様性」について考えることのほうが相対的に重要性を増してきた。

A.2 影響力のあるユーザーとは誰なのか?

 では、こうした、多様性に満ちており、変化の激しい市場に対してどのようなアプローチを考えていくことができるのだろうか?

 

 そのアプローチは、実に多種多様な解がありうるだろうが、ここでは、初めに提出したもう1つの問題―コアゲーマーの影響力を起点とするエバンジェリストのモデルがどこまで有効なのか?―を考えるという形で、1つのアプローチを提示してみよう。

 

 さて、本書の中で紹介されているエバンジェリストモデルのベースとなっているものの1つは、おそらく『キャズム』(川又政治訳、翔泳社、2002年)のジェフリー・ムーアなどに代表される新製品の普及モデルだろう。普及論などの議論では、この段階的なモデルが新製品の普及を考える上ではよく知られている。
I.新製品の発売初期にまっさきに購入を行う初期ユーザー(イノベーター)が最も数が少なく、
II.その次に先端的な製品だと察知すると購入を行うユーザー(アーリーアダプター)、
III.そしてクリティカルマスと呼ばれる一定規模を越えて普及が進むと一挙に大規模な数のユーザー(アーリーマジョリティー)を獲得することができる(※4)。

 

(※4)この段階の後に、衰退の段階もある。
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