理性を喚び起こすもの――複数の合理性と向き合う(井上明人『中心をもたない、現象としてのゲームについて』第2回)
今朝のメルマガは井上明人さんの『中心をもたない、現象としてのゲームについて』の第2回です。『伝説のオウガバトル』や『シムシティ』を題材に、社会的倫理とは別の回路で発生する価値判断の葛藤と調停、ゲームが促す「理性的な思考」の可能性について考察します。
■1−2.理性を喚び起こすもの――複数の合理性と向き合う
『伝説のオウガバトル』(クエスト、1993、SFC)というゲームがある。
このゲームの際だった特徴は、「カオスフレーム」と呼ばれる民衆からの評判を常に気にしながら軍を運営しなければならないことだ。民衆からの評判が低ければ、毎月の軍資金を民衆から寄附してもらえず武器も供給も兵士の給料もままならなくなる。民衆から見放されて軍資金を調達できなくなった軍隊は、当然とても弱い軍隊となってしまう。
では、民衆から支持されるためにはどうすればよいのかというと (1)弱い者を殺す戦い (2)僧侶など聖職者を殺す戦い (3)都市を戦場にした戦い、などを民衆の眼前で繰り広げないことだ。たとえば、強そうなバーサーカーが弱い僧侶を何人も虐殺するような戦い都市の真ん中で見せてはいけない。「人は見た目が9割」ではないが、軍隊の見え方が「民衆から見た正義」を決定する。
一方、軍隊を率いる事情からは、民衆ウケのよい戦闘ばかりでは軍に十分な戦闘経験を積ませることができず、次第に敵に勝てなくなる。民衆からの支持を得るような戦いだけを行おうとしすぎてもいけないということだ
それゆえ、プレイヤーは「戦闘に勝利する」という欲望と、「民衆の支持を得る正義の戦いをしよう」という引き裂かれた二つの欲望を同時に達成するように誘い込まれる。
結果、ほとんどのプレイヤーは同じ選択にたどり着く。それは「民衆から見えないところで汚い戦闘を続けよう」というものだ。民衆はあくまで限定合理的[1]な存在でしかないため、民衆の「視力」の限界よりも向こう側――つまり町から遠く離れた場所――ならば、いくらでも汚い戦争ができるのだ。そうして、プレイヤーは自らの創意工夫の結実として「汚くてキレイな戦争」を遂行することになる。
キラキラとした聖騎士と僧侶が街を解放しに訪れ、その一方で魔法使いやバーサーカーで構成された殺戮部隊が市街地から遠く離れた場所で敵を殲滅する。オモテでいい顔をしながら、裏でとても見せられないような戦いを展開する。こういった戦争を行うことこそが、このゲームを攻略するうえで、もっとも効率的でバランスのとれた方法なのだ。
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前回挙げた例は、目の前にいる相手が敵か味方かがわからないようななかで、反射的にそういった道徳的な逡巡を打ち破って発砲をしてしまう、という話だった。
いわゆる理性的で反省的な思考ではなく、即座の感覚的判断こそが重要になるような状況を理解するうえで、ゲームというメディアが表現できることはことのほか大きいということだった。今回、挙げるのもまた、一種の道徳的ジレンマのような話だが、そういったジレンマ状況において感覚が果たす役割ではなく、理性的な理解を促すのにもゲームは独特の仕方で機能する。最初に例に挙げた、伝説のオウガバトルはこうしたものの最たる例だろう。これは、ある意味では前回と反対のことを言っていることになる。
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理性的にものごとを考え、討論するために2015年現在、最もポピュラーなツールは間違いなく、文章によるものだ。
長い間、新聞は教養の象徴だったし、今はその機能の何割かがインターネットへの移りつつあるが、思弁的な議論の極めて多くのものが文章を介して行われているし、学術的な議論は何よりも論文という形態が重視されるし、そもそも今書いているこのテキスト自体が文字によるものである。文字という思考ツールは、その生産コストの低さ、論理性、多様な問題の扱いやすさからいっても、とても有効なツールである。
理性的思考ツールとして「文章」に対するポピュラーな対抗馬の一つは、「数式」だろう。数式は、日常言語からはどうしても距離があるため使いこなすのにトレーニングを要するのが難点だが、自然科学のようないわゆる理系とされる学問だけではなく、経済学、政治学、社会学のような社会科学諸分野においても、数学は重要視されるツールだ。経済政策、選挙制度の設計、外交政策、教育問題など、社会のさまざまな分野で数学的な理論ツールが使われ、その制度設計や運用が行われている。
そして、論理的な文章も、数学もひっくるめて、それらを理性的思考のツールとするのであれば、アンチ理性的な仕方で世界を理解する手立てとして脚光を浴びやすいのが、芸術諸分野だろう。バカっぽい言い方をすると「考えるな!感じるんだ!」というものが理性的討論に対する伝統的なカウンターであった。前回の話は、そういう話である。ゲームは、理性的討論に対する重要なカウンターとしての役割を果たしうるということだ。それゆえ、ゲームはカウンターカルチャーとも相性がよかった。[2]
「考えるな!感じるんだ!」を実現するための手立てとしてゲームが重要であると言っておきながら、舌の根も乾かないうちに反対のことを言っているようだが、ゲームは理性的な思考にとっても、時に驚くようなクリアな理解を与える。
もっと、よく知られたゲームでいえば『シムシティ』がそうだろう。効率的なプレイを追求すると、多くのプレイヤーがまず原子力発電所を建てて、交通は碁盤目状に道路を敷き詰めて、税金は住民が出て行かない範囲で高額にしていく。人口を増やし、資金を増やすということをそもそもの前提としたときに、原子力発電所が補うことのできる単位コストあたりの世帯数はそのリスクを考慮したとしてもパッと見に圧倒的に割安に見えるし、少しぐらい税金を高くしてでもインフラまわりの施設をドンドンと建てていかなければ市の発展は見込めないので、住民が耐えられる範囲で税金はとっていかないと都市計画が成立しない。
小学生の子供でもこのことは理解することができ、ゲームをはじめて数時間で、子供がいきなり「工業税率を下げよう」[3]「住宅税率を下げよう」などと言い出すので、驚いたという話もある。
もちろん、シムシティにおいて原発政策が効果的だからといって、現実世界においても原発政策が効率的であるというわけではない。シムシティにおける効率的プレイは、シムシティ世界を成立させている前提となるプログラム群によって規定されている。そして、シムシティの前提が、一定の偏りをもっており、その前提をいじれないということはしばしば批判を受けてきた。たとえば、パソコンの父と言われるアラン・ケイは教育用ツールとしてのシムシティは最低だと批判している[4]。
▼執筆者プロフィール
井上明人(いのうえ・あきと)
1980年生。関西大学総合情報学部特任准教授、立命館大学先端総合学術研究科非常勤講師。ゲーム研究者。中心テーマはゲームの現象論。2005年慶應義塾大学院 政策・メディア研究科修士課程修了。2005年より同SFC研究所訪問研究員。2007年より国際大学GLOCOM助教。2015年より現職。ゲームの社会応用プロジェクトに多数関っており、震災時にリリースした節電ゲーム#denkimeterでCEDEC AWARD ゲームデザイン部門優秀賞受賞。論文に「遊びとゲームをめぐる試論 ―たとえば、にらめっこはコンピュータ・ゲームになるだろうか」など。単著に『ゲーミフィケーション』(NHK出版,2012)。