【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第9回 | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2015.11.06
  • 井上敏樹,月神

【集中連載】井上敏樹 新作小説『月神』第9回

平成仮面ライダーシリーズでおなじみ脚本家・井上敏樹先生。毎週金曜日は、その敏樹先生の新作小説『月神』を配信します! 今回は第9回です。メルマガでの掲載は今回が最終回です。


 

 家族三人を殺し家に火を点けて以来、腰痛がひどい。腰の奥にずきりと重い痛みがある。時折、電流を流したような激痛が走る。ボディビルダーにとって腰痛は宿命のようなものでおれも何度かやった事はあるが今回は少し様子が違う。もっと嫌な感じの痛みだ。また、以前は放っておけば二、三日で治癒したものだがそれが一向に良くならない。
 おれはクマルの前では痛みに耐えて平然と振る舞う。それがクマルとの約束だからだ。約束といっても二人で交わしたわけではなくおれが勝手に決めたのだが。
 それでもおれは約束を守る。おれはずっと不死身の男でいなければならない。寺院のような肉体を持ち、いつまでも若々しいままでいなければならない。腰痛などに負けてはいけないのだ。
 おれはいつも通りに生活した。だが、卓袱台の前であぐらを掻き食事をするのも一苦労だった。なるべくゆっくりと座り、背筋を立てたまま前かがみにならないように箸を伸ばす。腰に負担をかけないようにあらゆる動作に気を配る。
 少しずつ姿勢を変えてトイレに座っても力む事ができない。腹に力を入れると刃を通されるような痛みが走るので自然と便が落ちるのを待った。
 こんな時に限ってクマルはひどくおれに甘えた。丁度生理前だったのだ。
 夜の行為の方はクマルを上にして誤魔化したがおれは達する事が出来なかった。クマルは二回目を求める。二回目が終わると三回目を求める。もちろんおれは応じてやった。それがクマルとの約束だからだ。
 痛みに耐える事よりもジムに行けない方が辛かった。日に日に筋肉が萎んでいくような感じがする。おれは普段以上の蛋白質を摂取して筋肉の維持を図ったがそれでも不安は拭い切れない。おれの肉体はおれの唯一の作品である。おれは餓鬼の頃から一度として何かを作った事がない。歌すら歌った事がない。そんなおれが丹精込めて磨いて来たただひとつの作品であるおれ自身が損なわれていくのは我慢ならない。
 おれを救ってくれたのはやはり月の力だった。腰の異常を感じたその日から、おれはクマルの目を盗んでおれ流の治療を続けていた。床の間の月の石を腰に乗せ、うつ伏せになって瞑想をする。月の光が体内に満ちていくのをイメージする。最初のうちは効果がなかったが、根気よく続けているうちに次第に痛みが薄らいで来た。
 十日もすると完治とはいかないまでも、痛みに身構える必要がないぐらいに回復した。そうなるとやるべき事がふたつあった。十日間の消極的なセックスを埋めるためいつもより激しくクマルを抱く事とジムに行く事だ。おれは五回六回七回とクマルをいかせ、ジムでは半日かけて全身を鍛えた。トレーニングが終わると持参したバナナとプロテインを胃袋に収め、尻にステロイドを打つのを忘れない。
 ジムの帰りに病院に寄った。
 腰の治療のためではない。おれは定期的に病院に通っているが主な目的は成長ホルモンを打つ事にある。ステロイドと糖尿病のインシュリンも同じ病院で受け取っている。
 病院はジムからそう遠くない住宅街にあって面倒はない。おれがその病院に通うようになってから十年か十五年か二十年、とにかくもう随分になる。その間、おれはずっとステロイドと成長ホルモンを摂取し続けて来た。ステロイド同様、成長ホルモンも筋肉の維持、発達には欠かせない。特におれのように老年になれば尚更だ。年と共に失われていくホルモンを補ってやる事で筋発達ばかりか免疫力、性的能力、心肺機能等の向上が期待出来るのだ。
 おれは病院の前で立ち止まった。花崗岩の塀に嵌め込まれた表札の、『松村医院』の四文字が消えかけている。雑草の生い茂った庭には名前の分からない椰子に似た樹が植えてあり、平屋の屋根には積年の落ち葉が茅葺きのように積もっている。
 この病院の暗さは何年も前に診療をやめているせいであり、また、おれが松村の過去を知っているからそう感じるせいもある。松村は妻を亡くした直後に病院を閉めた。今、奴はおれのためだけに病院を開ける。
 玄関ベルを鳴らすと、ねじ込み式の鍵を開け曇り硝子の引き戸の向こうから松村が顔を出した。
 どうぞ、先生、とおれを迎える。
 松村はおれを先生と呼ぶ。おれが松村の女房を殺してやってから先生と呼ぶ。
 松村はおれより年上だ。幾つだったかは忘れたが、多分、八十何歳かだ。女房の付き添いとして初めて会った時はまだ若さの名残りをとどめていたが今や立派な老人だ。老人も色々だが松村の場合はその佇まいに品がある。それは篠原も同じだ。おれのエージェントである篠原と主治医である松村はふたりとも品がよく、その点では遙かにおれを凌いでいる。
 いかがですか、先生、体の調子は?
 診察室の丸椅子に座ると松村が訊ねた。
 ああ、問題ない、とおれ。おれは腰痛の事には触れない。黙っている。
 インシュリンは忘れずに打っていますか?
 そう聞かれてもちろんだと嘘をついた。おれはあの注射をよく忘れる。打ったかどうか思い出せない時もあえて打たない。これがステロイドなら二度打ちになっても構わない。もう一度打つ。
 大体、おれは自分が糖尿病だとは思っていない。自覚症状がまるでない。糖尿患者の尿は甘い匂いがするというがおれの尿は極く普通だ。甘くはない。
 おれは松村を人間として信用しているが、医者としての腕はどうなのだろうか。松村が主治医になってからおれが世話になったのはステロイドと成長ホルモンの投与を別にすれば喧嘩に巻き込まれたり自殺志願の依頼者の抵抗に遇って怪我をした時ぐらいだ。病気になった事は一度もない。松村の意向で定期的に血液と尿の検査をしているがずっと健常体だった。それが一年程前に糖尿だと診断された。きっと誤診に違いない。おれが病気であるはずがない。
 松村も分かっているはずだ。おれは普通の人間ではない。
 おれが腰痛の件を黙っていたのには理由がある。松村の前で、おれは超人でいたいのだ。腰痛や糖尿とは縁のない、不死身の男でいたいのだ。いや、事実、おれは不死身の超人であるはずだ。だからこそ松村の妻はあの時、おれを拝んだのだ。
 十年か十五年か二十年前、おれは篠原からの連絡を受けてこの病院を訪れた。
 以前の松村病院は今と違って隅々まで掃除が行き届き、今は外されてしまったが松村が趣味で撮ったという風景写真が廊下の所々に飾られていた。病院独特の匂いの代わりに甘い芳香剤の香りが漂っていたのを覚えている。
 松村はおれを個室に案内し、ベッドで上体を起こしている女房を紹介した。
 女房は包帯だらけだった。衣服から覗いている素肌は顔、両腕、両脚と、全てが包帯で覆われていた。火傷です、と松村が説明した。
 死にたがっているのは女房の方だった。だが、女房は身の上話が出来なかった。痴呆症だったのだ。松村によれば、女房は火傷をした時だけ正気に戻る事が出来るという。女房は体に熱湯をかけたりガスで焼いたりして辛うじて自分を維持して来た。だが、それももう限界だった。女房は完全に自分を失う事を恐れていた。その前に死ぬ事を望んでいた。
 よろしくお願いします、そう辛うじて呟き女房はおれに頭を下げた。
 苦しまないようにお願いします、と松村が言う。
 おれはベッドに近づき、包帯だらけの、ほっそりとした女の体を抱き上げた。
 おれの腕の中で、女房は両手を合わせておれを拝んだ。包帯の下の目が、涙ぐんで笑っている。だが、その光はすぐに淀んだ。正気の光を雲が覆った。
 おれは大きく息を吸い、下腹に意識を集中した。おれの体には月の光が溜まっている。下腹の奥に居座る玉のような物に意識を向けその光を解放する。あっと言う間に汗が滲み、全身の産毛が逆立っていく。体の表面に帯電した月の光が伝導し、女房は再び正気に戻った。
 松村に腕を伸ばし、あなた、と呟く。
 松村はそれに応えて女房を呼んだ。二度、女の名前を繰り返し呼んだ。おれは女房をひねり殺した。
 あれ以来、おれを先生と言い、松村はおれの主治医になった。
 先生、ステロイドの消費が早過ぎます、問診の末に松村が言う。ちゃんとサイクルを組んでいただかないと。
「心配するな。おれの体の事はおれが一番分かっている」
 これはいつものやりとりだ。
 松村はおれの体を気づかっている。ステロイドを使い過ぎると様々な副作用が出ると心配している。
 最初の頃はおれも松村の指示に従いサイクルを組んだ。なにも難しい事ではない。ひと月ステロイドを使ったならひと月休む。それだけの話だ。だが、薬を抜いている間にいくら食事に気を配りトレーニングの量を増やしてもどうしても筋肉が落ちてしまう。だからおれはもう何年も前から休むのはやめてずっとステロイドを打ち続けている。
 先生、それが、ですね、と珍しく口籠もって松村が言う。
 前回の血液と尿の検査結果が出たのですが、少し気になる点がありまして。
 松村はパソコンのデータを見つめている。その数値の意味するところをおれは知らない。
「何だ、はっきり言え」おれは椅子から立ち上がって松村を見降ろす。別に威嚇しているわけではない。腰が痛くなったのだ。「糖尿が悪化したとでも言うのか?」
 いえ、糖尿の方は安定しています。
「じゃあ、なんだ、言ってみろ」
 今の段階ではまだなにも言えません。
 おれを見上げる松村の目に怯えはない。ただ、敬意があり、気づかいがある。
 紹介状を書きますからもっと大きな病院で精密検査を受けてください。
「いつも通りにしろ」おれは松村に命令する。「ステロイドと成長ホルモンだ」
 結局、おれは望むものを手に入れて病院を出た。松村はおれの脇腹に成長ホルモンの注射を打ち、一カ月分のステロイドとどうでもいいインシュリンを出してくれた。その代わりにおれは近いうちに必ず松村が紹介する病院に行くと約束した。それが松村の出した条件だった。
 家までの道のりを歩きながらおれはなおも松村の医者としての能力を疑っていた。糖尿が治っているのがその証拠ではないか。まあ、奴は安定しているなどと表現したが、本当は治っているに違いない。いや、インシュリンをほとんど打たないのに治るはずがなく、つまりは誤診だったのだ。と、いう事はおれの体になんらかの異常を発見したという今回の見立ても信用するに値しない。
 松村め、しょうがない奴だ。
 そんな事を考えながら歩いていると、家の前でおれを待つクマルの姿が目に入った。おれを見つけて両手を振るクマルは満面の笑みを浮かべている。普段ならこの時間には料理をしているはずのクマルが外でおれを待っているとは珍しい。
 どうかしたのかと訊ねるおれに、クマルは早く店に入ってみろと袖を引っ張る。 
 なにか気づかない?
 そう言われておれはぐるりと店内を見回した。すぐに気づいた。
 恐竜の化石が消えている。店の片隅で小さな竜巻のようにうねっていたあの化石がどこにもない。
 売ったのだ、とクマルは説明した。それがクマルがはしゃいでいる理由だった。言葉の分からないクマルがおれのいない間に店に立ち、初めて役に立ったと喜んでいる。
 どうしたの?
 おれが黙ったままでいると、クマルは不安そうにおれの顔を覗き込んだ。私、いけない事した?
 そんな事はない、よくやった、とおれはクマルの頭を撫でてやる。ただし、これからはおれに聞いてからにしろ。勝手に売るな。
 うん、分かった、と頷くクマルにおれはいつ誰に化石を売ったのかと問い質した。
 ふたり連れの男に。ついさっき。
 クマルの言葉に、おれは店から走り出した。
 おれには心当たりがあったのだ。
 しばらく前に目つきの悪いサンダル履きの男がふらりと店にやって来て恐竜の化石に興味を示した。
 おれはすぐにぴんと来た。こいつは化石を買い取って転売するつもりなのだと。それがこいつの仕事なのだと。値段を訊ねる男をなにも言わずに追い返したが、それから数日後、今度は仲間と一緒にトラックで乗り着けると一万円札で膨らんだ茶封筒をおれの前に叩きつけた。
 これで売ってくれ。半分凄むようにそう言った。
 籐椅子に脚を組んで座っていたおれは黙ってまま腰を上げた。おれが立ち上がると恐竜の頭蓋骨の下に頭が達する。巨大な骨の連なりがおれの背後に後光のように広がって、おれと恐竜がひとつになる。
「こいつは売り物じゃない。帰れ」
 おれが甘かった。あの時、おれは奴らが納得したとものと思っていた。店にいる限りおれと恐竜は一心同体であり、いくら金を積んでも無駄なのだと理解したものとばかり思っていた。だが、甘かった。奴らはおれの留守を見計らってクマルを騙すような卑怯者だったのだ。

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