【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(中編) | PLANETS/第二次惑星開発委員会

宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2018.05.16

【対談】加藤裕康×中川大地 日本で〈eスポーツ〉を定着させるには?———ゲーム文化と産業の本質から(中編)

写真提供:映画『リビング ザ ゲーム
横浜シネマリン(〜5/25)ほか、山口情報芸術センター[YCAM](5/18〜20)、シネモンド(金沢市・5/26〜6/1)にて順次公開
ⓒWOWOW/Tokyo Video Center/CNEX Studio

ゲームセンター文化論の著者でゲームセンター研究の第一人者である社会学者の加藤裕康さんと、『現代ゲーム全史の著者である評論家の中川大地さんの対談の集中連載。全3回のうち中編では、話題となっているプロライセンス制度を含めた〈eスポーツ〉を取り巻く現状について分析します。(構成:藪和馬+PLANETS編集部) ※本連載の一覧はこちら

eスポーツが保つべき「遊び」の本質とは

中川 前回の議論で、いわゆる「eスポーツ」をプロゲーム産業の振興に限定せず、デジタルゲームの競技大会と一般スポーツの文化的な土壌がどう違うのかから考えていく話題に行き着きました。そこでもうすこし掘り下げておきたいと思うのは、ゲームセンター的な第四空間で得られる、みんなが感じている価値は、武道を近代スポーツ化した嘉納治五郎的な求道心とどのように違うものとして言語化すべきなのか、ということです。eスポーツとしてのゲームでも第四空間としてのゲームのどちらも勝つことだけが目的じゃないし、ゲームによって稼ぐことが目的でもなくて、基本的にはそれぞれ自己のための価値じゃないですか。同じく自己にとっての価値でありながら、どう違うんでしょうか。

加藤 遊び論に戻るんですけど、現在、ゲーム研究の分野で最も多い研究領域は効果研究です。つまりゲームをやることによって、その人がどういう影響を受けるのかという研究が多い。たとえば、人は暴力的になるとか、社会的に不適応になるとかが研究のテーマとなり、量的調査や実験をするわけです。

中川 一昔前に物議を醸した、『ゲーム脳の恐怖』的な方向性ですね。

加藤 でも、カイヨワが言っていることは、ゲームは遊びであるから、暴力的なゲームをプレイしたとしても、遊びなのでいつでもやめることができます。それが現実の戦争だと、一端の歩兵がやめたいと言ってもやめられない。敵前逃亡したら、場合によっては処刑されちゃうわけですよ。そういう強制的な環境の中で、正当な人殺しが行われるわけです。
でも、ゲームは、たとえ戦争のシミュレーションゲームが作られていたとしても、そこで遊んでいるという意識は常にあるはずなんですよ。
同じようにスポーツがなぜ遊びに分類されるのかというと、スポーツはやめようと思ったらやめられるし、実際の命のやり取りではありません。それは特に近代スポーツの特徴であると思います。ルールによって、そこは明確に守られるわけですよ。
そういう意味ではゲームもスポーツと非常に似ていて、そこに本当の命のやりとりがあるのではなく、想像の中で遊ばれるものであると思うんですね。ホイジンガは、イメージを心の中で操ることから遊びが始まると論じていますけれども、子どもでさえも、ごっこ遊びの中で本当に自分が演じている対象になってしまったとは考えません。そこが抜け落ちてしまうと、ゲームをやると何か悪い影響を受けるんじゃないかと思われがちになるんです。

中川 つまり、嘉納治五郎がスポーツとしての柔道を実際の殺傷とは切り離したような意味で、遊びの持つ現実からの独立性に立脚することで「悪い影響」を切り離しつつ、さらに「道としての完成を目指す」とか「自己修養に役立つ」みたいな価値を打ち立て、近代スポーツ的な規範性を人々に納得させるイデオロギー再編による社会化をはかる方向性が、部活的なモデルとしてのeスポーツになるわけですね。

加藤 はい。しかし、ホイジンガの言葉を借りると、遊びはそれ自体でおもしろい、価値のあるものとして認められるものなんですよね。にもかかわらず、近代スポーツの流れや、今のゲームの流れのような部活動的なものをやることによって、自己修養や成長につながるものとか、価値のあるものだと切り分けちゃうわけですよね。そうなると、何かのためにやるものはもう遊びじゃないわけですよ。

中川 自己修養になるとか道を追求できるとか、それを認識した時点ですでに遊びが遊びたる所以を離れてしまっているということですね。遊びの持つ無目的な自由さの面を担保し続けるのが、第四空間的なゲーム文化であると。

加藤 だけど、おもしろいことに、実は遊びは適当にやっていたらつまらない。どんなゲームでも、技の掛け合いや駆け引きなどを一生懸命取り組むから面白くなるんですよ。ストイックに突き詰めていくのは真面目なことだから、遊びではないかというと必ずしもそうではありません。真面目に取り組んだものがふとむちゃくちゃ楽しくなっていることがあり得ます。むしろ一生懸命取り組まなければ、面白さがわからなくなるものもあったりすると思うんです。そうやって考えると、部活動的なものがダメなのではなくて、それだけが最高の価値であると言うような人が出てきたり、そういう言説が流布することこそ、危険で注意したいなと思うんですね。部活的なものやスポーツも遊びの要素を含むわけですから。逆に遊びの分野だけが最高のものとみなしたときにも、僕はちょっと危険を感じるんですよ。
つまり、流動的なものであることを踏まえた上で、どちらかにバランスがブレることを僕は注意したいなと思っています。

中川 本当に拮抗的なバランスを維持していくことこそが大事だと思いますよね。そのバランスを能動的に維持することを僕は中沢新一さんの言葉を使って、〈非対称性の論理〉と〈対称性の論理〉の複論理(バイロジック)として捉えています。つまり、真面目な修練によってルールや技術に習熟し、自らを研ぎ澄ますことで他者と差別化をしていく〈競技〉化のモーメントが〈非対称性の論理〉。対して、遊びだからいつでもやめてカオスに戻ることができる自由さがあるからこそ、勝ち負けを超越した楽しさを見出せる〈遊戯〉のモーメントが〈対称性の論理〉。
この二つの論理が協働してバイロジカルに作動しているからこそ、ももちさんや梅原さんのような境地が成り立つんだと思います。

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