宇野常寛責任編集 PLANETS 政治からサブカルチャーまで。未来へのブループリント

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  • 2021.02.03

高校野球の登板過多・坊主頭と「自主性のパラドクス」|中野慧

本日お届けするのは、ライター・編集者の中野慧さんによる連載『文化系のための野球入門』の第4回です。今回からは高校野球にスポットをあてていきます。
昨今は理不尽な根性論や封建的な体質の前時代性が取り沙汰されることの少なくない高校野球。その元凶とされがちな高野連ですが、事はそう単純ではないと中野さんは指摘します。
今回は、高校野球のファッション=坊主頭から、生徒たちの「自主性」の問題について考えます。

中野慧 文化系のための野球入門
第4回 高校野球の登板過多・坊主頭と「自主性のパラドクス」

自浄作用を働かせはじめた高校野球

今回からは「高校野球論」をテーマに論じていきたいと思います。
高校野球というのは、極めて問題を含む文化であると言われます。そして本連載に対しても、苛烈な高校野球批判を展開することを期待する向きもあるかもしれません。
しかし実は、私自身、いまの高校野球を批判したいとは、本気では思えていません。
というのも、高校球児たち、そして高校野球に関わる大人たちが、少しずつ自主的に考えて自浄作用を働かせるようになってきているからです。
たとえば高校野球では、特に夏の甲子園において投手が連投によって酷使され、選手生命をの危機に晒されてしまうことが、かねてから問題視されてきました。
そんななかで、2019年は2つの象徴的な事件が起こりました。
ひとつは、プロ注目の投手で高校生ながら160km/hを超える速球を投げる佐々木郎希投手(大船渡高・当時)が、夏の甲子園の予選にあたる地方大会(岩手大会)の決勝で登板しなかったということです。このときは、大船渡の國保陽平監督が、すでにこれまでの試合でたくさんの球数を投げてきた佐々木が決勝で登板することによって起こる怪我の危険性を考慮し、「投げさせない」という決断をしたわけです。
これは当時、野球ファンのあいだでは大変な論争になりました。当然「勝てば甲子園」なわけですから、エースである佐々木を投げさせるというのが、これまでの高校野球においては当然の判断だったわけです。反対する人の意見は、「佐々木はプロ野球に進むからこれで終わりではないだろうけど、他の高3の選手たちは高校野球が最後なのではないか。佐々木一人の将来のために、事実上甲子園を諦めるのはいかがなものか」というものでした。
しかし、現実には佐々木は投げず、大船渡も甲子園出場を果たせず、佐々木本人は10月のプロ野球ドラフト会議で4球団から1位指名を受け、抽選の末に千葉ロッテマリーンズに入団しています。

さらにもうひとつ。新潟県高校野球連盟が、2019年春の大会から、県で独自に球数制限を導入することを発表したものの、それに全国の都道府県高野連を統括する日本高等学校野球連盟(本連載では、こちらの全国組織のほうを「高野連」と記載することにします)が待ったをかけたという騒動です。
しかしその後、この件は新たな展開を見せます。新潟県高野連の問題提起に日本高野連が応じて有識者会議を発足、2020年春の選抜から、「1人当たりの1週間の総投球数を500球以内とする」というガイドラインが適用されることになりました。細かく言えば、私自身は「1週間で500球以内」というのは、投手の怪我防止という観点では実効性に疑問を持ちますが、今までは完全に上意下達の組織と考えられていた高野連が、新潟県高野連の問題提起を独走と捉えずに応じ、改革の姿勢を示したことには、一定の意義があると考えます。

一般的に高野連というのは、「悪の組織」と思われていることが多いのではないでしょうか。特にネット上では、電通、JASRACに続く「悪の権化」と見做されがちです。
しかし、現実の高野連は──1970年代の佐伯達夫会長時代はたしかに非常に厳格で鉄面皮な組織であったと言われていますが──今はだいぶ柔軟な組織になりつつあります。基本的には「高校野球を、高校球児を愛するおじさんたちの集まり」でしかありません。
導入された球数制限が甚だ不十分なものであったとしても、高野連の改革スピードがまだまだ遅いものであったとしても、私は高野連に対して苛烈な批判を展開する気には、どうしてもなれないのです。実は、彼ら高野連の頑張りがあるからこそ、甲子園という大きな舞台、そして都道府県大会では立派な球場で、高校球児たちは試合ができる──そういった点を見ないふりをして、藁人形のように高野連を徹底批判するということは、スポーツマンの一人として私はなかなかできないというのが正直なところです。
そして、高野連がかなり遅くとも自浄作用を働かせはじめたのには、これまで市井の人からスポーツジャーナリストまで多くの人が問題を指摘してきたからだと思います。なかでも広尾晃さんの『野球崩壊』、氏原英明さんの『甲子園という病』、中島大輔さんの『野球消滅』といった近年立て続けに出版された問題提起的な著作は、変化を後押しする役割を担っていると感じます。

21世紀、高校野球で丸刈り頭が「復活」した

では、私は何を書くというのでしょうか(笑)。高校野球に関しては、もうだいぶ書きつくされているしな……というのが正直なところです。
実は本連載「文化系のための野球入門」では、2015年夏に高校野球について取り上げています。「文化系のための〜」という連載タイトルどおり、徹頭徹尾ひねくれた視点で書いているのですが、今でもなかなかに予見的だったと思う記述がいくつかあります。繰り返しにはなってしまいますが、その部分をアップデートして書いてみようと思います。

まず論じたいのが、高校野球の「ファッション」の問題です。一番本質から遠そうでいて、私はとても本質的な問題だと考えています。
なんといっても、高校野球=坊主頭、という観念は根強いものがあります。この高校野球=坊主頭というのは今も昔も、高校野球人口拡大のためにはネックになってしまっています。実際に「坊主が嫌だから」という理由で、中学で野球を辞めてしまう子どもたちも少なくありません。
そして、なぜ坊主頭がこれだけ定着しているかというと、高校野球は戦前から人気があり、戦前の男子高校生(当時は「中学校」という名称でした)の一般的な髪型が坊主頭で、それが現在に至るまで引き継がれた……というような説明がよくなされます[1]。また、「夏の暑い時期に練試合・練習をするのに坊主頭は涼しくて機能的だから」といった機能面からの説明もなされます[2]。

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