ヴィジュアル系の海外展開から〈クールジャパン〉を一方的に考える(市川哲史×藤谷千明『すべての道はV系に通ず』第14回)【不定期連載】
80年代以降の日本の音楽を「V系」という切り口から問い直す、市川哲史さんと藤谷千明さんの対談連載『すべての道はV系に通ず』。今回のテーマは、ヴィジュアル系の海外進出です。90年代以降、積極的にアジア進出してきた日本のV系バンドですが、近年はK-POPの勢いの前に元気がありません。なぜ日本のエンタメは海外で勝てないのか、その原因について掘り下げます。(構成:藤谷千明)
ビジュアル系の海外進出の先駆者たち
藤谷 今回は、ヴィジュアル系と海外展開をテーマに話をしたいと思います。 ここ20年くらいの流れを簡単に説明しますと、90年代のX JAPANの海外進出宣言を始めた、90年代末からゼロ年代頭にあったGLAYやLUNA SEAのアジア公演などありましたよね。そことは別の流れ――インディーズのヴィジュアル系バンドたちが,インターネットを経由してアメリカのアニメ・コンヴェンションに参加するようになりました。
その一方で、DIR EN GREYやMUCC、MIYAVIらが単独ツアーを行うようになり、07年にはアメリカでYOSHIKIが関わり、MIYAVIらも出演した《J-Rock Revolution Festival》なんてイヴェントもありました。これ以降もラルクやX JAPANのMSG公演を筆頭に、定期的に海外ライヴを行うバンドは規模を問わず存在する……という形です。今年はX JAPANが《コーチェラ・フェスティヴァル》に出演しました。
市川 そもそも藤谷さんとは知り合ってもう長いけど、最初のころから不思議だなと思ってたのは、〈V系と海外進出〉みたいなことをやたら意識してるじゃない? V系シーンにおいて少なくともYOSHIKIだけは1990年前後から「海外進出する!」とずーっと一人で宣言し続けていたんだけれども、我々世代はV系のことをやたら独創的で面白いけどあくまでも〈日本独自のドメスティックなロック〉と捉えていたわけ。しかも商業的にもカルチャー的にも一大ムーヴメントを築いてたのだから、「なんでこのひとは海外の評判や評価を気にしてるのかしらん」と。
藤谷 気になるというか、X JAPANやDIR EN GREYの海外での活躍は勿論のこと、10年以上前から都内の小さなライヴハウスのイヴェントでも、海外からのお客さんを少なからず目にすることがありました。だから、「日本国内でもあまり知られてないバンドを、こんなスーパーの地下にあるライブハウス(※高田馬場AREA)まで観に来るなんてすごいなー!」みたいな。
市川 純真な童ですかあんたは。
藤谷 Instagramの〈J-ROCK〉のタグをみると、BABYMETALやONE OK ROCKと並んで、例えばMEJIBRAYだったりNOCTURNAL BLOODLUSTだったりとインディーズのヴィジュアル系バンドの名前が目立つんです。日本国内市場の規模を考えるとアンバランスですよね。実感としては「海外進出!」「クールジャパン!」というよりは「知らないうちに日常になっていた」というか。例えるなら、新宿のゴールデン街がここ数年外国人観光客が押し寄せてきてるのに近いというか……ドメスティックなことだからこそ、一部の人を惹き寄せているというか。
市川 需要があってこそ、だよなぁ(←しみじみ)。ただ海外進出に関して忘れちゃいけないのは、90年代というあのV系黄金時代においてバンド自らが「海外進出するぜ!」と積極的だったケースは、前述したYOSHIKI以外に実はほとんどいなかった気がするよ。実際に海外公演が目立ち始めたのはゼロ年代だし――最初はアジア圏でさ。 たとえばラルクだと、2005年にソウルと上海で、2008年には上海台北ソウル香港そしていきなりパリ(苦笑)。で2012年にはもう、香港→バンコク→上海→台北→唐突にマディソン・スクエア・ガーデン(爆笑)→ロンドン→パリ→シンガポール→ジャカルタ→ソウル→ホノルル……ほとんど実写版“アジアの純真”みたいな。
藤谷 ……刺しますよ?
市川 私の記憶ではあの当時、本人たちは誰一人「海外進出したい」なんて思ってなかったはず。TETSUYAなんか「行ったからって何になるんですかねー」と冷めきってたもの、心の底から。「事務所の社長が金儲けしたいだけ」とまで言ってたな。まあ実際、日本の音楽市場が完全に頭打ちどころか下落傾向にあっただけに、海外進出がビジネスチャンスというか打開策のひとつと期待されたのは事実だけど。豪華ライヴDVD出す小商いもできるし。ラルクに関していえば、何年かに一度の再稼働の際の〈わかりやすい手続き〉として重宝されてたんじゃない?
藤谷 相変わらず身も蓋もないおっさんですね。当初はそうだったかもしれませんが、世界ツアーのドキュメンタリー映画『Over The L’ Arc-en-Ciel』内のインタヴューでも、メンバーが「海外での動員の少ない地域」を明確に意識した発言をしていたし、課外活動ですがHYDEのVAMPSが尋常じゃないほどの海外ツアーを繰り返していたのは、ある種の使命感の発露でもあるのでは。
市川 うーん。でもゼロ年代末期に再開幕してしばらくの頃のLUNA SEAは、まだ本人たちも再始動の意義や大義を見い出せなくて、「欧州ライヴとかの海外公演を目的に仮設定したことで、とりあえずベクトルを収束できた」とSUGIZOが漏らしてたしなぁ。
藤谷 どうして市川さんの時代のひとたちって、海外も活動範囲に入れることに対してネガティヴなんですか。悲観的すぎるというか。
市川 うん、猜疑的というか価値を見い出せないんだよ昔からずっと。90年代には、V系以外でも海外ライヴに積極的なバンドがいたことはいた。THE BLANKEY JET CITYもTHE MAD CAPSULE MARKETSもそうだった。ただし「向こうでひと旗あげるぜ!」という海外進出願望ではなく、「俺らの音を聴いた本場のガイジンが、どんな反応するか見たいんだわ(←ベンジーの物真似)」的な腕試し、道場破り的なライヴハウス廻りだったわけ。それはそれで美しかったなぁ(←遠い目)。 同じ頃だと思うんだけど、ロンドンでTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTが何本かライヴ演るってんで同行したのよ。そのときたまたまGLAYのTAKUROもオフで現地に来てたので、一緒に観に行ったの――トラファルガー広場で待ち合わせしてさ。
藤谷 おのぼりさんですか。
市川 当時のTAKUROはまだまだ発展途上中だったから、そうかもなぁ(苦笑)。でミッシェルのスーパー・モッズな轟音は、小さなライヴハウスだったけど初見の英国人を一瞬で叩き潰したんだけど、その光景を目の当たりにした〈史上最大のいいひと〉TAKUROは「俺こんなとこでライヴ演る勇気ないっス」と言ってたよ(苦笑)。あれから四半世紀以上の時が過ぎ、いつの間にか当たり前のようにV系バンドたちが渡航するようになるとはなぁ。