『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(前編)|福嶋亮大
5月13日の『シン・ウルトラマン』公開を記念し、文芸批評家の福嶋亮大さんの著書『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』の第二章を前後編で特別公開します。
高度経済成長期に生まれたウルトラマンは、戦後サブカルチャー史の文脈から見たとき、それ以前のヒーローもののドラマと比べてどういう特色を持っていたのでしょうか?
※本記事は、福嶋亮大『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』(PLANETS 2018年)所収の同名章を特別公開したものです。 PLANETSオンラインストアでは、本書を故・上原正三さんと著者・福嶋亮大さんによる特別対談冊子付きでご購入いただけます。
福嶋亮大 ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景
第二章 ヒーローと寓話の戦後文化簡史―宣弘社から円谷へ(前編)
前章で見たように、私は昭和のウルトラマンシリーズには大きな断層が二つあり、そのそれぞれが時代相を映し出すものだと考えている。第一の断層は『ウルトラQ』におけるシニシズムが、ウルトラマンという高度成長期の生んだ突飛なヒーローによって乗り越えられたことである。第二の断層は『帰マン』から『A』にかけて、大きな物語や大きな風景よりも個別ばらばらの心が、科学の夢よりも反科学的な怪奇性やオカルティズムが上昇したことである。このポストモダン化によって、公的な理念や社会的なコンセンサスの代わりに、私的な妄想やスポ根的な身体性が際立ってくる。
しかし、実はもう一つの隠れた大きな断層がある。それはウルトラマンシリーズそのものがそれ以前の、一九五〇年代から六〇年代初頭にかけての日本の地理的想像力を切断して出てきたということである。第一の断層(シニシズムから科学の夢へ)も第二の断層(社会から心へ)も、この世界認識の変化の後に生じたものなのだ。そこで本章では歴史をもう一段階遡り、文芸批評の分析手法も交えながら、ウルトラマンシリーズの「前史」のサブカルチャーを輪郭づけてみたい。結論から言えば、それは戦時下の「大東亜」の記憶と深く関わっている。
1 大東亜の亡霊たち―ウルトラマンの前史
「用心棒」としての男性ヒーロー
戦後のテレビヒーローの歴史を考えるとき、ウルトラマンシリーズ以前に宣弘社プロダクションのジャガーテレビ映画があったことは重要な意味をもつ。『月光仮面』(一九五八〜五九年)、『豹の眼』(一九五九〜六〇年)、『快傑ハリマオ』(一九六〇〜六一年)といった宣弘社のヒーローもののドラマは、戦後の草創期のテレビのなかに、戦前・戦中の日本の地理的想像力を呼び込んだユニークな作品群であった。
もともと、宣弘社は社長の小林利雄の指揮のもと、敗戦直後にネオン、駅広告、シネサイン、街頭テレビ、ビルボード等を精力的に手掛けた広告会社であり、戦後日本の都市風景の形成にも大きな貢献をした。例えば、宣弘社が銀座で展開したクリスマスのデコレーションはその後日本の冬の風物詩となり、一九五一年に小林の依頼で作られた猪熊弦一郎《自由》は今日のパブリック・アートの先駆的作品として、現在でも上野駅中央改札を飾っている[*1]。さらに、宣弘社は『ウルトラマン』にも広告会社として関わっており、TBS、円谷プロ、そして大スポンサーの武田薬品のあいだの関係を調整することになった。
しかも、ここで面白いのは、宣弘社がたんなる広告代理店では終わらず、小林のハリウッドの視察をきっかけに「宣弘社プロダクション」を創設し、草創期のテレビ映画の製作にも乗り出したことである。広告からコンテンツへのこの「越境」の産物として、日本初の本格的な「国産テレビ映画」である『月光仮面』が作られ、一九五八年に放映される。川内康範が原作と脚本を担当し、プロデューサーの西村俊一が月光仮面の奇抜なデザイン(バイク、ターバン、サングラス、二丁拳銃……)を構想したこのテレビドラマは、日本の誰もが知る大ヒット作品となった。「憎むな!殺すな!赦しましょう!」という『月光仮面』の有名な寛容のテーマは、苦い敗戦を経た戦後日本の新しい理想を示そうとしたものであったと言えるだろう。
一九二〇年生まれの川内康範もまた、宣弘社とは別の意味で「越境」を繰り返した人物である。彼は駆け出しの頃に東宝の演劇部の秦豊吉(丸木砂土)のもとで修行し、人気絶頂の喜劇役者古川ロッパや榎本健一(エノケン)らとも知り合うとともに、後にはそのマリオネット劇の知識を円谷英二に買われて、東宝の戦時下の人形劇映画『ラーマーヤナ』の脚本を担当した。師匠の秦にも似た脱領域的な才人であったと言える(後には歴代首相との交友でも広く知られる)。その川内が「脇仏」の月光菩薩をモチーフにした月光仮面について、「正義」そのものではなく、あくまで「正義の味方」だということを──つまりアメリカのスーパーマンのような「超人」ではなく「神でも仏でもない、あくまで人間」として正義に与するのだということを──後年のインタビューで強調していたのは、戦後文化史を考えるのにきわめて示唆的である。
月光仮面は正義の味方=助っ人に留まることによって、自らの存在意義を獲得した。このような男性ヒーローのあり方は「生涯助っ人」を信条とした川内自身に留まらず、『七人の侍』(一九五四年)や『隠し砦の三悪人』(一九五八年)、『用心棒』(一九六一年)等で「助っ人」としての三船敏郎を撮り続けた戦後の黒澤明の映画、さらには八〇年代以降の宮崎駿のアニメでも反復された。現に、宮崎の描く少年は自分自身が超人になるのではなく、常に美しい少女を助ける「正義の味方」(高畑勲の評を借りれば「エスコートヒーロー」)であろうとするのであり、その限りで『月光仮面』の系譜に属している。男の主役が正義の脇仏=用心棒に留まることで、かえってヒーローになり得る──、この『月光仮面』的な逆説には、戦後日本の男性性の構造、特にその屈折したナルシシズムが先取りされていた。
さらに、月光仮面のような「変装ヒーロー」に先立つ存在として、同じく拳銃を扱う探偵・多羅尾伴内も忘れるわけにはいかない。一九四六年公開の松田定次監督『七つの顔』(主演は片岡千恵蔵)では、昭和一六年(真珠湾攻撃の年)にぷっつりと消息を絶った怪盗の藤村大造こと多羅尾伴内が、変装に変装を重ねながら、事件を探偵として解決した後、これからは正義を実行する「真人間」になるのだという決意を語る。伴内の七変化の「変装」が決してウルトラマンのような力強い超人になることではなく、むしろ老人、奇術師、運転手等のような道化的存在になることであったのは重要である。あえて弱々しい存在に身をやつす伴内の姿は、まさに敗戦直後の男性ヒーローにふさわしいものであった[*2]。
大東亜共栄圏の亡霊とヒーローの存在理由
話を戻せば、銀座の雑居ビルに陣取りながら、広告(ネオン)とコンテンツ(テレビ映画)をともに手掛けた宣弘社は、メディアの分業が未分化であった時代を象徴している。一九五八年から宣弘社の企画課に在籍し、伊上勝(井上正喜)や上村一夫とも同僚であった一九三七年生まれの阿久悠──後に『ウルトラマンタロウ』や『ウルトラマンレオ』、『宇宙戦艦ヤマト』の作詞を担当することになる──は、宣弘社のアナーキーさに「時代の変わり目とか、新しい職種の誕生とか、それによって生じるカオス」を感じとっていた[*3]。
それとともに、ここでは、宣弘社の一連のテレビ映画が戦前・戦中の地理的想像力を継承したことに注目したい。当時の映画の全盛期にあって、テレビ映画はしばしば「電気紙芝居」と揶揄されたが、宣弘社のドラマはその安っぽいメディアのなかに、戦後の地平から逸脱するようなメッセージを込めていた。現に、東南アジアの某国から持ち帰った宝の鍵がアイテムとなる『月光仮面』第二部「バラダイ王国の秘宝」、シンガポールや中国を舞台にジンギスカンの遺産や清朝再興の野望が交差する『豹の眼』、香港、バンコク、果てはアンコールワットにまでロケに出かけて異国性を演出した『快傑ハリマオ』は、戦後日本の領土感覚を超えた「帝国的」なオリエンタリズムを備えていた(なお『快傑ハリマオ』第一部の第一回から第五回までは日本初のカラーテレビ映画として製作された)。『ウルトラマン』の脚本家になる前に児童文学にコミットしていた佐々木守は、これら宣弘社の子供向けの作品群に「大東亜共栄圏」の亡霊を読み取っている。
これらテレビ初期の宣弘社製作ドラマには、第二次世界大戦、というよりもむしろ「大東亜戦争」の名残りが色濃くにじんでいる。それはあの戦争の時期をたとえ子どもだったとしても、なんらかのかたちで体験したものでなければなかなか理解が困難だったのではないかと思われるし、それは一歩間違えればいまも述べたように該当国からの批判や、もと軍人、外地生活者だった方からの厳重な抗議にさらされたかもしれない要素を含んでいた。[*4]
なかでも、一九六〇年から翌年にかけて放映された『快傑ハリマオ』はかなり問題含みの作品である。移民として渡ったマレーシアの密林で盗賊団として活動し、後に日本軍に協力するようになった日本人の谷豊、通称「ハリマオ」(マレー語で「虎」の意味)をモデルにして、戦時下の一九四三年に『マライの虎』というプロパガンダ映画が作られ、戦後にはそこから政治色を抜き取った山田克郎の娯楽小説『魔の城』が刊行される。『快傑ハリマオ』はこの一連の系譜の延長線上に位置しており、三橋美智也の歌う有名な主題歌も『マライの虎』のオープニングと非常によく似た曲になっている。
映画『マライの虎』では、谷豊が幼く可愛い妹を中国人の暴徒に理不尽に殺された、その復讐心から家族を捨て、さらに日本軍の作戦のために命を投げ出すという、一連の自己犠牲のプロセスが強調されていた。それに対して、大村順一と伊上勝が脚本を担当した『快傑ハリマオ』ではそのような暗さが払拭され、日本の快男児である変装ヒーローのハリマオが、悪徳西洋人と中国人商人に牛耳られた東南アジアを解放するため「正義の味方」として活躍する(なお、宣弘社の企画課長でもあった一九三一年生まれの伊上は、後にテレビ時代劇『隠密剣士』を経て『仮面ライダー』の脚本家として名を馳せる──宣弘社の勧善懲悪のドラマは日本の変身ヒーローの一つの源流にもなった)。いささか驚くべきことに、ここにはかつての大日本帝国/大東亜共栄圏の「大義」がテレビ時代のエンターテインメントとして蘇っていた。
この時代錯誤の亡霊は、ヒーローの存在理由を考えるヒントを与えてくれる。そもそも、戦後日本のテレビはなぜヒーローを量産したのか?この問いにはさまざまな答え方ができるだろうが、少なくとも六〇年代までのテレビヒーローがたんに正義や善を体現するだけではなく、「今・ここ」を超えた外部──『快傑ハリマオ』では過去の東南アジア、『ウルトラマン』では未来的な科学世界──を導入するためのアイコンとして機能したのは確かである。逆に、日本人の想像力から外部が失われれば、ヒーローもののテレビドラマもたやすく「伝統芸能」に陥ってしまうだろう。外部の喪失とヒーローの喪失は表裏一体なのである。
人類学的メルヘンとしての『モスラ』
さらに、ここで重要なのは、このアジアに関わる帝国的な想像力が宣弘社のドラマだけではなく、戦後の怪獣映画にも共有されたことである。そもそも、怪獣映画のイメージや設定は、近代日本におけるアジアの記憶と深く関わっていた。
例えば、東宝の『ゴジラ』(一九五四年)は水爆実験で目覚めた海の怪獣が南方から日本にやってくる映画だが、長山靖生によれば、そこには日本人の抱え込んだ南洋への幻想が投影されている[*5]。南洋は戦時下の「玉砕」というトラウマ的記憶の場であるとともに、「高貴なる野蛮」を連想させるエキゾティックなユートピア幻想の母胎でもあった。「南」に日本人の故郷を認めようとする柳田國男や折口信夫ら民俗学者の想像力も、ゴジラが南からやってくるその一つの遠い淵源になったと言えるかもしれない。
この南のエキゾティシズムが『ゴジラ』以上にもっとはっきり出てくるのが『モスラ』(一九六一年)である。『モスラ』の舞台となったインファント島は架空の島だが、ザ・ピーナッツ扮する二人の小美人の歌うインドネシア語の有名な「モスラの歌」をはじめ、随所に南島(南洋)のイメージが投影されている。そもそも、インファント島は「水爆実験場」に使用された場所なので、視聴者は当然ビキニ環礁やエニウェトク環礁を想起したことだろう。その一方、アメリカに撃墜された「某国」の飛行機の積んでいた原爆を発端とする大映の『大怪獣ガメラ』(一九六五年)はいわば「北」の映画であり、北極海から北海道へと作品の舞台が移動していく。ここでは米ソの冷戦と核開発が、北への想像力を駆り立てていた。
当時の怪獣映画は戦争と核兵器の影を背負っているが、『モスラ』もまた「大東亜戦争」の記憶と切り離せない。文芸評論家の小野俊太郎が指摘するように、脚本を担当した関沢新一には南方戦線(ラバウルやソロモン諸島)を転戦した経験があり、それが戦後の『モスラ』の南洋イメージにも反映されている[*6]。この「南」の地理的想像力は、ちょうど『モスラ』と同じ六〇年代初頭の『快傑ハリマオ』とも共振するものだろう。東京を再び戦時のような廃墟に変えた五四年の『ゴジラ』に比べると、戦後十五年以上を経た『快傑ハリマオ』と『モスラ』からは深刻さが減じており、玉砕や敗戦にまつわる「南」のトラウマ的記憶がいくぶん緩和されつつあったこともうかがわせる。
ただ、『快傑ハリマオ』が戦時下のプロパガンダから男性の「変装ヒーロー」を蘇らせたのに対して、『モスラ』が南洋の小美人と巨大な蛾を登場させたのは、ジェンダー論から言えば大きな違いである。蚕に似た幼虫モスラは甲高い声で鳴きながら、男根的な東京タワー(原作では国会議事堂)をへし折ってそこで蛹になり、やがて巨大な蛾に「変態」した後、二人の小美人を救いにアメリカ(作中の名前はロリシカ)のニューヨークらしき都市を空襲する──、その姿には戦後日本の屈折した性的かつ政治的なコンプレックスが綺麗に映し出されている。東京に垂直的にそそり立つシンボルを昆虫によって「去勢」し、女性化されたエキゾティックなアジアの地平を開くことによって、はじめて戦勝国アメリカへの復讐が可能になったわけだ[*7]。
この「南」の女性性の勝利はメルヘン的な軽やかさを伴う。『ゴジラ』の大戸島の住人が「体中が鰐の皮を鉄で作ったような、ゴリゴリなやつ」(香山滋の原作の表現)の恐怖に震えながら、厄除けの神楽を舞うのに対して、『モスラ』のインファント島の住人は神秘的な恍惚とともに生きていた。
『ゴジラ』がトラウマ的な恐怖を呼び起こす黙示録的な映画だとすれば、『モスラ』は異界の言語や音楽や神話を伴った文化人類学的・メルヘン的な映画である。
実際、福永武彦・中村真一郎・堀田善衞の三人の共作である原作の「発光妖精とモスラ」では「〔インファント島の〕原住民等は、神話とも現実ともわからないような、一種の超現実の時間の中に生きているらしかった」[*8]と文化人類学的に形容され、日本から来た言語学者やジャーナリストを感嘆させる。そして、「文明の汚れを入れることができないほど小さい」小美人をさらったロリシカ≒アメリカの傲慢な男たちは、神話的時空から生まれたモスラによって罰を下されるのだ。『モスラ』は日本・男性・人間というトライアングルを壊し、アジア・女性・昆虫という別のトライアングルを設定した。それによって、かつての屈辱的な敗戦は裏返しになり、むしろ男性的な権勢を誇っていたロリシカアメリカこそがモスラの「空襲」によって壊滅するのである。
ここには、前章で『ウルトラQ』に即して述べた「ジャーナリズム」と「プリミティヴィズム」のモチーフとともに、西洋人の横暴を東アジアの人類学的連帯によって批判するという構図がある。『ゴジラ』は原水爆実験への批判を含むにもかかわらず、黒々としたマッチョな男性的怪獣であるゴジラにアメリカを襲わせなかった。『モスラ』はこの『ゴジラ』の限界を超えて、アジアの小美人と巨大な蛾の力によってアメリカへの復讐を果たす。むろん、『快傑ハリマオ』と同じく、それはかつての大東亜共栄圏の妄想とも無関係ではないが(実際、文脈次第では『モスラ』は十分に反米プロパガンダ映画になり得るだろう)、このどこか危険な人類学的想像力が『モスラ』を批評性に富んだユニークな怪獣映画にしたのも確かである。
『浮雲』における「帝国の残影」
宣弘社のヒーローものと同じく、『ゴジラ』の考古学的な時空にも『モスラ』の文化人類学的な時空にも、その根底には帝国=アジアの地理的想像力があった。大まかに言って、ヒーローが超越的だとすれば、怪獣は内在的である。すなわち、前者には往々にして今・ここの「外部」に跳躍しようとする欲望が託され、後者には往々にして「内部」の無意識の恐怖を暴こうとする欲望が託される。この観点から言えば、宣弘社の「ヒーロー」と東宝映画の「怪獣」の母胎となった「アジア」は、戦後日本にとって外部でありかつ内部でもある。つまり、日本人の遠い夢と憧れの場であり、かつ日本人の内なるトラウマ的な記憶の場でもあったわけだ。
しかも、この帝国=アジアの記憶は、たんにエンターテインメント産業だけではなく、小津安二郎や成瀬巳喜男のような「巨匠」たちの映画にも認められる。特撮からは少し離れるが、戦後サブカルチャーの想像力の性質と深く関わるので、ここで確認しておこう。
歴史研究者の與那覇潤は戦後の小津映画、とりわけ『東京暮色』(一九五七年)で中国大陸が物語の重要な鍵になっていることに着眼しながら、それが「内地のみで完結する日本家族の物語という「嘘」を暴いた映画であり、成瀬監督の代表作『浮雲』(一九五五年)と同じく「帝国という時空間の残像として読み解かれなければ、その意味が生じえない」作品だと鋭く評している[*9]。小津は「日本的」な監督と言われるが、その映画にはしばしば彼自身が兵士として赴いた「中国大陸」の記憶が侵入し、戦後日本のアイデンティティの外郭を揺るがしていたのだ。円谷英二と世代の近い一九〇三年生まれの小津や一九〇五年生まれの成瀬の映画には、大東亜共栄圏=帝国の記憶がときに亡霊のようにフラッシュバックし、戦後の国民国家・日本のファミリー・ロマンスを不穏なものにした。與那覇はこの亡霊を「帝国の残影」と呼んでいる。
この刺激的な考察を引き継ぎつつ、ここで成瀬の映画の原作である林芙美子の長編小説『浮雲』(一九五一年)にも踏み込んでみよう。というのも、この小説に見られる「帝国の残影」は戦後サブカルチャーの盲点を指し示しているところがあるからだ。
戦時中にタイピストとして赴いた仏領インドシナのダラットで自由を謳歌し、敗戦後は貧しい日本でみじめな生活を送る幸田ゆき子を主人公とする『浮雲』では、戦後社会との不適合が大きなテーマとなっている。小津と同じ一九〇三年生まれの林は、ここで「戦後」から疎外された主人公を描いた。興味深いことに、『浮雲』は日本の敗戦を「身体」の欠損の隠喩によって語っている。
この〔屋久島の〕狭い二万ヘクタールも、現在の日本にとっては、得難い宝庫であろう。朝鮮や台湾や、琉球列島、樺太、満洲、この敗戦で、すべてを失って、胴体だけになった日本は、いまでは、台所の隅々までも掘りおこして、大家族を養わなければならないのだ。[*10]
ここで林は、日本の「戦後」がアジアの植民地という手足の喪失から始まったと見なしている。この喪失こそがまさに『ゴジラ』や『モスラ』における怪獣的身体を想像上の代償として生み出すことになる。そして、この「帝国」という身体の崩壊は、男性と女性の運命を決定的に分断するものでもあった。ダラットでゆき子と結ばれた農政官僚の富岡は、今や小心翼々とした「弱い」存在に成り果てている。
仏印では、あんなに伸々としていた男が、日本に戻ってから急に萎縮して、家や家族に気兼ねしている弱さが、ゆき子には気に入らなかった。ゆき子は、富岡の両の手を取って力いっぱいゆすぶった。[*11]
ダラットを含むヴェトナムはフランスの植民地であり、後に日本軍が進駐したことで、多重に植民地化された「ハイパーコロニアル」な場所として現れていた[*12]。戦後の富岡はこのヨーロッパ化された南の楽園の記憶を忘れて、敗戦国日本のわびしい現実──そこは米兵が駐屯し「物哀しいジャズ」が流れるアメリカ化した世界でもある──を受け入れようとする。それに対して、ゆき子は過去の性と情熱を忘れることができず、富岡を文字通り揺さぶり続ける。二人が最後に「国境の島」屋久島に旅立ったのは、この「南」の喪失に対する一種の代償行為である。だが、楽園への通路はもはや閉ざされていた。屋久島でも富岡は「がらんどうなハートで歩いている化物」でしかなく、ゆき子は富岡の留守中に寂しく病死する。
現実から虚構へ
ここで『浮雲』を戦後サブカルチャーの主体性と比較してみよう。林芙美子は『浮雲』発表直後の一九五一年に死去したが、それと入れ替わるように五三年に手塚治虫の『リボンの騎士』の連載が『少女クラブ』で始まる。『リボンの騎士』は「王子様」と「お姫様」のおとぎ話を内破し、ジェンダーを横断しながら女性の主体化の道を手探りした先駆的作品であった(ちなみに、昨今の「カワイイカルチャー」の流行は『リボンの騎士』以前への退行を暗示している──手塚は「かわいい少女であれ」という抑圧に抵抗したのだから)。しかし、この挑戦的な試みは、女性の主体化の物語を「虚構」や「寓話」の時空に閉じ込めることにもつながったように思われる。
『浮雲』がヨーロッパ的な植民地の現実を回想しつつ、最後にはその帝国の夢の残り火のような屋久島で主人公を死なせたのに対して、『リボンの騎士』はヨーロッパの騎士道物語を読み替えたフィクションのなかで、女性の主体化の物語を紡いだ。この「虚構化」は大きな意味をもつだろう。
例えば、一九七〇年代以降、いわゆる「二四年組」の少女漫画家たちが吸血鬼物語やSFを横断しながら、大人の男性性の支配から逸れた者たち(女性、少年、動物、異星人……)の心と身体を繊細に描いたが、それもおおむね『リボンの騎士』以来の虚構化の延長線上にあった。あるいは、精神分析医の斎藤環がカテゴライズした八〇年代以降の「戦闘美少女」たち(ナウシカやセーラームーン等)においても、受け手の男性オタクたちが彼女らのイメージに施す「性の虚構化」が際立っていた[*13]。あるいは大塚英志は、ジェンダーやセクシュアリティの領域を虚構化する傾きのあった戦後日本において、いかに「主体」と「内面」と「身体」の表現が形作られたかという観点から、強力な戦後サブカルチャー史を組み立てている[*14]。
ただ、良し悪しは別にして、もし戦前・戦中の世界構造が続いていれば、アジアも含めた外国の現実に根ざす女性の主体化の物語がもっとたくさんあり得ただろう。『浮雲』には虚構化=サブカルチャー化した戦後日本の失った現実が記録されている。言い換えれば、幸田ゆき子の経験したダラットのハイパーコロニアルな現実がもはや非現実的な夢にしか見えないというところにこそ、戦後日本の核心がある。敗戦と植民地の喪失は、日本のリアリティの座標を大きく変えた。このリアリティの変化のなかで、東宝の特撮映画は、戦前・戦中の帝国的な身体を怪獣によって呼び戻したのだ。
「戦後」の確立
以上のように、宣弘社の変装ヒーローものから東宝の特撮映画、成瀬や小津の映画および林芙美子の小説に到るまで、一九六〇年代初頭までは「帝国」の想像力がたびたび浮上していた。これらの物語は必ずしも深みのあるものではないが(ターバンを巻いて西洋人と中国人を意気揚々と打倒するハリマオ、『モスラ』の幻想的な小美人、植民地支配の問題には目もくれずに楽園の記憶に溺れる幸田ゆき子……)、その他愛ないオリエンタルなイメージが島国日本の限界を超える主体を生み出したのも確かである。たとえどれだけ表層的であったにせよ、この想像力の歴史そのものをなかったことにはできない。
それに対して、六〇年代後半以降の日本のサブカルチャーでは、この戦前・戦中のアジアの記憶が急速に薄れていく(ラバウルでの過酷な戦争体験を妖怪漫画に昇華した水木しげるは、その貴重な例外である)。宣弘社プロダクションは七〇年代前半に『シルバー仮面』や『アイアンキング』のような特撮番組──佐々木守をはじめウルトラマンシリーズのスタッフが多数参加した──を製作しているが、そこでは『豹の眼』や『快傑ハリマオ』に見られた「帝国的」な世界受容はすでに目立たなくなっていた。
ウルトラマンシリーズに関しても、『ウルトラQ』ではまだ南極(ペギラの回)やミクロネシア(スダールの回)が舞台になり、『ウルトラマン』もゴモラのような南島出身の怪獣を登場させたものの(この興味深いエピソードについては第四章で述べる)、シリーズが進むたびに「南」の要素は希薄になっていく。『セブン』における宇宙のテーマの上昇は、宣弘社的な南洋のヒーローの退場と表裏一体であった。「戦後日本」が名実ともに確立されたのは、まさにこのアジアの消失によってである。
宣弘社的なもの(アジアや南洋)から円谷的なもの(宇宙や科学)へ──、もっとも、この図式には反論も出るかもしれない。現に、金城哲夫と上原正三が沖縄出身であったことを踏まえて、一九七二年の沖縄返還に先立つ前期ウルトラマンシリーズに、文字通り「南島」のマイノリティである沖縄人の政治的主張を読み取ろうとする議論は、今も少なくないのだから。
この通説は確かに、近年のインタビューで「今でも山手線の内側に来ると息苦しくなる」と吐露していた生粋の沖縄人・上原正三にはある程度当てはまるだろう[*15]。上原は二〇一七年にも『キジムナーkids』という自伝的小説を発表しているが、そこでは戦中・戦後の沖縄を生きた少年の眼と耳を通して、ウチナーグチ(沖縄方言)が見事に再現されている(特にその名詞の豊かさは驚嘆に値する)。しかし、若くして上京した金城については若干の留保が要るのではないか。
確かに、金城脚本の代表作として名高い『セブン』第四二話に出てくるノンマルト(地球人のせいで海底に追いやられたとされる先住民で、地球防衛軍の海底基地建設に強く反発する)は沖縄人の境遇と似ているものの、この物語がミステリアスな寓話であったことも無視できない。『怪傑ハリマオ』が東南アジアのロケによって物語を肉づけしたのに対して、海底人ノンマルトはそもそも姿も出てこず、海で死んだ少年の霊を介して伝説のように語られるだけなのだ。アジアや沖縄という具体的な場所は、『ウルトラマン』や『セブン』の時空においては存在できない[*16]。
さらに、六〇年代後半における「寓話化」の傾向は、実はウルトラマンシリーズに限らない。例えば、『ウルトラマン』の放映と並行して一九六七年に連載された大江健三郎の代表作『万延元年のフットボール』では、四国の山間の村でスーパーマーケットを経営する朝鮮人が「天皇」と呼ばれていた。大江は安保闘争を万延元年の一揆と重ねながら、山間の村に日本の政治闘争史の箱庭的なミニチュアを作り出し、その敗者を「御霊」として祭った。アジア(朝鮮)はスーパーマーケットの経営者にまで縮小され、四国の森のスピリチュアルな寓話と一体化する──、こうした「見立て」の多用は実は特撮の想像力とも決して遠くない。後述するように、大江は「巨人」や「空の怪物」のような特撮的なイメージに魅了された作家でもあった。
金城もその三歳年上の大江も、戦後民主主義を文化的に牽引した一方、戦後日本の明るさに素朴に順応できた作家でもなかった。だからこそ、彼らはノンマルトの物語や『万延元年のフットボール』で敗者の「霊」をテーマとしたのだが、それらが東南アジアでロケをした宣弘社のドラマと違って、良くも悪くも寓話的であったところに、六〇年代後半の想像力の特性が認められる。彼らの作品は、日本にとっての外部がどこにあるのか、その外部との関係においてある日本とは何ものなのかが、次第に抽象的になっていく時代と結びついていた。
では、宣弘社的なものから円谷的なものへの変化のなかで、つまり「アジア」の喪失と「戦後」の確立のなかで、ウルトラマンシリーズはいかなる世界像を描き出したのだろうか。そして、この世界像は戦後文化史のなかでどういう位置を占めるのだろうか。これらの問いを改めて掘り下げていこう。
*1 佐々木守『ネオンサインと月光仮面──宣弘社・小林利雄の仕事』(筑摩書房、二〇〇五年)第三章参照。なお、小林は一九五五年に欧米の広告(ニューヨークの屋外広告やロサンゼルスの沿道広告)を調査して、その記録を『アイデアの旅──野外広告・テレビを主題として』(ダヴィッド社、一九五九年)にまとめている。小林はまさに「広告のアメリカ化」の推進者であった。
*2 竹熊健太郎『篦棒な人々』(河出文庫、二〇〇七年)二四〇頁。
*3 阿久悠『生きっぱなしの記』(日本経済新聞社、二〇〇四年)九九頁。
*4 佐々木守『戦後ヒーローの肖像』(岩波書店、二〇〇三年)一二八頁。さらに、樋口尚文『テレビヒーローの創造』(筑摩書房、一九九三年)には、宣弘社の「アジアン・ヒーロー」が戦前の『少年倶楽部』における冒険物語の系譜を継ぐものであり、『月光仮面』の生みの親である西村俊一の父(西村俊成)はまさにその『少年倶楽部』の編集部にいたという、興味深い指摘がなされている(第二章参照)。宣弘社のドラマはいわば大人たちの「大東亜共栄圏」と子供たちの『少年倶楽部』の交差点に位置していた。
*5 長山靖生「ゴジラは、なぜ「南」から来るのか?」『映画宝島怪獣学・入門』(JICC出版局、一九九二年)二五頁。
*6 小野俊太郎『モスラの精神史』(講談社現代新書、二〇〇七年)第七章参照。
*7 日本の対米従属の問題をテーマとした『シン・ゴジラ』が、ゴジラをまるで反米的なモスラのように変態させたことは、特撮史への目配せとして面白い。さらに、美術史と関連づけるならば、『モスラ』の空襲の場面は、ゼロ戦によるニューヨーク空爆を描いた会田誠の問題作《紐育空爆之図(戦争画RETURNS)》(一九九六年)を先取りするものでもある。
*8 中村真一郎+福永武彦+堀田善衛『発光妖精とモスラ』(筑摩書房、一九九四年)二〇、二七頁。『モスラ』の監督の本多猪四郎はこの神秘的なインファント島の時空を表現するのに、放射能汚染を和らげる七色のカビの林の美術を殊の外重視していた。本多猪四郎『「ゴジラ」とわが映画人生』(ワニブックス、二〇一〇年)一三七頁。『モスラ』は核兵器の作った世界およびそこからの「治癒」を美学的に描いた映画だと言える。
*9 與那覇潤『帝国の残影──兵士・小津安二郎の昭和史』(NTT出版、二〇一一年)五七、五九頁。なお、蓮實重彦が言うように、『ゴジラ』にはカメラの玉井正夫、美術の中古智、照明の石井長四郎という「全盛期の成瀬組」が結集している。中古智+蓮實重彦『成瀬巳喜男の設計』(筑摩書房、一九九〇年)一一四頁。『浮雲』はその映像のテクノロジーにおいて『ゴジラ』の双子なのだ。
*10 林芙美子『浮雲』(新潮文庫、二〇〇三年)四四八頁。
*11 同右、一〇九頁。
*12 フェイ・阮・クリーマン『大日本帝国のクレオール』(林ゆう子訳、慶應義塾大学出版会、二〇〇七年)七八頁以下。
*13 斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫、二〇〇六年)六三頁。
*14 例えば、大塚英志+ササキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書、二〇〇一年)参照。
*15 『上原正三シナリオ選集』(現代書館、二〇〇九年)付録DVDのインタビューでの発言。
*16 なお、金城哲夫は一九七五年の沖縄国際海洋博の開閉会式の演出を手掛け、沖縄館で上映された記録映画『かりゆしの島沖縄』の脚本も担当した(『朝日新聞』二〇一八年七月三一日付記事によれば、この脚本の生原稿が最近発見された)。しかし、この海洋博は沖縄固有のアイデンティティを脅かしかねないものであった。一九三四年生まれの中島貞夫監督の『沖縄やくざ戦争』(一九七六年)には、千葉真一演じる沖縄のやくざが「海洋博だなんだと腑抜け」になった仲間に向かって「俺たちのクニがヤマトのやつらに食い物にされてそれでいいのか」と叱咤する印象的な場面がある。
プロフィール
福嶋亮大(ふくしま・りょうた)
1981年生。文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンを横断する多角的な批評を試みている。著書に『復興文化論』(サントリー学芸賞受賞作)『厄介な遺産』(やまなし文学賞受賞作)『辺境の 思想』(共著)『神話が考える』『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』『百年の批評』 がある。
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